一人旅に出る理由 ~35歳の誕生日に思い出深い旅をした話(下関、秋吉台、萩、角島)~
生誕35年を迎えられた記念に一人旅に出てきた。
noteに書くくらいにはいろいろな考えがあってテーマがあったので書き記してみる。まぁ、今回はほとんど自己満足の備忘日記だ。1年、2年…5年経ってから見返して、その時の自分がどんな風に感じるのかがまた楽しみなのだ。
【9/23追記】
この記事の一番最初に出てくる(5年前にお世話になった地である)能登半島が震災に続き、豪雨で今年2度目の大規模な被災をしてしまった。天候は誰にもどうにもならない話だが心苦しいし、とても悲しい。この記事のビュー数など大したことないのは承知しているが、もしこの記事を読もうとしている人で金銭的に少しでも余裕がある人がいたら100円で良いので募金して欲しい。私も12000円ほど募金をした。そのくらいしかできることがないが、せめてできることをやっていきたい。
1,一人旅をする理由や目的
30歳誕生日の能登半島一人旅
こうした年齢を区切りにした一人旅に出るのは2回目だ。
初回は2019年の30歳の誕生日。ずっと行ってみたかった能登半島に、自転車を輪行して、海沿いの眺めが美しい道を最高の気分で走り抜けた。この時すでに結婚して配偶者がいたが、平日に有給を取っての一人旅。今回同様にレンタカーを借りてラフなプランだけ立てておいて、自分の好きなペースで、好き放題に移動しながら2日間を楽しみ尽くす、そんなテーマの旅行である。
写真を見れば伝わると思うが、この一人旅の素晴らしさは昨日のことのように鮮明に思い出せる。(逆にあれから5年も経っちゃったのか…)
どうしてこんな旅に出るのかという理由は、普通に「なんかたまには好き勝手やりたくないっすか〜」でも説明はつくのだが、もう少し深い考えもあるので書いておきたい。
自分は何をしたい人間なのかを確認する
たとえば、仕事一徹でやってきた真面目な男性が定年を迎えた時に、プライベートでの趣味や人間関係をろくに築いてこなかったので何をやっていいかわからない状態になるとか、もしくは我々のようなサラリーマンが仕事で疲れてしまって特別見たい情報があるわけでもないのにダラダラとスマホを弄り続けてしまうとか、、、
何か「これをやりたい」と選択をして行動を始めるのは(或いは考えることすらも)とてもエネルギーが要ることだし、定年の事例のように準備や練習をしておかねば衰えていく”能力”のようなものなのではないかと仮説を立てている。
以下の記事は私が4年前に書いたものだが、この記事では社会人3,4年目の頃に経験した過酷な労働環境によって、一度自信や主体性を失ってしまい、逆に労働負担が軽くなり新潟へ転勤したのを転機に、自分の「これをやりたい」を取り戻していく、という過程が記載されている。
私は何か重要なことや大変なことが自分の頭を覆い尽くしてしまうことによって好奇心、引いては「自分は何をしたい人間なのか」を見失ってしまう感覚を知っている。また遠征や旅行に行くことは今でも多いが、遠征メンバーの中でプランニングが得意な人に任せてしまったり、自分で計画するにしても同行者に気を遣った計画・提案になってしまうことがほとんどだ。
だからこそ、一人旅であることに意味がある。
極上の贅沢とは
一人旅は、運転は疲れるし、お金も余計にかかるし、一人ゆえのリスクも多いし、不便なことがたくさんあって、極めつけに何をやらかしても自分一人で責任を負って対処せねばならない。
でも一人でなければ享受し得ない愉しみがある。
たとえば、道端のちょっとした風景に心を惹かれて路側帯に車を停めたくなった時、ある目的地の風景が予想以上に良くて飽きの来るまでこの感覚を味わいたいと思う時、もしくは歴史的な名所で現場に行ってこそ感じることがあって偉人たちの気持ちにしばらく思いを馳せていたいと思うような時、誰かと一緒の場面では相手のペースに合わせて諦めてしまうことがほとんどなのではないだろうか。或いは、同行者のペースが気になって、名所に行ってもそうして深く感じ入ることすらできていないのかもしれない。
こうした染み入るような味わい方はまさしく”自分との対話”とでも言えよう。一人旅の中でも極上の贅沢な時間だ。
ソロロゲイニングのように
また、ナビゲーションスポーツのロゲイニングに出場することがあるが、一人旅の行程の組み方や思考回路はロゲイニングのソロクラスに出場した時にとても似ている。飛行機や宿やレンタカーの予約は事前にしてあり、大まかな回り方やマイルストーンとなる場所・時間を考えてはいるのだけど、その間での目的地はある程度「絶対行きたい場所」「行けたら行きたい場所」「どこかのついでに寄れたら寄りたい場所」のように強弱をつけており、場所と行きたさ(≒ポイント)が様々に散らばっている様子はさながらロゲイニングそのものである。先ほど書いたように行く先々で自分の気持ちに向き合いながらも、移動時間とか距離とか、さらにはそれらを楽しみ切れる自分の体力とか、冷静な判断力も同時に求められるのはなかなか難しく、同時に楽しい。一人旅では「ポイント≒自分の心にグッとくる場所」が行ってみたら予想外にめちゃくちゃ高得点だったり、いきなり行ってみたいポイントが増えたりするのもまた楽しい。
有限の制約に冷静さを保ちながらも、自分の内面も含めて、時々に変化する状況を観察しながら判断を下していく。もちろん少し疲れるが、複雑な一つ一つのピースがハマり、まるでパズルが解けていくかのようにプランが成功した時の快感は筆舌しがたい。
徹底的に自分のために過ごす時間、の貴重さと贅沢さ
この一人旅では、特に誕生日の夜は普段は使わないような少し高めな温泉のあるホテルを予約し、部屋では日記を書いたり、じっくり読みたかった本を読んだり、過去数年間を総括・内省したりして過ごすということを決めている。こういう時間は意識しないとなかなか取れない。家庭がある人なら尚更だろう。(自分も子供がいたらさすがにできない)
