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凡走を受け入れる ~諦めることの難しさについて~

ランナー人生で最も輝かしい日

昨年のつくばマラソン、ゴール400m手前

2023年11月26日、私のランナー人生で最も輝かしい日が訪れます。この日のつくばマラソン、ネットタイム2時間39分55秒は自己最高記録であることはもちろん、サブエガすら達成したことがなかった自分には起こり得ないような大記録で、レースを見守ってくれていた友人たちからは祝福の通知が鳴り響きました。また、この記録は2023年年齢別マラソンランキングで68位に入るもので、この記録が掲載されたランナーズは家宝となっています。

さて、今回はそんな大記録をうっかり達成してしまったランナーが囚われている"ある苦しみ"について書いてみたいと思います。

ちなみに、この記事を通しては本来の自分の実力であればとても出せるはずがなかった記録という恐れも込めて、不遜ながら”大記録”、”偉大な記録”といった表現を敢えて使っています。調子に乗っているようで鼻につくと思いますがご容赦ください。


2,39,55の呪い、追い越せない影

昨年のつくばマラソンはとても感慨深くて気持ちを書き記しておきたく、また今後の練習や準備にも役立つと思ったので以下の記事にその過程を記録しています。

この記事に書いてある通り、直前の練習ではサブエガすら達成できないと思っていて、当日のパフォーマンスは自分でも信じ難いものでした。
その感触は全く謙遜ではありません。たとえば、つくばマラソンは計測上、レース通してave 3,46/kmで走れていたというデータが出ていました。
このレース後の12~3月、4月に長野マラソンを控えていたこともあり、20k/30k走の練習を何本も走ってみたのですが、やはりそんなアベレージは出せません。いつもいつも、通しで3,50〜3,55/kmの間がいいところ。3,50/kmでできた時も明らかにそれ以上はスピードが上がらず、すぐに倒れ込みたいくらいの疲労感でした。明らかにさらに12kmを同じペースで走ることはできません。

3月下旬頃の30k走


上記の記事に書いた通り「やっぱりフルは2,53~2,55程度かな?」という感触は本当で、実際に4月の長野マラソンは2,53,22というタイムに終わりました。

気温6℃で小雨まで降っていた絶好コンディションのつくばマラソンとは対照的に、22℃前後の4月の長野はとにかく暑く、暑さや湿度ですぐに汗をかいてへばってしまう自分としては、”まぁ、そうなるよな”という結末ではありました。加えて、長野マラソンの1,2カ月前に「小江戸大江戸200k」や「ハセツネ30k」といったロードのフルマラソンとは全く要求される能力の異なるレースが入っていたという経緯はあり、「長野マラソンに向けてピーキングできている」とは言い難いコンディションだったことも自覚しています。
しかし、それでもどこか、本番の本気でタイムを出しに来ている選手たちとの集団走ならいつもよりパフォーマンスを発揮できるのでは、と期待していたところもあります。

でも現実は、いつもの30k走と何にも変わらなかった。

ちょうど30kで失速して、ギリギリ4,10~5,00/kmで粘って、なんとか2時間55分を切るくらい。まさしく記事に書いてある通りに、つくばマラソンを走る前にイメージしていたフルマラソンと寸分違わぬ予想通りの展開です。

”まぁ、そうなるよな”という諦観に、”じゃあ、あの走りはなんだったんだよ”という失望の色が混じります。

中継を観ていた友人から送られてきた写真。
一切の余力がなく、ゴールで倒れ込む。
28km、失速する15分前くらい
いい笑顔で写れそうな最後のタイミングだったのでいい笑顔をカメラに向ける

ランナーである限り

2時間39分台の記録を出した。
もしこれを読んでいる方が真剣に取り組まれている市民ランナーであれば、このあとに直面するものを想像いただけると思います。
福岡国際マラソンへの出場権、すなわち2時間35分への挑戦です。

毎週水曜日に一緒に練習している会社のランニングクラブでも、つくばマラソン直後の回では私はまるで死地から凱旋したヒーローの扱いで、偉大な記録を讃えられました。当然「次は福岡国際、狙えますね!」なんて言葉も出てきます。
私も「もしかしたら本当に狙えるのかも」と思ってしまいます。
つくばマラソン後に4,5回繰り返した30k走はそこを目標にする意識もありました。それでも前述の通り、練習ではどう見ても、自分の身体は2時間40分はおろか、サブエガも出せそうにありません。
それを裏付けるように、長野の失速、予想通りの走り。

