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横山運平
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横山運平(ヨコヤマ ウンペイ 1881~1967)
本名横山彌太郎(ヨコヤマ ヤタロウ)。明治14年1月1日、滋賀県犬上郡彦根町(現在の滋賀県彦根市)生まれ。出生地については、大阪府大阪市の説も有る。幼少期から活動写真や芝居を好み、両親も横山の趣味に応じていたという。
明治26年、旧制小学校を卒業後、新派の草分けとして知られた角藤定憲一座に加入。横山彌太郎を名乗り、初舞台を踏む。明治32年、一座を抜け出して上京。赤坂演伎座専属の新演劇・むつみ一座という書生芝居劇団に加入。出勤中、活動弁士の駒田好洋が監督を務めた無声映画『ピストル強盗 淸水定吉』の出演者に抜擢され、映画デビュー。以来、横山は「日本最古参の映画俳優」と称される。明治33年、靑木千八郎一座に加入するが、後に脱退して関西地方に戻り、川上音二郎、福井茂兵衞、木村周平、伊井蓉峰、酒井政俊、藤澤淺二郎など新派・新劇一座を転々とする。この間、芸名を横山運平と改名。明治40年、高田實一座に加入。朝日座などに出勤したのち再び上京し、約5年間の俳優修業に励む。
明治45年、吉澤商店目黒撮影所に入所。映画俳優に完全に転向する。大正元年、日本活動寫眞(日活)に吸収合併された後も継続入社。大正2年、日活向島撮影所の竣工に伴い異動。主に悪役俳優として売り出す。大正3年一時退社し、立花貞二郎、藤川三之助らと共に天活日暮里撮影所に移籍するも大正5年早期退社し、藤川三之助らと共に復帰。この間、元の日活向島作品に出演した記録有り。大正11年、田中榮三監督『京屋襟店』の試写後、藤野秀夫、衣笠貞之助、東猛夫ら幹部俳優と連袂退社。元日活本社常務取締役だった石井常吉の引き抜きにより、國活巣鴨撮影所に移籍。大正12年、國活が経営難のため映画製作・配給を停止。牧野省三の招聘により、衣笠貞之助、島田嘉七、宮島健一、藤川三之助らと共にマキノ映畫製作所(等持院撮影所)に移籍。大正13年、東亞キネマとの吸収合併に伴い東亞マキノ等持院撮影所と名称変更。後にトラブルメーカー・立石駒吉の大量引き抜きに遭い、宮島健一、關操、森靜子ら数名と共に帝キネ芦屋撮影所に電撃移籍。大正14年、帝キネ芦屋撮影所の創立メンバーの連袂退社、帝キネ小阪撮影所の強制閉鎖などに伴い、帝キネは3つの派閥に分裂。立石駒吉と同行して東邦映畫製作所(等持院撮影所)の創立に参加するが、僅か数ヶ月で解散。立石と袂を分かち、東亞甲陽撮影所に移籍する。昭和2年、東亞甲陽撮影所が閉鎖した為、東亞等持院(京都)撮影所に異動。昭和4年退社し、日活太秦撮影所に移籍。藤野秀夫、衣笠貞之助ら日活向島幹部俳優13名の連袂退社事件以来、約7年ぶりに復帰する。殊に老け役を熟し、同所の貴重な名脇役として数多の現代劇・時代劇に出演。昭和12年退社、フリーランサーとして、P.C.L.映畫製作所、J.O.スタヂオの各作品に出演後、吸収併合後の東寶映畫撮影所に移籍、終戦まで在籍した。
昭和22年、東宝争議の発生に伴い早期退社、新東宝に移籍。終戦後は日本最古参の映画俳優として重宝される。昭和32年、第2回「映画の日」中央大会において、映画業界に40年以上勤務した功績が認められ、永年勤続功労章を受章。昭和33年退社し、戦後再興された日活に移籍。松尾昭典監督『清水の暴れん坊』など、日活の大スター・石原裕次郎とも共演。昭和35年退社、約13年ぶりに東宝に復帰するが、この頃から老齢により徐々に出演作品が減少。稲垣浩監督『ゲンと不動明王』など、年に1本のペースとなる。昭和37年、稲垣浩監督『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』に出演したのを最後に東宝を退社。芸能界を引退した。昭和41年、俳優として脇役の演技に努め、映画界の発展に寄与した功績が認められ、勲五等双光旭日章を受章した。
昭和42年4月3日、老衰のため、東京都世田谷区祖師ヶ谷の自宅で死去。享年86歳。没後、各新聞の訃報欄にて「生きている日本映画史」と称えられた。
元撮影技師・横山實は子息にあたる。