時間の使い方という意味でも、お金の使い方という意味でも、家族のいる自分がやるにはとても貴重で贅沢な旅行なのだ。だからこそ、5年に1回でちょうどいい。
2,1週間前になっても決まらない計画…
直前に超イレギュラーな台風が日本を襲来
…とここまで書いたものの、実は本当に誕生日に一人旅に出るか、そしてどこに行くかは1週間前になっても何一つ確定できていなかった。自転車並みの速度で進む大型台風、サンサンのせいだ。8/31-9/1で予定されていた所属するオリエンテーリングクラブの合宿は中止になるわ、で散々だった。(「サンサン」と「散々」でうっかり韻を踏んでしまったことに書いてから気付いたが特に意図はない)
台風の進行はどんどん遅れていくし、合宿も運営側だったので台風速報に注意しながら中止判断にも関わらなければいけないし、別途用意していたナイトメニューは企画内容を凝ったので直前に資料を作成して準備しなければいけないし…でとにかく翌週の旅行計画どころではなかった。
…という現実の裏でもやもやと考えていたことを書いていくと…
前回は北陸の能登半島だったので、今回は西の方に行きたいとなんとなく考えており、やはり運動して気持ちよく美味しいものを食べたいなと思っていたので晴天は前提で何かしらのアクティビティはマスト。(直前予報で9/5,6が雨だったらいっそ別日にするか、いっそ今年は諦める選択肢もありかと思っていた)
ちなみに前回旅行の写真からもわかる通り、私は海を観るのが好きである。
自転車は輪行・ロングライドをするには若干整備不足で不安が大きく、ただのランニングはつまらないので、登山かトレランが有力である。こうした旅行では偶然の発見やセレンディピティを大切にしたいので移動は公共交通でなくレンタカーが良い。自然ももちろんだが、歴史や文化も楽しめる場所だと幅が出て尚良い。
そうすると完璧に合致する場所が九州で1か所あった。長崎県を巡るコースである。雲仙・普賢岳を登山して島原半島と有明海を一望し、長崎の夜景のきれいなホテルに泊まってはどうかと第1案を考えた。長崎は高校の修学旅行で行ったことがあったが、鎖国していた江戸時代の国際交流の拠点としての歴史には興味があり、かねてよりじっくりと訪れてみたかった場所の一つだ。
元々、長崎空港直通便は少なくて高額で、福岡空港に飛んだ方が往復で3~5万円近く安くなりそうかつ距離的にもなんとか行けそうだったので福岡空港便を検討していた。レンタカーも安いプランが多い。4日午後から半休を取って移動すれば、翌日も朝から動ける。
しかし、この台風の進路よ…
翌週には台風は通り過ぎそうなことはわかってはいたが、長崎あたりは台風が直撃している。縁起でもない話で申し訳ないが、この台風で被災した地域に行くわけにはいかないので、台風が通り過ぎて翌日くらいの被害状況にも気を回しておかねばならない。30日金曜日、週末の合宿が正式に中止となり、自宅リモートワークで九州で猛威を振るう台風と関東で猛威を振るう謎のデカい低気圧に関するニュースをテレビで見ていたら、いい加減気にすることが多すぎていろいろ面倒になり、peachの成田空港-福岡空港便の片道それぞれ1万円以下のチケットと、レンタカーも2日で9200円のプランがあったので、勢いで両方とも取ってしまった。元来の短気な性格がここで発揮された。そして、少し冷静になって、若干「あぁ、頭に血が上ってやってしまった…」と頭を抱え始めたその時。
Googleマップを見た時にぼんやりと浮かんでは消えていたプランBを物は試しに検討してみたら、予想外に自分の嗜好にも相当合っていてあらゆる観点で良さそうなことに気付いた。それが今回選択した山口県プランである。
あえて東に戻るという発想の転換
実はGoogleマップを見ながら秋吉台や萩という地名に若干後ろ髪を引かれていたが、なかなか検討の遡上に上がり切らなかった。飛行機で行った場合「せっかく来たルートを東に戻らなければいけない」というやや損な動きが心理的ハードルになったことがその原因だろう。(オリエンティアらしさかもしれない)
新幹線で新山口に行くルートなども選べてしまうのでゼロベースでは選択肢が多くて考えづらかったが公共交通の移動が確定したことで、逆説的に「一応こっちも考えとくか」と発想の転換をすることができた。
また、長崎・雲仙普賢岳のプランAは台風以外にも大きな欠点を抱えていた。福岡空港からの遠さだ。もし9/5に雲仙普賢岳を登山する場合、それなりに早い時間から登りたく、そうなると前日のうちから雲仙や島原半島周辺に近づいて宿を取っておきたい。
前日の福岡空港着は18時を予定、雲仙の宿を調べてみたが、福岡空港からそこまで高速を使ってもGoogleで3時間半の予想。実際にはレンタカーの借用手続きとか生活渋滞とか土地勘のない運転し慣れてない道とか、到着時刻を遅らせる様々な要因が考えられた。
恐らく雲仙の宿に着くのは23時前くらいになるだろう。これはやや疲れてしまいそうだし、雲仙の宿は本当に寝るだけになってしまうのも少し寂しい。
対する山口プラン、なんとちょうどいいところに下関があるではないか。Googleの予想でも1時間20分と、20時前には辿り着けそうだ。
何より福岡県の門司港と山口県の下関を繋ぐ関門海峡・関門トンネルは海や先端の地形が好きな自分としてもぜひ一度行ってみたかった。「これだけのために行きたい」とまでの情熱はなくても「行けたら行きたいくらいの場所」というのは意外と随所にあるものだ。20時くらいならまだまだ空いている居酒屋やスーパーもあるようで、前泊にはうってつけの場所を見つけてしまった。
さらにカルスト地形の秋吉台も以前から一度は行ってみたいと思っていた。
