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藤井厚二(2)【アートのさんぽ】#26

藤井厚二の鞆別荘、発見と再生

 鞆別荘の施主

  そこで気になるのは、この鞆別荘の施主は誰だったのかということである。

 施主は、江戸初期から続く福山の豪商「くろがねや」藤井家の当主(12代)で、実業家でもあった藤井与一右衛門(1886‒1982)であるということが分かっている。与一右衛門は、藤井厚二と仲の良い3歳年長の兄で、主屋を昭和初期に、縁側を1932年(昭和7年)頃に建て、1960年代まで使っていたという。

 福山に生れた藤井与一右衛門は、13歳の時に父を亡くして家督を継ぎ、早稲田大学卒業後、家業の酒造業や製塩業を継ぐとともに、1922年(大正11年)の福山電気株式会社をはじめ、帝国漁網株式会社、日本木材工芸株式会社などを設立するなど実業家として活躍した。

 与一右衛門は、漕艇や徒歩、登山などのスポーツを楽しみ、福山体育会や福山山岳会も創設している。また、茶の湯や漢詩、絵画鑑賞などを趣味とし、「聴泉、徽泉、士貫、椿荘」といった雅号を持っていた。

 その趣味性を表す旧蔵作品がいくつか残されている。ひとつは菊池契月の《楚蓮香》(1918年頃)という作品で、この共箱には藤井厚二宛ての領収書が入っている。日付は「大正8年1月11日」で、京都市御幸町の京表具師・山田永庄昌堂からとあり、与一右衛門が藤井厚二に依頼して購入させたものであろうと推測される。


菊池契月《楚蓮香》1918年

菊池契月は当時、歴史画、人物画を得意とした四条派の花形作家で、《楚蓮香》も唐の玄宗皇帝の時代、長安一の美人を描いたもので、与一右衛門の気品の高い中国趣味を彷彿させるものである。

  もうひとつは、鞆別荘にあった襖絵(現在、後山山荘所蔵)、結城素明の《琴棋書画襖絵》である。



結城素明《琴棋書画襖絵》(部分)昭和初期

「琴棋書画(きんきしょが)」とは、中国で描かれてきた古来からの画題で、日本でも室町時代以降に好まれて描かれてきたものである。風流韻事としての「琴棋書画」、つまり琴を弾じ、棋を囲み、書や画を能くするという文人や士大夫の生活を描いたものである。

また、結城素明(1875‒1957)は、明治から昭和にかけて活躍した日本画家で、東京美術学校の教授を務め、東山魁夷など俊英を輩出している。最初、川端玉章に入門し、東京美術学校で日本画を学び、さらに西洋画科に再入学するという変わり種で、自然主義的な写生を取り入れた表現を標榜し、次いで装飾的な画風に移り、中期以降は西洋画的な写実を施した作風を築いていった。

素明は、昭和初期に中国に旅行し、その前後に中国画題を描いているので、《琴棋書画襖絵》もその頃の作品と考えられる。

しかもこの襖絵は、鞆別荘のために注文したもの、さらに言えば、藤井与一右衛門が、弟・厚二を通して注文したものと考えられる。

与一右衛門が、鞆別荘において文人的な生活したいと望み、厚二が学生時代に絵の手習いで師事していた結城素明に依頼したのであろう。素明も丁度、中国画題を描いていた頃で、「琴棋書画」というテーマも自然に決まったのであろう。

この襖絵は、与一右衛門の別荘での生活を物語る重要な資料で、半壊した別荘の中ではなく、倒壊を免れていた蔵の中に専用の桐箱の中に保管されていた。普段使いの襖でなく、正月や来客など特別な時のための襖だったことが幸いしたのである。

さらに与一右衛門の文人的な趣味を示すものに、漢詩「鞆八景」がある。与一右衛門が、「聴泉」という雅号で、1948年(昭和23年)に書き残したものである。

  鞆八景

 

藤井与一右衛門「鞆八景」原稿

「鞆八景」は、「瀟湘八景」を本歌とする、鞆の浦を歌う漢詩である。

「瀟湘八景」とは、北宋の宋廸(そうてき)が描いた中国湖南省の洞庭湖のある瀟湘の画題で、「山市晴嵐、漁村夕照、遠浦帰帆、瀟湘夜雨、洞庭秋月、平沙落雁、江天暮雪」のことをいう。日本では、近江八景や金沢八景など各地の八景にアレンジして親しまれてきている画題である。

