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私(浅井先生)のめざすゲルマニウム

 アサイゲルマニウムに関わる者にとってのビジョンは、浅井先生の掲げた「アサイゲルマニウムを人類の幸福のために」だと私は思っています。先生にお会いしたことはなく、その著書を通してしか心を受け取ることは叶いませんが、それでも十分に熱が伝わってきます。最後の著書『ゲルマニウムとわが人生』は先生が昇天なさる前年に出版されたものであり、その最後の章に「私のめざすゲルマニウム」として願いが託されています。残念ながら絶版になっているものですので、最後の章だけですが、以下にご紹介させて頂きます。

引用『ゲルマニウムとわが人生』浅井一彦著 玄同社 p.179-p.204

将来あるべき医療

 拙著『ゲルマニウムと私』に、「人間は電気の極超微小物の凝集体」と題して六ページにわたって記述した。その中で、
 〈カナダのセリエ教授は「万病はストレスに起因する」という有名なストレス学説を唱えているが、ストレスは〝歪(ひずみ)〟のことで、電気の微小物の凝集体である人間の、その凝集体に〝歪〟ができたことになる。いいかえると、宇宙の方程式に、どこか適合していない部分ができたということである。〝正しからず〟と書く歪という漢字は、けだしいいえて妙である〉
 この認識は、私がアインシュタイン/インフェルト著、石原純訳『物理学はいかに創られたか』(岩波書店発行)を読んで得たものであるが、最近、東洋医学国際研究財団の副会長桑木崇秀氏の『漢方医学入門』を読んでみると、まさに漢方医学の実体が近代物理学、特に量子生物学の分野と一致しているのがわかり、驚嘆するのみならず、実証にもとづくその深淵なる学問体系に、絶大なる魅力を感じたのであった。桑木氏は、漢方でいう〝証〟という概念を、次のように説明しておられる。
 〈漢方医学は本質論ではなく、現象論であり、治療論である。すなわち、現在置かれているからだの歪の状態をみて、そのバランスを回復することが漢方医学の眼目であるから、その歪の状態を正しく認識することがすなわち診断であり、そのバランスを回復することがすなわち治療である。
 歪という中には、生まれつきの体質的な歪もあれば、その時その時の外因や内因によって起こった歪もある。それらすべてを引っくるめて、ある人がある時点において、あるアンバランスの状態にある。その状態を「証」というと考えてよいかと思う。いわば、体質とすべての症状をひっくるめた、その時点での広義の体質、体況、 あるいは広義の症候群といってよいかと思う。
 そして、それぞれのアンバランスの状態は、主として陰と陽という対立概念でとらえられるから、これを「陰証」「陽証」「寒証」「熱証」「虚証」「実証」というようなことばで表現する。
 そしてこのアンバランスは、適当な薬物(方剤)を用いることによってバランスが回復するから、例えば「葛根湯」という薬物(方剤)でバランスが回復するような「証」を「葛根湯証」というのである〉

 人間は三度の食事で生きている。いいかえると、食事で人間は生命を維持しているのである。したがって、誤った食事は人間の生命に影響を与え、あらゆる病のもとになる。
 東洋医学で最も重要視されるのは、「食養」という概念である。
 食事にはいつも陰陽のバランスを考えねばならぬとし、近代的表現では酸と塩基との平衡を保たねばならぬという。
 この食養ということは、すでに世界的にも注目され、自然食運動とか、自然食サナトリウムの建設とか、 この思考はかなり認められ普及してきている。
 私は、これら東洋医学的、漢方薬的、医療方法には、双手をあげて賛成する。特に経絡をねらった、鍼治療はすばらしいものだと思う。これらの治療は近代科学で次第に解明されてきている。鍼麻酔の際のエンドルフィンの分泌、鍼と生薬によるインターフェロンの誘発等々である。
 私の経験によると、私のアサイ・ゲルマニウムを鍼に用いたり、生薬と共に服用すると驚くべき効果を発揮する。どうしても、相乗効果が現れたと考えざるを得ないのである。
 こういう現実から、私のゲルマニウムは、完全に東洋医学、漢方医学に属する物質であり、また東洋医学、漢方医学をこれによって飛躍的に発展せしめ、医療とは、これだ、と胸をたたいてみせたくなるのである。