最終回を迎えてしまった秋吉台ロゲイニングに行けなかったのが心残りではあったが、ロゲイニングを毎年開いているだけあって、なんと公式がトレランを推奨していて、専用マップまで用意されていた。モデルコースからショートカットの方法まで掲載されていて、これは心強い。
https://akiyoshidai-park.com/pdf/TRAIL_A3_c_0521.pdf
加えて、周辺情報を調べていたら秋芳洞にも行きたくなった。
私の実家にはバザーで買ってもらったドラえもんの単行本が何冊かあり、30年来のドラえもんのファンである。出木杉があのジャイアンに激怒する下図のシーンは4歳くらいの私にとって衝撃で、この後ジャイアンが泣きながらドラえもんとのび太に縋り付き、ひみつ道具を使って鍾乳石を元通りに復元しに行く下りは未だに覚えている。自然を愛し、子供たちにも自然を愛する心を伝えたいと願っていた藤子・F・不二雄先生らしい印象的な話だ。
つまり”聖地巡礼”というやつか、この話の舞台となった秋芳洞で、ジャイアンがどの鍾乳石を折ってしまったのか想像するのも一興だろう。
どんな5年間を過ごしたか?が決め手
そして何より、秋吉台から1時間北に向かうと萩市があった。
ここは明治維新の時期に活躍した吉田松陰と高杉晋作の出身地である。
もちろんコテンラジオに出会うまでは彼らの存在を強く意識することはなかったが、パーソナリティたちの語りで紡ぎ出される彼らの人間性やバイタリティはとても魅力的で、いつか必ず彼らのルーツである萩に行きたいと考えていた。
コテンラジオのルーツを巡る旅行では昨年、先にオスマン帝国(トルコ・イスタンブール)に行ってしまったのだが、やはり原点の原点に立ち戻るべきということか。
長崎のプランも雲仙・普賢岳を下山した後は自由度が高く、きっと長崎の街は歴史的好奇心を満たす場所で溢れていて、調べていけば今回の旅に勝るとも劣らない素敵なプランが立てられたであろうことは間違いない。(もちろんいつか実行したい)
しかし今回は、調べていくうちに行程という現実的な面のピースがハマっただけでなく、心のピースがピタッとキレイにはめ込まれたのだ。
30歳になった2019年9月から35歳になる2024年9月まで、自分や社会に何が起こったかをふと考える。3大トピックを挙げるとするなら「コロナ渦」「ランナーとして思いっきり振り切る」、そして「コテンラジオとの出会いとそれにともなう心境・価値観の変化」であろう。先の2つだけでも、たったの5年間の間に起こったとは思えない密度だったが、それに並ぶくらい「コテンラジオとの出会い」は大きかった。
初めて聴いたのは2021年1月頃だったろうか。未曾有の感染症による行動制限でどこか塞ぎ込んだ気持ちになりがちだった当時、歴史を変えるために行動をしてきた様々な人物のエピソードに、良くも悪くもいろいろな形で勇気をもらった。(ちなみに歴史人物だけでなく、深井さんや樋口さんの考え方にも多大な影響を受けている。)
この5年間に自分が起こせた行動や内面の変化にもこれらは密接に関わっている。それほど自分にとって大きな出会いに、やっぱり「この5年間を総括する旅の目的地は萩しかない」と肚が決まった。
3,旅行0日目(9/4)
生来の鳥瞰好きが興じてフライトがエンターテインメントに
前日の9月4日は午後休をいただいて、成田空港に向かい16時頃発のpeach aviationの飛行機を利用した。今まで一度も使ったことがなかったが、シンプルピーチというプランは座席指定にまで課金される代わりに基本料金たったの6560円で福岡空港まで飛べるという衝撃のプランだった。(ただし基本料金のみでは変更不可なので注意)
座席指定は窓際と通路・真ん中が50円しか違わなかったので遠慮なく窓際を指定した。これはかなりの好判断で、フライト中ずっと楽しかった。
窓から外を見下ろせば…
千葉県の土地利用に始まり、江戸川を超えてビル群と首都圏の賑わい、すぐに丹沢や奥多摩の山地が見えてきて、あっという間に富士山。でも分厚く立ち昇る雲が大きくて富士山が小さく見えるくらい。
ビックリするほど早く北アルプスの美しい尾根が見えてきて距離感が狂う(もしかしたら南アルプスだったのかな)。首が疲れてきて少し休んでいたら淡路島に小豆島、本州から四国に渡るマリンライナー、しまなみ海道があって、島と沿岸部を観ながらどれがどの島か当たるのはとにかく楽しい。また少し首を休めたらいつの間にか関門海峡。通り過ぎていく今日の目的地。
福岡県に入ると全日本リレー前日大会で使われていた細長ーい「海の中道公園」のある半島が見えてきて、あっという間に福岡空港。
なんでこんなミスったら被害最悪の大都会みたいな場所に空港があるの?といつもながらに思いつつ飛行機は左に急旋回。もちろん安全運転で無事着陸。
こんな感じで2時間寝て身体を休めておこうと思っていたフライトは窓の外を観るのが楽しくて楽しくて寝ている暇なんか与えない究極のエンターテインメント。窓際を指定した840円の元は完璧に取れた。
都会発のレンタカーが未だにすごく嫌
フライトでこんなに上がり切ったテンションが数分後すぐに下がる。
私は車を持っていないので遠征に行く頻度とメンバー次第では全く運転しないで数ヶ月数年を過ごすことがある。(今回、ブランクは3か月くらいだったろうか…)
とにかくそんな半ペーパードライバー状態で、難しい大都会の道路の車線変更や生活渋滞の道路の合流などをしなければいけないのは大変なストレスなのだ。先ほども書いたが福岡空港はなぜか大都会博多駅と異様に近い。羽田や成田もそうだが、通常空港はビジネス街や住宅街から少し離れた空き地や埋め立て地のような場所にある。そのため、レンタカーを借りてすぐの道はたいてい交通量も少なく、複雑な分岐や合流もなく、ある種車を動かすための慣らし運転に使えることも多いのであるが、福岡空港は全然そうは行かなかった。
