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デ・キリコの弟 サヴィーニオ【アートのさんぽ】#33

異色の芸術家、サヴィーニオ

ジョルジョ・デ・キリコ(1888-1978)に一卵性双生児のような弟がいたというと驚く方もいるだろうが、実際にアルベルト・サヴィーニオ(1891‐1952、本名アンドレア・デ・キリコ)という画家がいて、文学者、音楽家としても活躍したことはよく知られている。
サヴィーニオは、兄ジョルジョと同様にアテネでイタリア人の両親のもとに生まれた。幼少時代をギリシャで過ごし、1905年に父が死ぬと、母と兄ジョルジョとともにミュンヘンに移る。1909年にミラノに移り、そこで絵とデッ サンに情熱を傾ける。1910年にパリに赴き、アポリネールの周辺に集まる知識人たちと接触を持つ。作家として1914年に『半死の歌』でデビューする。1916年、兄ジョルジョとともにフェラーラに赴き、カルロ・カッラやフィリッポ・デ・ピシスと出会い、形而上絵画派を形成する。1918年か1925年の間、形而上絵画の主要な理論家として『ヴァローリ・プラスティチ』誌上にいくつかの重要な論文を掲載した。1919年にローマへ行き、1930年頃、再びパリに戻りそこでシュルレアリストのグループと接触を持つ。1927年に画家としてはじめてパリのバーンハイム画廊で展覧会を開き、作品18点を売るなどパリで幅広い市場を獲得したサヴィーニオは、おびただしい数の絵を描く。1929年、画商で収集家のローゼンバーグの家の広間に、兄ジョルジョとともに《おもちゃの記念碑》を描く。

サヴィーニオ《玩具の島》1930

1930年代にはイタリア、欧米各地で頻繁に展示し、ヴィネツィア・ビエンナーレとローマ・クァドリエンナーレにも参加する。この頃、兄ジョルジョの形式上の表現方法の影響を受けながらも、サヴィーニオはその記号、暗喩、文学的な価値を際立たせる。一方、技術的には、よりほぐれた筆致と時に色調変化する、ぼかした明暗法を使用する。シュルアリスト、特にマックス・エルンストとも交友し、半分人間、半分遊び道具の変貌する想像上の生物が密集する絵を描き、異なった経験の混成、不安定な精神による空想の能力を表現していく。1940年ミラノのミリオーネ画廊、1943年ローマのゾディアコ画廊、1945年マルゲリータ画廊でデッサンの個展を行う。1954年のヴェネツィア・ビエンナーレで回顧展を開く。1952年のフィレンツェ5月音楽大祭では、ロッシーニの歌劇「アルミーダ」の監督、舞台装置、衣装を監修した。音楽家としてはバレー曲「ベルセオ」、「ニオペの死」、「季節の踊り」を残した。作家としても、1942年の『人々よ、君たちのことを語れ』などは特筆すべき作品を残した。

サヴィーニオの自己神話的な表現

 そのサヴィーニオは、1920年代後半から1930年代にかけて、パリに在住しながらイタリア国内で展示活動をするグループ「パリのイタリア人」の一員であった。そこにマッシモ・カンピーリやフィリッポ・デ・ピシス、ジーノ・セヴェリーニが参加していた。共通していたのは、イタリア美術における“ラテン”ルーツの復活を明確にしようということであった。
 サヴィーニオの異色性を《貞節な婦人》(1929年)に見てみたい。
 

サヴィーニオ《貞節な女性》1929

この鳥の頭を持った肖像画は、シュルレアリスム的な解釈でいえばフロイトの精神分析の応用によるディペイズマンということになるのだろうが、サヴィーニオは思想家オットー・ヴァイニンガーの人間の動物の心理における類似理論を下敷きとしたうえで、個人の体験と記憶を古典的肖像画のスタイルの中にはめ込むという手法をとった。
 これについて、ピア・ヴィヴァレッリは次のように述べる。
現実の習慣的知覚を解放するというサヴィーニオの手法は、シュルレアリスムの夢の優位性とは決定的に違うアプローチである。記憶の無意味さ、あるいは異なった記憶の結合は、現代のブルジョワ的価値の真空地帯を皮肉に映しだす鏡となった。その崇められた原型は、サヴィーニオによって鳥の頭をもった野人やほかの動物に変形されていった。歴史的モデルの引用により熟慮された転倒がもたらされた。現代の芸術家に残された唯一の(社会への)干渉の形態は、精神的な反映であり、観念的な操作であり、所与の伝統の疎外化であるというサヴィーニオの信念を反映したものである」と。
 シュルレアリスムは、近代主義における理性信仰というべきものに反旗を翻し、合理主義や既成観念からの脱却をはかろうとした。表現としても、夢や無意識における「高度のリアリティー」(アンドレ・ブルトン)を実現しようとしていた。これに対し、サヴィーニオは、歴史と個人的記憶を現実社会への照射の手段として利用しようとしていたわけである。それは暗喩とアイロニーに満ち、毒を含んだ神話的な表現だったのである。
 サヴィーニオは、パリのシュルレアリストと近い関係にあったためシュルレアリストとみなされることもあるが、実際のところそれとはかなりの距離がある。
サヴィーニオが個人的な出来事や記憶を主題とするのは、単に個人的なことを表現したいという感情からではなく、先にも述べたように個人の記憶というものが必ず歴史的原型に結びついていることを示そうとしたからであった。サヴィーニオは、個人的記憶の原型をその歴史的原型としての神話に求めたのである。