 私は今、こんな夢を持っている。そして早くこれを実現させて病に苦しむ人を救ってあげたい。
『病人とは、病んでいる人のことで、どんな身分にあろうと同じ人間なのだ』―ルソー
森林の中に、点々と存在するバンガロー式の家、暖房は、中央からの熱水暖房。動けない人の食事は運びこまれるが、なるべく中央の大食堂にきてもらう。徹底した食事療法を行う。
そうして、病院とは絶対に呼ばないで、自然食療養センターとかヘルス・センターとか、あるいは医療センターと名づけて、従来の病院というイメージを徹底的に変えさせるのである。
中央の建物には、複数の診察室、検査室および検査のための近代的設備は、一応整えるが、これらより患者と医師との間の人間味のある問診に重きを置く。
治療には近代医療は使用しないことを原則として、よほどの場合に例外を認めるとし、必要ならば私のゲルマニウム以外に漢方生薬を併用する。
治療用には、アサイ・ゲルマニウム二五〇ミリグラム入りの経口用カプセル、一〇〇ミリグラム入りの分包があり、それに注射もあれば、座薬、軟膏、点眼薬も準備してある。
最近では、アサイ・ゲルマニウムを服用していて、鍼を打つと一段と効果が上がることが確認されており、東洋医学を中心に、ゲルマニウム治療の世界が拓(ひら)けつつある。
さらに、後述するが、手足のゲルマニウム温浴の効果のすばらしさに、私は一驚を喫しているが、この温浴につけ加えて、アサイ・ゲルマニウムを服用すれば、まさに鬼に金棒で、すばらしい治療効果をあげ得ることまちがいなしと断言してはばからない。
重ねて述べるが、病を癒すためには、心、食事、治癒力が三位一体とならなければならないのであって、そのための環境や、生活条件がきちんとすれば、難病といえども怖れることはないのである。

「ホスピス」の実現

私は、ある日、次のような手紙を大分市に住む女性より受けとった。
「突然にお便りさせて頂いて申し訳ございません。社会や、医学に見放された人々に、生きる希望と目的とを改めて与えてあげ、いよいよこの世を去ろうとする方々にも、決してこわがらなくてもいい・・・と言ってあげられる自分をつくりたいと思います。(中略)周囲の苦しんでおられる方々を見ながら、医師資格のないことが、どんなに悔やまれたか知れないときもございましたが、何とか別の面からお手伝いさせて頂きたいと思っております。(中略)
もう心にしみついてしまったような、長年の病をかかえ、良いといわれることは、何でもすがりつき、首をかしげるような宗教にひきずられて、身も心も痛めつけられている方々が、近代文明の花開く現代社会の底辺で、希望もなくとり残されて生きておられるかを思いますと、本当に胸が痛みます。
先生のゲルマニウムと先生の生き方、お考え方は、その希望の光をかかげてくれることでしょう。
その希望の光を、身近なものとして、必要とされる方々の手に握らせてあげてくださるようお願い致します」

「ホスピス」という言葉が、英国から始まり、現在は世界中にひろまってきている。
これは、ガンなどで死期が迫った患者に対する看護、または看護施設のことを意味する。
起こりは、十九世紀のアイルランドのダブリン市の修道尼によって、一般の病院と異なり、治すための闘いの場でなく、安らぎと平安を、死の瞬間に至るまで与え続ける〝愛の場〟である施設である。
近代医学は、治らぬとわかった病気に対しては、全く無力であり、病院は、治らないとわかった患者は置いてくれない。病院から出た患者は、死の恐怖、肉体的苦痛により精神的に言語に絶する苦悩に追いつめられてしまうのである。
こうした悲惨な状態に置かれた人々を救うのが「ホスピス」である。そして、特にガンの末期患者に対してその肉体的疼痛のコントロールを行いつつ、精神的にも肉体的にも、彼らを励まして、人生最後の瞬間まで、人間として、価値ある人生を生きることを可能にするよう、あらゆる手段を講ずるのである。
つまり、人間としていかに死を迎えるかということであり、最も必要なものは、あらゆる痛みからの解放、高度な看護、そして決して見放されることがないという安心感にちがいない。
アメリカでは、現在三百に近いホスピスがあると聞く。
そして日本でも、静岡県内で開設の準備が進められているようで、徐々に、その存在が知られつつある。
それにしても、私はホスピスの話をきくたびに、私のゲルマニウムはこのために出現したように思えてならない。
それは前著(『ゲルマニウムと私』『ゲルマニウム讃歌』)にくわしく書いたが、ゲルマニウムはあらゆる身体の疼痛から解放してくれるのである。痛みでのたうちまわるガンの患者も、大量投与すれば痛みがとれ、安らかな精神状態で病気にたちむかえるのである。
たとえ末期のガン患者で治癒しなくても、文字通り眠るがごとく昇天し、その顔は血色もよく、仏を思わす顔で、遺族の方々は死の悲しみよりは、その荘厳な姿に思わず合掌するのである。このことは、すでに数多く遺族の方方から私のところに報告され、また感謝されていることで証明されている。
この理由は、病理学的、生化学的、また電子生物学でも説明しようと思えばできないわけではないが、私は、事実が最も雄弁に説明しており、また、人間の生と死という問題に対して敬虔な心がまえで、神秘的な次元のもとに考えたいと思うのである。