まずそもそもレンタカー屋を出る時の合流が”生活渋滞で全く車が途切れない1車線道路を右折して合流せよ”という鬼教官ぶりだった。公道に出る前から早速の試練、堪らずとりあえず左折で合流。適当な場所で右折してコンビニでも入って折り返そうと思うものの、別の道に誘導し始め、従ったらいきなりすれ違いギリギリの生活道路に入ってしまう。早速ひやひやしながらそこを抜けると今度は信号のない丁字路での左折合流(もちろん生活渋滞)、そして突如現れる左折専用レーン。運転開始30分ですでに涙目。まずはコテンラジオ吉田松陰編を聴き直しながら萩への気持ちを高めていこうと思っていたが、運転に集中力を要するあまりイライラしてきてしまい、楽しいエピソードの笑いどころで一切笑う余裕がなかった…orz
自分のしょうもなさに落ち込みながらも、下関に希望を見出す
35歳にもなるのに、こんなに小さなことでイライラしてしまって、なんてしょうもないんだ自分と若干失望しながら到着した下関。コテンラジオは高杉晋作編に突入。
小心者ゆえ一人飲みは苦手なので、スーパーで刺身と酒でも買えればいいなと希望的観測を持っていたが、均質化の権化であるイオン(さらに閉店間際)では胸が高鳴るような食物は一切見当たらず、さすがにその中から選ぶのは辛いので仕方なく夜の街へ。
安くて美味しい魚が食べられると評判の”おかもと鮮魚店”は普通に鮮魚店もやってるっぽかったので、「もしや刺身のパックとか変えるのでは?」と店内を覗こうとしたら、
「何名様ですか?」「い、一名です…」
とうっかり言ってしまい、一人飲みへ吸い込まれる。しかし、行ってみて良かった。
4名で掛けられるタイプのテーブルの左側に2人のおじさんが向かい合わせで座っており、メニュー立てで微妙な仕切りをつくってその隣。人と人が近接してて、みんな酔っててうるさくて、本来なら苦手なシチュエーションであるが、一点幸いなことに店員は外国人で話しかけてもこない。
じゃあもう開き直って好き放題やろう、となって、左耳だけにイヤホンを指してコテンラジオ高杉晋作編を聴きながら、生ビールと「この量で1100円だと!」と驚くような刺身盛り合わせを頼む。キンキンに冷えたビールで喉を潤すと、ようやく「あぁ、最高だ」と思えた。福岡空港からの道中ですっかり弱気になっていたことに気づく。
ここはあの馬関である。
高杉晋作が「馬関のことは私にお任せください」と啖呵を切って奇兵隊を創設した町、連合艦隊と講和交渉で外国人を圧倒した町、あの歴史の舞台”馬関”である。そこでコテンラジオを聴きながら美味い酒と美味い刺身を食べている。そんなんもうすでに最高だろ。関門海峡を渡った瞬間から、もう旅は加速して走り出している。気後れしている場合ではない、同じアホなら踊らにゃ損、踊れ踊れ。
そこからはもう、一人で音楽聴きながら無言でニコニコしてる上機嫌なおっさんになり切って、ひれ酒やらふぐ身ポン酢やらも頼んでいい感じに酔いも回ってきて、無茶苦茶楽しむことができた。
ちなみに、最初深く考えずに刺し盛りを頼んだが、明日トレランをするというのに炭水化物がないことに途中で気づいて(海鮮丼にもできたのに)、追加でおにぎりを頼んだ。すると、逆に明日トレランするの知ってんじゃないかと思うくらい馬鹿デカいおにぎりが二個も出てきた。(酔ったおっさんが〆に食う大きさじゃないだろ😅)
お腹に食べ物が溜まったまま寝るのが苦手なので、おにぎりのカロリー消費と関門海峡の観光を兼ねて、ホテルに戻ってから軽くジョグるも、時間が遅かったのでトンネルの歩行者通路はもう閉鎖されていた。
翌朝ちょっと早めに出て最初に関門海峡に寄ろうかな、という計画だけ立てて、いい気分で旅のスタートを切ることができた。おかもと鮮魚店に感謝。
4,旅行1日目(9/5)
関門海峡
翌日は朝6時くらいに出発で早速関門海峡へ。
壇ノ浦の戦いと下関戦争という時代の異なる大きな2つの戦いの舞台である。下関戦争で活躍したという5門の砲台は後々萩で味わい深く回想することになる。
秋吉台
早め早めの行動が功を奏し、7時40分頃に到着。着替えてあったのですぐにトレランへ。こんな時間に入山している人はほぼおらず、最初の1時間くらいはこの広い景色を独り占め。途中草が伸びすぎてて酷いところなどもあったが概ね晴天で爽快で最高。約2時間半18kmを走って展望台で飲んだマッチは震えるほど美味かった。
自分がこれから向かう道と自分がこれまで歩いてきた道が一望できる圧倒的な良さ。多くの言葉はいらない、ただこの景色があればいい。
秋芳洞
秋吉台とは打って変わって暗闇の洞窟”秋芳洞”。
こちらももうジオパークの迫力に圧倒、としか言いようがないような風景が広がる。洞内は涼しくて、地形の不思議さに子供が湧きたつ様子なども微笑ましい。ジャイアンが思わず手を出して鍾乳石を折ってしまうのもわかる気がする。
松陰記念館
ここは萩城下町の5kmくらい手前にある、道の駅に併設された記念館。
早く萩の中心地に行って松下村塾や明倫館を観たかったので立ち寄る予定はなかったが、大量に並んだ長州藩士の立像に圧倒されて思わず車を停めた。
その立像の出で立ちに違わず、長州藩士たちへの信愛や尊敬の念が感じられる施設だった。松下村塾の講義の様子を人形や音声を使って表現した展示があって、その後実際に松下村塾に行った時にイメージが湧きやすくなった。
松陰が小伝馬町の牢屋敷で書き上げたという有名な辞世の句「留魂録」が記載された直筆の手紙もあって感動した。
また、ここには萩の町を鳥瞰した大きな地図模型があった。20代後半くらいの娘さんを連れた親子3人連れの一家が先に来訪しており、女性スタッフに萩の見どころや回り方を訊いているようだった。私は最初他の展示物を観ていて、しばらくしてからその4人がずっと萩の町いろいろなモデルコースについて話していることに気付いた。スタッフの女性に幅広い知識があり、吉田松陰だけでなく、高杉晋作や久坂玄瑞や桂小五郎(木戸孝允)…様々な長州藩士についてどの場所にどんな所縁があるのか、話しながらおすすめしている様子だった。もちろん、このような場所に勤めているスタッフが地元出身の歴史人物について詳細に語れるのは別に驚くようなことではないのかもしれない。そういうこと以上に感じたのは熱量と愛だ。