与一右衛門は、それに倣って次のような漢詩「鞆八景」にしている。

 「鞆八景」            
  賽嶺暮雪                  
  離庵夜雨
  鳥口晴嵐
  平港帰帆
  圓寺梵鐘
  鷗岩游禽
  神原夕照
  水島秋月

 与一右衛門は、この「鞆八景」に従って日本画家に絵を描かせようとしていたのではないかと考えられる。これにもう少し詳しく説明を加えた次のような現代文にするとその景色が浮かんでくるであろう。

  日暮れの賽嶺(水呑)に雪が降り
  人里離れた庵の夜に寂しく雨が降る
  仙酔島の鳥ノ口が霞に煙り
  平港に帆かけ舟が戻ってくる
  円福寺の鐘が鳴り
  皇后島近くの鷗島に鳥たちが遊ぶ
  走島の神原港が夕焼けに染まり
  水島の灘に秋の月が上る

 

霞に煙る仙酔島

ここに出てくる賽嶺や鳥ノ口、平港、円福寺、鷗島、神原という地名は鞆別荘の周辺のもの(水島だけが遠方の灘を指す)で、四季折々の瀬戸内の豊かな自然をとり込もうとしていたことが分かる。

寂しい鞆別荘からは、鞆港や平港への船の出入り、仙酔島の鳥ノ口や鷗島、走島の神原港を臨むことができる。円福寺の鐘が鳴り、鳥たちが遊び、空が夕焼けに染まる。やがて少し離れた賽嶺に雪が降り、遠くの水島の灘に月の出る光景が浮かぶのである。与一右衛門が別荘に住み始めて約20年の歳月が経っていて、すでに鞆の風景が彼の血となり肉となっていたのであろう。目を閉じていても、光景が浮かび、耳を澄ますと鳥のさえずりが聞こえ、潮の香りさえしていたと思われる。

藹然荘八勝

与一右衛門はこれに続けて、「藹然荘八勝」と「依蔕海樓八趣」という漢詩も添えている。鞆別荘のことを、霞や靄(もや)が立ち込める家「藹然荘(あいぜんそう)」と称した。

 「藹然荘八勝」
  獻春聲梅
  朝噋映櫻
  細雨新緑
  夕照白帆
  月夜金海
  満山錦繍
  歳晩東雲
  銀島布置

 これも、説明を加えた現代文にすると次のようになる。
  春が早く来て梅に鳴き声を聴き
  朝の光が桜を映し出す
  小雨が新緑に降り注ぎ
  夕焼けに白い帆掛け舟が走る
  夜の月光が金の延板の如く海に輝き
  山いっぱいに金襴が広がる
  歳の暮に曙はもっとも美しくなり
  雪が降ると島々は銀色になり、 
  白い布を敷いたようになる

 

後山山荘(鞆別荘)から見える曙の風景

春に梅の木で鶯が鳴き、やがて桜が咲く。夏に新後山山荘から見える曙の風景
 緑が広がり、海に船が走る。秋に月が美しくなり、山が紅葉に染まる。冬に曙が美しくなり、銀色の世界が広がる。別荘から見える四季の変遷のトピックをとりあげている。与一右衛門がその移ろいに心酔していた様子が見えてくるのである。

 蔕海樓八趣

  さらに別荘のことを衣服のように薄い海楼「依蔕海樓(いたいかいろう)」とも称している。

 「依蔕海樓八趣」
  春窻綻梅
  浴窓虹橋
  黄梅老鶯
  滴泉浴禽
  机下舩喚
  遠島雷火
  閨櫺風月
  荒天泊舟

 これも、説明を加えた現代文にすると次のようになる。
  春の窓に梅が綻び
  風呂の窓から島々に架かる虹が見える
  黄梅に春遅くまで鶯が鳴き
  禽浴の滝で小鳥が水浴する
  書斎の下の方から漁船のざわめきが聞こえ
  遠くの島に雷が光る
  寝室の網戸から風が入り、美しい月が見えるが
  風雨が激しくなり、船は港に戻り停泊する


虹がかかる仙酔島

 ここにも春の梅からはじまり、風呂から見える虹、鶯の鳴き声、庭の滝壺で水浴する小鳥、港のざわめき、遠方での雷光、美しい月など、鞆別荘における朝から夜まで光景、また様々な季節の風物が綴られている。

 このように、藤井与一右衛門は鞆別荘に特別な思いをもっていたわけだが、こうした文人的な趣味性というのは、与一右衛門が先代から引き継ぎつつ、新たに購入しながら増やしてきた彼のコレクションからも読み取ることができる。

参考文献:谷藤史彦『藤井厚二の和風モダン -後山山荘、聴竹居、日本趣味をめぐって』水声社

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