人間にとっての「死」

私は古稀を過ぎてから、急に頭にこびりついてはなれない問題が、二つある。
一つは時間である。時間は哲学上の意識時間であると同時に、物理学上の問題でもある。
おそらく、アインシュタインの特殊相対性原理を読んだあとであろう、私の日記帳にこんなことが書いてある。
「人生とは、時間にのって走ることであり、老いると時間とのずれが、だんだんと大きくなって、やがて時間と訣別する」
また、こうも書いている。
「私の今の人生は、時間との闘争である」
プーシキンは、「生きることにも心せき、感ずることも急がるる」と、老人のその日その日の悩みを巧みに表現している。
子供の頃に読んだウェルスの小説にこんなことが書かれてあったのを今でも記憶している。
「地球上の、あらゆる映像は光として、宇宙のどこかを走っている。そこでもし光より速い速度を持つものを発見すれば、過去の映像に追いついて写真に撮れるはずである」と。
しかし時間というのは、なかなか実感にならないから厄介である。私は鴨長明の『方丈記』の一節にある「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず、よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結ばれ、久しくとどまりたるためしなし、世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし」を読誦していると、何となく時間ということの意味がわかってくるような気がする。

さて第二は、死ということである。これはまた、時間とすこぶる関係が深い。
先日、大学時代の友人から死亡通知を受けとったが、差出人は死亡した本人であって、その内容は、安らかに現世と別れを告げ、来世へと旅立つと、何となくユーモアのある名文でつづられており、じめじめした感じは全くなくて、さっぱりとした姿で、死んでゆくシーンを想像させるものであった。
しかし、死ぬということはやはりいやである。モンテーニュも「死んでしまうのはいやじゃない。死ぬのがいやなのだ」と何かに書いてあったと記憶する。
過日、朝日新聞に毎金曜日連載された堀秀彦氏の「銀の座席」は、老人の心境をなかなか見事に語っており、毎回楽しみに読んだが、堀氏も「死ぬ」ということは、結局わからぬらしく「今日―」なにを食べるかについて、いささかも思いわずらわない老人の生活は、文字通り灰色だ。それどころか「猶予期間中の死者」(ボーボワール)と異ならない、と書いている。
しかし「死ぬ」ということが全くわからないでは、私にとって何かしら不安である。どうしても理屈をつけてみたくてたまらない。特に私の場合は、六年前に喉頭ガンにかかって、一度は医師より死の宣告を受けているので、なおさらである。

私はある日、蓄電がなくなりかけた自動車のバッテリーに、私のゲルマニウムを溶かした溶液を数滴たらしてみた。何事も実験である。
すると、調べるためにとりつけた豆ランプが、今にも消えそうになっているのが、急に明るくなったのである。この理由は、なかなか解明するのに骨がおれたが、結局は、電池の中での電位差が高まって、電流がよく流れたためであることにはちがいない。それにはアサイ・ゲルマニウムの酸素、水素の作用があったと考えるほかに術はない。
私は、英国の著名な物理学者ペーシヒ博士が書いた本の中に、次のように述べていたのを思い出した。
「生物の細胞は、アミノ酸を組み合わせた蛋白でできており、細胞は膜で包まれていて、その膜の表面は、プラスかマイナスの負荷があって、膜電位をもっているのである」
したがって生物の細胞間では、電位差によって、実に微妙な電気が流れている。
例えば生物全体が、一種の複雑きわまるコンピュータと考えてみよう。すると電気が流れておればコンピュータは動くが、いったん電流が止まれば、コンピュータは作動を中止する。生物は「死」である。
要するに、生体内での〝バッテリーアップ〟が「死」と考えてよい。
要は生体内で、各細胞の電位をあげて、細胞間の電気の流れを活発にすることが、健康の秘けつであるということらしい。
この考え方からいくと、電気陰性度の高い半導体ゲルマニウムは、この現象に一役買っているようであり、そこから生命に直結した物質であると思えてならない。また私のゲルマニウムをこう考えざるを得ない事実がたくさんあり、これらの事実が最も雄弁であると思うのである。