このスタッフは自分に向けて語りかけているわけではないので、じっくりと顔を見たわけでもない。しかし、傍から聴いているだけでも、声の調子からこの萩の町で生まれたヒーローたちをどこか誇らしげに語っているのが伝わってくる。そういう対象への愛を包み隠さずに話してくれる人の話は好きだ。ずっと聞いていたいような心地良さがある。
本当にこの一家に混ざって一緒に話を聞いていたいくらいだったが、もう13時を回っていたので、萩観光マップだけもらって後ろ髪を引かれながら記念館を後にした。ちょっとした気まぐれだったが、素敵な時間だった。
松陰神社・松下村塾
萩には吉田松陰・高杉晋作以外にも、晋作と並んで松下村塾の双璧と言われた久坂玄瑞、初代日本総理大臣の伊藤博文など、所縁のある偉人がたくさんいて、小さな町の所々に名所が凝縮されている。どこからどうやって回るかは非常に迷ったが、やっぱり最初はココ、数々の才能を輩出した松下村塾を見なければ始まらない。
今では松陰神社と呼ばれるその一帯は吉田松陰を祭る神社となっていて、その敷地内に松下村塾と、吉田松陰が逮捕(幽囚)されていた時に閉じ込められていた建物があった。
松下村塾は本当に小さな小さな小屋だった。ここでも長州藩士の偉人たちの写真が額縁に飾られており、松陰記念館の模型で講義のイメージを持っていたのも相まって、若かりし頃の伊藤博文や木戸孝允(桂小五郎)がここで松陰と一緒に学んでいたのだなぁ…と感じ入ることができた。
コテンラジオ内では、松下村塾は今の言葉で言うと”ネトウヨ育成所”のような感じで、当時の大人たちが眉を顰めるような場所だったと紹介していたが、こんな日本の辺境の(もしこれを読んでいる人がいたら萩の位置をGoogleマップで確認してみて欲しい)、こんな小さな小屋で学んだ人たちが、列強に囲まれてもビビらないような対等な目線と視座の高さを持ち、混乱した時代を力強いリーダーシップでまとめ上げ、日本の未来を描いて創り出してきたのだと思うと本当に感慨深い。
たとえば今、自分が苦手意識を持っていたり、嫌悪感を持っているようなものであっても、そんな感覚はきっと全然あてにならないのであろう。日本を、世界を、変えるのはその中の一つかもしれないのだ。私の目はやっぱり大した役に立たない節穴だ。
そう確信できるくらいに、松下村塾は日本の希望と未来が詰まっているとは到底思えない片田舎の小さな小屋なのだった。
やはりこういうギャップこそが現地に足を運ぶ醍醐味なのだ。イメージの松下村塾はもっと崇高で、でも現実は誰かがきちんと演出しなければそういうことに気付けない自分の鈍さを自覚するばかりだった。愚かではあったが、このようなそこに行かないと味わえない気付きこそが、真に素晴らしいと思うのだ。
吉田松陰の生家・吉田松陰や高杉晋作の墓
松陰神社からとても狭い道を約1.0㎞、凄まじい傾斜の道を登ると吉田松陰の生家とすぐそばに墓がある。生家と墓の真ん中には松陰の銅像が建設されていた。
松陰の生家はそれほど裕福ではなかったのであろうことがすぐにわかった。萩城が萩市街地の最西端にあるのと対照的に、生家は最東端にあり、さらに先ほどの松下村塾のあった場所から急坂を100m近くは登ったのではないだろうか。とてもじゃないが厚遇されていたとは思えない。
この墓にも必ず訪問したいと思っていた。
安政の大獄で処刑されて江戸で埋葬された松陰を、桂小五郎や高杉晋作ら弟子たちが掘り出して、故郷長州の地で静かに弔ったというエピソードは̪師弟の絆を象徴するようで実に感動的だ。
また、ここは松陰の墓だけでなく、松陰の家族や、久坂玄瑞や高杉晋作といった幕末に活躍した長州藩士、そしてその家族の墓も併設された、ちょっとした集合墓地だった。
ここを訪れて最も感動したのは、高杉晋作の墓に手を合わせた時だった。
晋作の墓に添えられた花は花びらが鮮やかで、明らかについこの間誰かが持ってきたものだった。
もちろん、晋作には子供がいたし、ほんの数週間前がお盆だったのでその時に高杉家のご子息が持ってきたものかもしれない。しかし、幕末の日本を心から案じ、行動した末に熱く散っていった彼らを弔う萩の人々の尊敬の念をその花から感じられるようで、思わず心から手を合わせ、自然と涙がこぼれた。どこか自分自身も、彼らに勇気をもらえたことへの感謝と尊敬の念を表すような時間だった。
松陰と玄瑞と晋作は、この場所で一緒に、今でも萩の人々から尊敬され、愛されながら眠っているのだ。当たり前に想像できるようなことではあるが、墓を訪れたことで心から実感できて、松下村塾とは逆の意味でとても良い時間を過ごすことができた。
高杉晋作の生家
萩の町のど真ん中に名門の藩校・明倫館がある。
ここから西に行くと城下町の様々な名所に徒歩でアクセスできるので、明倫館の駐車場まで一旦車を移動させ、先に高杉晋作の生家を訪問した。
晋作の生家は半分は入れないようになっていて、入り口で集金をしていた管理人の男性は今も高杉家を守るご子息の方だったのかもしれない。
ここでは晋作の家族の写真や晋作のルーツを感じさせる品の数々があった。晋作を野山獄に閉じ込められた時に手を差し伸べた父:高杉小忠太は想像より柔和なイメージだった。息子:高杉東一の写真もあり、この方はもうスーツ姿が様になっていて、本当に育ちの良い地元の名士という印象だった。
また、晋作が妻に送った直筆の手紙があったが、やはり松陰は達筆だったようだ。比べてみるとだいぶ字が乱雑で、あまりにも2人のイメージ通りで面白かった。また、私も字が下手なので、ちょっと安心すると同時に高杉晋作への親近感が深まった。
菊屋家住宅
ここは全く計画になかった場所。