何が本当で、何が実力で、どうしてあんな走りができたのか、何もかもわからなくなります。

「僕の悔しさを、代弁するな」

2時間39分55秒というタイムは、これからの私のランナー人生にも重い十字架を背負わせていることを、記録を出してしばらく経ってから気付きました。
たとえばこのベストタイムを持っている選手が、2時間45分のタイムを出したとしたら、人からどう言われるかは想像できるでしょう。
「ベストよりは5分遅かったね」「体調悪かった?」「練習足りてないんじゃない?」「惜しかったね」「もっと行けたんじゃない?」といった言葉が掛けられるであろうことは容易に想像がつきます。きっとそれは私なりにどんなに成長を感じるレースだったとしても無意識に言ってしまう・もしくは言葉にしなくとも思ってしまうことでしょうし、逆の立場だったら、きっと私だって同じように思ってしまうでしょう。

「僕の悔しさを、代弁するな」というのは、
未だに私が他人に対して許せなくなってしまうことの一つを端的に表した言葉です。
たとえば、複雑な感情で悩んでいることを他人にシンプルに解釈・理解されたり、あるいはそれを勝手に語られたりすることに、強く憤りを覚えます。だからこそ、こういう長い自分語りの記事が何本も書けるのでしょう。私には私を取り巻くいろいろな事情があって、拮抗するいくつもの感情が生まれて、悩み苦しんだ末に期限がきて、なんとか出した答えがその時の気持ちなのです。文章にして、多くの言葉を紡ぐことで、自分の気持ちを整理して、なんとか受け止めているような背景すらあります。
自分ですらしっくりくる言葉が見つからないようなことを、他人にシンプルに解釈されて語られるようなことは相手が誰であっても許せないのです。

もちろん、これは私の心の狭さとこだわりゆえの、怒りの沸点が低いポイントだと自覚はしているのですが、一般的には「これくらいいいじゃん」という内容が、自分にとっては「それだけは許さない」というような、誰にでもそういうことは一つや二つあるのではないかと思っています。

”大人になる”、”社会性を獲得する”というのはきっとこういう気持ちに折り合いをつけることなのかもしれません。しかし、この、

「僕の悔しさは僕だけのものなのだから誰かが軽率に語ることは許さない」

という究極のエゴイズムはどこか自分を構成する核のようなもので、この気持ちを誤魔化したら自分が自分でなくなるような気がしてます。
そして、それを表現すること自体がこのnoteに対する創作意欲そのものなので、今のところ”もはやこういう自分と付き合っていくしかないよな”という諦観を持って受け入れています。自分の悪い部分を開き直るつもりもないのですが、そういう”自分の本質”を見せた上で途切れていく人間関係というのは、もう追いかけても仕方ないのかもしれません。

自己ベスト以外は何をやっても”凡走”である

それでも、いっそ他人の言葉なんてどうでもいいのです。問題は眼を背けることすらできない自分自身の声なのです。
先ほどのような場面で気にしないふりして、「いや、自分的にはいいレースでしたよ」とか取り繕ったとしても、自分の心の裡にある「またベストを更新できなかった、”凡走”だった」という悔しさは、決して誤魔化したり偽ったりすることはできないのです。
そういう自分自身に対する悔しさを感じないための手段は二つしかありません。一つは本当にストイックに取り組んで「過去の自分を超える」こと。もう一つは、こうした「過去の自分を超えたい」と願ってしまう自分の気持ちを完全に断ち切ること。後者を全く偽らず、自分の意識として完璧に内在化させるためには、自分自身を心の底から諦める必要があります。たとえば、週末たまに草野球をしている50代の太った男性が、20代のプロ野球選手に本気で対抗意識を燃やして嫉妬しないように、私にとって"マラソンで優れた記録を出すこと"を完全に自分とは別世界のこととして切り離さねばならないのです。
離れるための言い訳だったり、頑張らない理由だったり、ある種のセルフハンディキャップも必要になるかもしれません。エンジョイ勢のフリしたところで、誰かしらには悔しい煽りを受けるような気もします。それを心の底から悔しがらずスマートに受け流すことはできるのか、今の自分にはイメージが湧きません。