わが人生の終着駅

私のゲルマニウムの研究には終点がないが、私には、そろそろ、人生の終着駅が近づいてきている。
そのためか、プーシキンのいったごとく、「生きることにも心せき、感ずることも急がるる」という心境である。
私のゲルマニウムは、まったく薬ではない。いくら大量服用しても、少しも副作用がない。
身体内で酸素が豊富になり、最近では自然治癒力の素ともいわれるインターフェロンを誘発してくれることもわかった。
これをあたえた妊婦からは、精薄児や脳障害児が生まれないし、落ちこぼれといわれている学童も、うそのように治る。
世にいう難病も、条件をそろえて、ゲルマニウム治療をすれば、治る確率は非常に高い。
ただ、こまったことに、万病に効くので、かえってそれが禍いして、専門家から疑われ、排斥されてしまう結果を招いている。
他方、金もうけのためなら、どんなことでもやり、また策を弄する悪魔の化身のような輩にもとりつかれたり、警察からは薬事法違反ということで再三始末書を書かされたりしたが、いつも脳裏に浮かんだのは、次のヘーゲルの文章であり、またベートーベンの音楽でもあった。
「闘いと苦悩のなかに踏み入りつつ、ついに悩みにうちかつ魂こそ、幸いである」(ヘーゲル)
「すぐれた人たちは苦悩をつきぬけて、歓喜をかち得るのだ」(ベートーベン)
最も日本的で、かつ、ばかばかしくておかしいことは、真言密教で行われる呪詛の術によって私を呪い殺してくれと、僧侶におそらく大金を払ったであろう、依頼した者もいる。理由は、にせもの作りのあせりからであろう。しかし彼等のなすことは、ことゲルマニウムに関しては、実にむなしい。
というのは、ゲルマニウムは、ある霊性をそなえた物質なのであって、ちょうど空気がなければ鳥が飛べぬと同じように、取り扱う人と環境に恐ろしいほど関連性を持っているのである。
私は、費用を惜しまずに、日本の映画をつくった。一本は『生命の水』(大和映画製作)と題して、時間は三十分。ルルドの奇跡の水と、青森県平内市外童子山に湧く、「山吹の水」にゲルマニウムが含まれていることと、さらに漢方薬の多くに、同様多量のゲルマニウムの存在を確認したことにより、有機ゲルマニウムの医療的効力を発見したいきさつを描き出しており、二本目は、私のゲルマニウムによって誘発されたインターフェロンが、NK細胞を駆使して、凶悪なるガン細胞を破壊する情景が、四十分にわたって手にとるように映し出されているのである(『驚異の生体防衛』大和映画製作)。
私は、アサイ・ゲルマニウムを、薬事法による許可薬品として認めてもらうために、十年余りの間に膨大な出費のもとに、申請のための準備をしたし、現に行っているが、法律が要請している条件はあまりにも厳しく、しかも申請書の書類も、汗牛充棟というぐらい大量に用意せねばならない。製薬会社でない個人にとっては、その防壁を乗り越えることは、費用その他の点でほとんど不可能に近いといっても決していいすぎではないのが現状である。
難病中の難病であり、死亡原因の首位にあって、患者に心身ともども言語に絶する苦痛をもたらすガン細胞が、有機ゲルマニウムによって誘発されたインターフェロンが、大食細胞(Natural Killer 細胞)を駆使して次々に破壊する情景が画面に映し出されるのを観ると、私は思わず「勝負あった!!」と叫ばざるを得なかった。
私のアサイ・ゲルマニウムは、すでに五万人以上の人々に投与し、何らかの副作用の問題はなく、しかも従来の医学では解決できなかった種々の難病(例えば肝硬変、糖尿病、肝炎、てんかん、ぜんそく等々)に効果をあげ、いま驚愕無比なるガン細胞を征服したのである。
だが、私の仕事はまだ終わっていない。それは、この無許可薬品とされて、法律で厳重な拘束を受けている私のゲルマニウムを、どうやって一般大衆の手にゆきわたらせるかということは解決していない。
ダウン症の子供を抱えて途方に暮れている母親、失明した青年の悲しみ、ガンと対決している親を持つ子供、こういう人々から訴えられ、嘆願されると、私の心は張りさけんばかりになり、これらの人々を救うために、何とか方法はないかと、天を仰いで嘆息するのみである。
具体的には、ゲルマニウム治療の行える施設と、それを運用する組織が必要である。また一方では、私のアサイ・ゲルマニウムの原料である無機ゲルマニウムが、半導体レーザー光線に使われ、米国では必要な軍需品として買い占めが行われたため、価格は暴騰を重ねている。そのために、資金力のない個人の力では、将来ゆきづまることは明らかである。
国を守るといって莫大な軍事費が認められており、他方、医薬業界では、十兆円に及ぶ金が動いている。
国民の健康、福祉のために、私のゲルマニウムを誰か国家の事業としてとりあげ、ひいては人類の幸福のために仕上げてもらいたいという気になったのも、七十四歳のこの頃の私は、非常に疲れているからであろう。
しかし、何とか死刑執行される前に、終着駅まではたどりつきたいと思うのである。
レオナルド・ダ・ビンチの言をかりると、
「よく過ごされた一日が幸福をもたらすように、よく費やされた人生は幸福な死をもたらす」―。

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