高杉晋作の生家がある萩城下町一帯は世界遺産に登録されていることをパンフレットで知った。菊屋家住宅は全くの想定外だったが、国指定重要文化財という文字の並びに色めき立ち、思わず入ってしまった。
入場すると解説員の女性スタッフがいて他の来場者もいなかったので、この文化財についてたくさん話してくれた。菊屋家は萩藩の御用商人、今で言う総合商社のような存在で、この時代は一つの家が会社のような働きをしていたらしい。また菊屋家以外にも同じような豪商の一家がここ一帯に4軒くらいあって、呉服や塩など、それぞれに得意分野を持った専門商社的な存在だったとのこと。
この日も例の漏れず暑くてたまらなかったが、広い庭のある部屋には入った瞬間から爽やかな風が吹き抜けた。ここは萩の殿様を迎える応接室だったらしい。その他にも、いかにも経営をしていたのだな、と感じるそろばんと帳簿のある部屋や、菊屋家で取り扱っていた多様な商品が目白押し。
岩倉使節団がアメリカから持ち帰ったネジ巻き式の柱時計は今でも動かしているらしく、1870年代のものであるというから驚いた。こうした歴史的・文化史的な貴重品はやっぱり現物を見ると感動してしまう。
明倫学舎
もう少し萩城下町を回ってみたい気持ちもあったが、普通に暑さで参ってきて、充実した表情で明倫学舎に戻ってきた。萩の名物、夏みかんのソフトクリームが美味い。
明倫学舎は数年前まで小学校舎として現役で使われていたらしい。現在では4号館のさらに裏手に新校舎が建設されていて、それが新しい明倫小学校となっている。現在、明倫学舎の方は資料館・博物館となっていて、展示の数々は心惹かれるものばかりだった。最初に目についたのは日本の近代化に大きく貢献した長州ファイブ(遠藤 謹助、井上 勝、伊藤 博文、井上 馨、山尾 庸三)の5人の姿だ。
伊藤博文が初代内閣総理大臣であることは有名だが、井上馨は初代外務大臣で外交の父、山尾庸三は東大工学部の前身となる工学寮をつくった工学の父、遠藤謹助は造幣の父、井上勝は鉄道の父だ。資料を読んでいて「えっ、それも長州なんだ、、、」と率直に思うことの繰り返しだった。
これだけの実績を持って、松下村塾に通っていたメンバー以外にも今の日本を形作った偉人が長州にはたくさんいたことがよくわかった。
また、製鉄近代化へのチャレンジとして反射炉での実験が紹介されていた。これは列強からの脅威に備えて西洋式の鉄製大砲、つまり近代的な武器を自ら製作できるようにするための試みだった。以下、萩市の観光サイトから反射炉の説明を引用する。
コテンラジオでは吉田松陰・高杉晋作・桂小五郎など、どちらかといえば政治や戦争の舞台で活躍した人物のストーリーが中心になっていたので、どちらかといえば政治的な面で強い萩藩というイメージがあったが、たとえばあのエピソードの中に出てきていた”軍備増強施策”という中にこういった近代科学に基づいた取り組みが含まれていたことを初めて知ることができた。
佐賀藩との交渉で粘って粘り倒してスケッチだけでも許してもらったというエピソードは如何にも萩藩らしいと思うが、こうした技術・理系的なバックグラウンドが育っていたのを観るにつけ、決して陽明学的な勢いや度胸だけでこの藩が強くなったわけではないのだと思い知ることができた。
ちなみに蛇足だが、1852年にイギリスが作成した世界地図、も公開されていて、その精度がおぞましいほど良く、さすが大英帝国、、、と思った。小国・日本が彼らに絶対勝てないと思うのは必然だ、、、
明倫学舎はとても立派な校舎で、教育に力を入れていた萩藩の思い入れも伝わってくる。松下村塾はただの小屋に見えたと先ほど書いたが、こうした藩校での堅実な(儒教的な)教育の基礎があったからこそ、応用編として松下村塾で才気あふれる者同士のディスカッションが才能を伸ばした、そんな両面があるのではないか、そして政治を引っ張る才能が松下村塾から生まれた上でそこに技術や知識で追随し、バックアップする人材が同時に萩藩から育っているということを学べたのはとても良かった。
決して松下村塾のメンバーだけが日本を変えたわけではないのだ。
コテンラジオ高杉晋作の最終回で樋口さんが言っていたが、この資料館に登場したような技術屋たちも”大きな時代のうねりの中でそれぞれは対立しながらも、エネルギーを爆発させて時代をつくっていった一人”なのだと感じた。
萩城址
萩の町の最西端に萩城がある。慶長9年(1604)に毛利輝元が指月山麓に築城したことから、別名指月城とも呼ばれ、山麓の平城と山頂の山城とを合わせた平山城で、本丸、二の丸、三の丸、詰丸からなっている。
残念ながら1874年に取り壊されてしまったらしい。
晋作がみんなが議論に行き詰った時に都々逸を唄ったのはこの場所だったのだろうか。そんなことに想いを馳せてみる。
ちなみに萩藩の防衛体制について詳細に知るために、突如バーティカルが始まった。
菊が浜
砂が白くてエモい浜、眺め最高。
後から調べたら「菊」は先ほどの菊屋さんの「菊」らしい。
どなたかのPVの撮影と海岸で遊ぶ若者カップルがいた。(バーティカル後で疲労して頭がおしまい、語彙がアホ)
萩反射炉
明倫学舎で知った反射炉の実物。
思いっきり宿の道中だったので立ち寄る。デカいぜ、萩藩よく頑張った。(バーティカル後で(以下略))
萩観光ホテル
ようやく着いた…
行程を決めたのは自分なのだが、それしかない…
当然スマホは持ち込めなかったが、海に面した温泉は最高。部屋からの眺めも素晴らしく。
明日朝はすぐそばの笠山に行こうと思った。
ここで夜に考えた内容は最後にまとめて記しておきたい。
5,旅行2日目(9/6)
笠山(朝ジョグ)
宿の食事でお腹がいっぱい&酒による眠りの浅さで3時半くらいに目が覚めてしまうという、最悪の目覚め。出来るだけ目を閉じて回復を図りつつ、まだ真っ暗な午前5時走り出す。夜明け前の海は今日も蒼い。笠山までは普通にヘッドライト欲しいくらいのトレイルで怖い。