一卵性双生児のような兄弟

 ヴィヴァレッリは続ける。
「…現在の矛盾の鏡として立とうとするのではなく、より堅固で明確な価値を発見し示そうという現代作家は、個人的な過去と歴史的な過去の両方を復活させる者としての芸術をつくり、自己の記憶で仕事をしなければならない。個人的な出来事は、サヴィーニオの生地テッサリーア地方(ギリシャ)に結びつき、彼個人の文化的背景には19世紀のドイツ思想の古典主義が入り込んでいるが、それは大いなる源泉としてのギリシャへと収斂している。この個人的な記憶と歴史的な記憶の2つの側面は、しばしば一種の自己神話を産み出すことで一致していく。その神話のなかで、サヴーニオと兄のデ・キリコは、ディオスクロイやアルゴナウテス、あるいはメリクリウスやオルフェウス、また福音書の放蕩息子によって自己同一させていくのである」と。
 このサヴィーニオは、多彩な芸術家で、画家であると同時に、音楽家であり、批評家であり、文学者であり、舞台美術家であった。また、彼の本名はアンドレア・デ・キリコといい、ジョルジョ・デ・キリコの3歳違いの弟であった。彼らは、ほとんど一卵性双生児のような精神の共通性を芸術上にも表わしていた。
 

サヴィーニオ《放蕩息子の出発》1931-32

たとえば、ギリシャ神話に登場する双子の兄弟ディオスクロイの神話に関していうと、両者ともに主題として取り上げている。このディオスクロイというのはゼウスとレダの間に生まれた兄弟愛の深い双子、カストールとポルクスのことを指し、特にローマにとって重要な神でローマの騎士団の保護者であった。デ・キリコとサヴィーニオは、自分たちをこのディオスクロイになぞらえて自己同一をはかる試みをしている。これは、ヴィヴァレッリも述べるように彼らの自己神話化というべき行為である。歴史的時間は、直線的に流れるのではなくて、循環的に流れるのであり、自己の存在も歴史的原型のなにものかを引き継いでいるのではないかという仮説にたった芸術的表現であった。

「パリのイタリア人」

 サヴィーニオは、1930年、第17回ヴェネツィア・ビエンナーレにおいて、フランスの批評家ヴァルドマール・ジョルジュが企画した「イタリアの呼び声」展に参加した。
ここにはサヴィーニオの他、当時パリに在住していたイタリア人画家たち、マッシモ・カンピーリ、フィリッポ・デ・ピシス、ジーノ・セヴェリーニ、マリオ・トッツィが出品していた。
ジョルジュは、19世紀からシュルレアリスムにいたるフランス文化を席巻してきた“ノルディック”精神に対抗して、イタリア美術における“ラテン”ルーツの復活を明確に意図しようとしていた。
 ジョルジュは、ヴェネツィア・ビエンナーレの図録で次のように述べている。

 イタリアとフランス両国における19世紀は、ラテンの国々よりも北方の国々から多くのインスピレーションを得ていた。ここに関する観点は、サルファッティと同様であると理解している。このイタリアの国家統一(リソルジメント)の芸術家(私は20世紀におけるそれを言うのだが)は、本質的なる価値の完全なる改訂を遂行した。…わたしたちにとって、現代の創造性と形態のイタリア化の問題は、全く別の道で近づけられるべきである。私は、私の観点がすべてのイタリアの愛国者と共有できることを望んでいる。
 …ローマ帝国の時代、フランス、北アフリカ、アジアの一部は、ローマ美術の強い影響を受けた。しかしながら、文明とその優勢は軍事力によって押しつけられたものであった。ルネサンスの時代、イタリアは政治的行動がなく、インスピレーションの源泉にすぎなかったが、すべてのヨーロッパは、イタリアの思想からアイディアを引き出し、利益を得ていた。16世紀の建築、彫刻、そして絵画は、イタリアでの作例やその影響に従いつつ発展した。この点からすると、西洋世界はイタリアの一地方にすぎない。
 …ここに展示するフランスと外国の作家の作品は現在の状況に対する反応を表明している。彼らは、イタリアに対する新しい興味を表わしている。彼らはイタリアの画家を研究し、彼らの知識と好奇心への熱望が“イタリア主義”の信念を現実に示してみるのだ。…彼らの作品は古典的で人間味ある精神を表わすのだ。

 確かにジョルジュの視点はマルゲリータ・サルファッティ(ファシズム時代の文化行政に力をもった批評家)のそれと近似している。しかも、ここに出品した作家たちはノヴェチェントの展覧会(ファシズム時代を代表するイタリア主義の展覧会)にも出品していたし、ノヴェチェントの作家として語られることも多い。
 ノヴェチェントの作家と「パリのイタリア人」は、それぞれが個性的であり、具象的な表現においても共通していたと考えていい。しかし、シローニなどサルファッティにより近いグループとの対照を考えると、ファシスト政権に対する考え方に違いがあった。
つまり、イタリアの古典の見直しという点については共通するところであるが、その狙いとして、ノヴェチェントはイタリア15世紀美術の再評価や現政権の英雄視などもその視野にいれていた。一方の「パリのイタリア人」はあくまでもラテン、あるいは地中海精神の復権を夢見ていたのであった。
 「パリのイタリア人」は、古典的美術や大いなる美術館文化に興味を示すが、その基底にはやはりデ・キリコの形而上絵画において掘り起こされた絵画の質の問題とその構図的な影響の跡がみられるのである。ジョルジョ・デ・キリコの影響がいかに強かったのかということが分かる。

#サヴィーニオ #ジョルジョ・デ・キリコ #シュルレアリスム

参考文献:谷藤史彦『ルチオ・フォンタナと20世紀美術 ―伝統と革新をめぐって』(中央公論美術出版)


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