"ただ苦しくて、ただ頑張って、ただ楽しかった"頃には戻れない。
私はこれから「フルマラソンでサブ240のベストタイムを持っている」と人に自慢できる代わりに、マラソンに出場する上で得られたはずのたくさんの喜びを失ってしまったのかもしれません。

アスリートの魂 ~私はこれからもアスリートでいられるだろうか?~

では前者の「過去の自分を超える」というアプローチはどうなのか。
オリエンテーリングというスポーツに本気で取り組み始めてから17年、その中で取り組みの熱量や練習量に波はあったかもしれませんが、自分にも"アスリート"たる時期は間違いなくあったし、"アスリート"とはどういう人なのか、その解像度が上がってきたように思います。

私なりの解釈ですが、"アスリート"とは、単に競技で高いレベルのパフォーマンスを発揮する人を指す言葉ではないように感じています。
サブ4でもサブ5であってもどんな競技レベルでもいい、"自分の目標や理想を明確に持ち、その目標・理想に向かって努力や研鑽を重ね、その勝負の結果がどんなものであっても真摯に受け止めてまた次の努力を始める"、そんな人が真のアスリートなのではないかと思います。
今の私の取り組みの中に、この言葉に当てはまる部分も当てはまらない部分もあると思いますが、仕事やライフステージもその年代なりの在り方に変わっていく中で、仮にも余暇の趣味でやっているスポーツでこのような姿勢・態度を保つのは簡単なことでも生優しいことでもありません。いつまでもこんなことばかり考えてていいのかと疑念を持つこともありますし、こうした戦いの螺旋から降りたくなる気持ちもあります。

私のマラソンやオリエンテーリングの友人・知人は、まだまだアスリートを続けているような尊敬すべき人物がたくさんいます。もちろん彼らの姿勢に強く刺激を受けてここまでやって来れています。それでも「次は2時間35分切れるように頑張ります!」と簡単には言えないのはこんな背景もあります。言うだけなら簡単ですが、自分の気持ちがついていかなければそんな宣言に意味はないのです。

だからこそ、偶然出てしまった2,39,55という大記録を自分の中でどんな風に扱ったらいいのか、それがわからないのです。

勝負に挑む上での繊細さと日常生活への影響

とても現実的な問題で、アスリートでいようとすることの一番の問題は"イライラすること"です。
以前、以下の記事に書いた通り、あるレースに向けて目標を決めて取り組むことはやはり自分に対して大きなストレスをかけることでもあります。こうした活動で気分が乱されてしまうというのは本当に情けなく、自分の器の小ささを痛感します。

これほどまでに思い悩むレベルで練習の過程を含めて楽しんで取り組めない競技は、もう明確に、自分にとって持続可能なものではないのでしょう。趣味って日常の一部にできるくらい持続可能なものであることがめちゃくちゃ大事です。「楽しんで取り組めなくなる」くらいの無理した分のリソースは、仕事なり日常生活なり、その他のパフォーマンスを低下させてしまうことがほとんどです。

家族には、私がなんとなく機嫌が悪いことで競技に対して時間を使っている以上に負担をかけていると感じています。
そして何より、イライラしている時の自分を、私自身が嫌いなのです。

つくばマラソン2024へ

この記事を出すタイミングは珍しいです。
いつもだったら一つ区切りになるようなレース、たとえば2週間後のつくばマラソンが終わってから気持ちの整理も兼ねて、この時期のこととレースのことをまとめて書くでしょう。
今回は少しやってみたいことがあったので実験です。

いつものタイミングだと、レースの爽快感とともに、また何かしらいい結果が出た時に書いていて、この記事に書いてあるような暗い気持ちをどこか美化して書いてしまっているような感覚があるからです。今は、今しかない気持ちを正確に書く、ということをやってみようと思い、レース前のこのタイミングで書いてみました。

まぁ、正直レースを迎える前にこういう記事を書くのは嫌なんですけどね。ここで吐き出したことで自分や当日の走りにどういう影響があるのか、そこも含めて今回は実験です。

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