日の出時刻ちょうどに着いたはずだったが、雲が厚くて全然日の出を観られず、山頂を15分くらいグルグル。
野山獄
寝不足による疲労を自覚したまま2日目のドライブが開幕。前日に野山獄に行ってないことに気付き、萩を出る前にここだけは行きたい、と立ち寄る。松蔭や晋作が閉じ込められ、自分を見つめ直した場所。
涙松
本当にちょっとした史跡。次の目的地へのルートから1km外れただけの場所にあったので寄ってみる。萩を出る者は皆ここで萩の町を見下ろし、別れを告げ、涙する、とのこと。今のシチュエーションにピッタリだ。
さようなら、萩よ。
金子みすゞ記念館
萩の中ではまだ松蔭神社内の資料館や萩博物館など2日目ももう少し観光する選択肢もあったが、萩市の隣の長門市に金子みすゞさんの記念館があることを知り、興味を持った。
長州・萩藩士の歴史をさらに味わう選択肢もあったが、小学生の頃に金子みすゞの詩が好きだったし、いろいろな人の価値観に触れた方が学びが多いと考えて金子みすゞ記念館に行くことを選んだ。
金子みすゞ記念館はみすゞさんのご実家の金子文英堂という書店だった。みすゞさんは県立深川高等女学校の頃から才覚に溢れ、人気者で、誰からも愛されていた様子だ(辻村深月さんっぽいと思った)。
級友によると、授業中にみすゞさんが居眠りをしていて、先生も多分叱るつもりでみすゞさんに授業に関する難しい質問をしたのに、質問にスラスラ答えて同級生や先生を驚かせたらしい。この建物の入り口には女学生時代のみすゞさんと写真を撮れるパネルがあったが、童話詩人・偉人”金子みすゞ”になる前のかわいらしい女学生みすゞさんが思い起こされて、とても良いエピソードだと思った。
当時の部屋も再現されており、ここで家族に愛されながら文学少女の才能が開花したのかと思うと感慨深い。本館のほとんどの展示は撮影が禁止されていたのが残念だったが、彼女の人生をより深く知ることができた。
また父親を早くに亡くしたため、弟・上山雅輔さんは下関で上山文英堂という大きな書店を経営する上山松蔵に養子に出される。ここは姉弟の叔母(母の妹)の嫁ぎ先だったらしい。その後、雅輔さんはお姉さん同様に文学の才能を発揮して劇作家・小説家として活躍する。やはり本屋さんに生まれると、自ずと文学や創作の世界を志すものなのだろうか。
ちなみに叔母が亡くなった後に、養父・上山松蔵とみすゞさんの母は結婚し、実の姉弟でありながら義理の姉弟でもあるという謎の関係になったそうだ。
姉弟仲はとても良かった様子で、この後、不幸な運命により若くして亡くなってしまうみすゞさんの遺稿を世に残そうと尽力したのは他でもない雅輔さんだった。多忙な劇団経営の傍らずっと努力し続けて、とうとう遺稿集が発刊されたのは1984年、彼が亡くなるほんの5年前のことだった。
みすゞさんが亡くなったのは1930年なのだ。54年もの間、亡くなった姉を想い、姉の作品と才能を心から信じ続けたその献身に、ただただ感動してしまった。彼の献身によって、今私たちは金子みすゞの詩に触れることができるのだ。
27歳で閉じることになった晩年はとにかく悲しい。そうした事件の数々も彼女の作品や言葉に深みを与えることになったのだろうか。
ここは金子家の実家なので片側だけの主張を見ていることになるが、それを差し引いても彼女の夫は酷い人、端的に言うとクズだった。
元々、上山文英堂の番頭だったが、女癖の悪さで知られた男で、彼の不貞により上山家との関係が悪くなり、上山文英堂を追い出される。1927年、夫からうつされた淋病を発病。1928年、夫から創作や手紙のやり取りを禁じられる。1929年頃には病状が悪化し床に臥せることが多くなる。1930年、夫と別居し、3歳の娘を連れて上山文英堂へ戻る。同2月、正式に離婚が決定。3月、みすゞが主張した親権を一度は受け入れるものの、主張を翻して親権を強固に要求。(当時の法律的には父に親権があったらしい)
そして1930年3月9日、みすゞは近くの写真店に行って写真を撮り、娘をふろに入れた後、寝付いたのを見届けてから、夜の内に服毒自殺を遂げ、短い生涯を閉じた。3通の手紙を残し、うち1通は夫宛てのもので以下のような内容であった。
…率直に言ってきつかった。。。
しばしば上山家・金子家の人間が夫との間に入っていたようだが、クズにもほどがある。なんだかやりきれない気持ちになってしまった。26年間の短い生涯の中で、作家として、母として、一番開花する時期をこんなクズ人間に奪われてしまうなんて。
このクズ男は本名を「宮本啓喜」というらしいことを後から調べて知った。というのもこの記念館の展示品には「夫」としか記載がなかったからだ。最初「なんだか不自然な表記だな」と思ったがすぐに理由がわかった。金子家や上山家の人間は宮本を、名前も出したくないほどに憎んでいるのだ。
死んでも許してもらえないような所業が、この世にはある。
…とまぁ、金子みすゞの生涯に関する展示はジェットコースターのように感情を揺さぶられるものだったが、その後、詩の展示があり、クズ男宮本にズタズタにされた心を癒すことができた。
「みんなちがって、みんないい。」の詩は何というタイトルだったか全然思い出せなかったが、「私と小鳥と鈴と」というタイトルだったことを思い出し、詩の全体をじっくりと、世界観に浸りながら味わうことができた。なんとこの記念館には「みすゞの詩検索システム」があり、晩年の上山雅輔さんの朗読つきだ。(正直ただのおじいさんのしゃがれ声ではあったが…)
うーむ、良い。
ちなみに、やなせたかしも金子みすゞのファンだったらしく、やなせさんから送られた展示も一コーナーあった。(こんなところにもコテンラジオが)
元乃隅神社
最後の2か所は当初の海岸ドライブプラン通り。
頭を一切使わないビジュ担って感じの「海」「島」「最高!」風景を観に行く。切り立った崖の上から赤い鳥居がずらーっと並ぶのは壮観で最高!
以上。
角島大橋・角島灯台
沖縄の美ら海と見まがうほどのエメラルドグリーンの美しい海を観られたのがこの角島。最終目的地にふさわしく思わず溜息がこぼれた。ここもビジュアル担当かと思っていたが、歴史も含めて予想以上に良くてかなり長居してしまった。(もし時間が余れば福岡県の沿岸部あたりも少し観光しようかと考えていた。)
角島灯台のある夢崎は九州・四国・阪神方向から来た船が関門海峡を抜けて、日本海沿岸の若狭、北陸、東北方向へと向きを変える”変針点”で、日本海航路の中でも特に重要なポイントだったそうだ。さらにこのあたりは遠くまで浅瀬が続く難所で、江戸時代から遭難事故が多発、近年になってもこの海域での貨物船の事故が後を絶たない場所とのこと。
このため、明治の初期に日本の沿岸貿易を重視した政府が主導でつくったのがこの角島灯台だったそうだ。日本海初の洋式灯台で、英国出身の技師ブラントンが設計し、工事現場監督を長く担ったジョセフ・ディックは初代灯台長となり、この島の人たちとすっかり馴染んでいたようだ。なんだか微笑ましいエピソードだった。
今回の旅のメインテーマは尊王攘夷に燃えた長州の幕末志士たちだ。
そもそもなぜ幕末に明治維新が起こったかと言えば、列強と呼ばれる外国が日本をアジアの後進国と見くびって介入してきたからだ。加えて言うなら彼らの植民地支配の正当性を主張する理由として”劣った後進国への技術協力”が便宜的に使われていた印象がある。
もっと広げてしまえば、現在世界中の誰もが手もつけられない状況になっている、パレスチナーイスラエル問題の直接的な原因となったのは第一次世界大戦中のイギリスの三枚舌外交だ。
どうしても列強ムーブをしていた頃の英国に良いイメージがなかった。
しかし、こうして顧問外国人として呼ばれ、本当に技術協力していた事実もあるのだ。もしかしたら日本も含めた諸外国のそういう姿勢が英国を増長させてしまったのかもしれないが、最後の目的地でこうした外国人との協力・共生の一場面を観られたことは、なんだか良かった。そして、そこを上手く技術協力という名目でwin-winな形でまとめ上げられること自体が「さすが長州藩!」なのかもしれない。
角島の先端の岩に腰かけていたら穏やかで優しい風が吹いた。
動きまくったので疲れ果てて日本海に足を向けて寝っ転がると、「いい旅だったな」と総括できた。ちょうど13時、帰路につくことにした。
角島~下関~博多の帰り道
角島~下関の海岸を走るのはとにかく素晴らしかった。
以下写真の向日葵が咲いているポイントは、たまたま路側帯があったから写真を撮れたのだが、もう目の中にカメラ内蔵しておきたいと思った。
特に関門海峡と門司港の町がおぼろげ見え始める下関から北に5~10km手前くらいの地点からの眺めは最高で、仕方ないから網膜に焼き付けた。
別に運転はそんなに上手くはないのだが、やっぱりシーサイドビューのドライブってやつは最高だ。
帰り道に社内で流すプレイリストは夏らしい曲に変えていたが、Spotify内に落ちてるどのプレイリストを選んでも編曲がしっくりこなくて、いつぞや自分で作成した「帰り」(≒一人で車遠征している時の帰り道に聞きたい曲集)というプレイリストの存在を思い出し、「あぁ、完全に今じゃん、今みたいな状況のためにつくったんじゃん」と気付いて流し始めた。
シャッフル再生にしたら「空も飛べるはず-スピッツ」「愛を知るまでは-あいみょん」「明日も-SHISHAMO」…と流れ始め、「うん、君、、、いいねぇ、わかってるねぇ」と自画自賛できた。
結局自分のことを完璧に理解できるのなんて自分しかいないのだ。
プレイリストの話はあまりにもしょうもないが、自分で自分の好きなことを見つけて、感じて、考えて、あとは誰にも気を遣わず好き勝手に楽しむ、この旅の目的を最高に果たせたのかもしれない。
こんな自分勝手な旅、もうしばらくやらなくていいわ、最高だった~!!!
夜の宿で考えたこと(5年間の振り返り)
先ほど後回しにした宿での内省について書き記しておきたい。
別に見られて困るような内容ではないので大した金額にはしないが、他人が見て面白いような内容ではないと思う。またいつの日かの自分が35歳までの5年間での気付きや成長を見て、何を思うかが楽しみである。
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