藤井厚二(4)【アートのさんぽ】#28
再生された鞆別荘(後山山荘)
鞆別荘再生の端緒
いくつかの偶然がつながり、ひとつの奇跡が起きることがある。
東京で証券会社の役員をしていた施主が、福山に暮らす母親を亡くしたのは2008年であった。彼は、故郷との関係を断ち切られるような、そのルーツを失ってしまうような喪失感を感じるようになっていた。その翌年、会社員の生活を終えるのも遠くないとして、故郷に近く、海の見えるような場所で釣りでもしながら暮らそうかと本気で考えはじめ、土地を探しだしたのである。そんななかで、ネットの検索に、鞆の浦の一角が売りだされていることが引っかかり、現地へと急いだ。山腹に石垣を築いて造成した場所で、鞆の港や瀬戸内海が一望のもとに見える絶景のポイントであった。しかしそこに、既に確認してきたように崩壊した建物や庭のある藤井与一右衛門の鞆別荘が広がっていたのであった。
施主は、その絶景を目にした時点で取得する意志を固めていたが、その意味を考えるべく一旦東京に戻った。証券マンらしく、不動産は、住居用であれば保有コストの問題がないが、資産としての「果実」は期待できない。一方、金融資産であれば利息や配当という「果実」を生みだす。では、この不動産にどのような「果実」を期待できるのであろうかと考えると、そこには景色という「果実」がある。しかもそれは所有者だけでなく、すべての訪問者にもたらされるものであろうと考えたのである。そうであれば購入する価値があるだろうということであった。もともとその土地は、「鉃屋」の元番頭の不動産屋が仲介していたので藤井与一右衛門の所有であったこと、建物は藤井厚二設計のものではないかと考えられるものであったが、当初はそれを価値あるものとして考えてはいなかった。
しかし、それを確かめるべく、当時「「聴竹居」と藤井厚二展」を準備していた竹中工務店のギャラリーエークワットにメールを送ったのは2009年11月であった。
「藤井厚二さんは「くろがねや」の一族とのこと。福山市鞆町後地の高台に「くろがねや」の別邸だった住居が、くずれかかった状態で存在しています。これも藤井厚二さんの作品の雰囲気があります。そうなのかどうかご存じであれば教えていただきたいと思います。実はその土地を先日入手し、壊して住まいを建築することを考えています」というものだった。
このメールは、企画マネージャーであった松隈章のもとに転送され、それが冒頭に書いたようにさらに筆者への調査依頼のメールとなったのであった。そして、藤井厚二の設計であるとの確認はすでに触れた通りであった。
前田圭介との出会い
そうしたなかで、施主は当初、東京の大手不動産会社に相談を持ちかけた。現地調査を行い、設計施工の意志を示した同社であったが、現地には拠点がなく、施工管理に不安が残されていた。それを解消すべく、地元の建築家を探すこととし、感性に違和感のない前田圭介にたどりつく。そして同年12月に施主は、前田に接触を始める。施主は、「実は福山市鞆の浦の古家有りの土地を取得しました。医王寺の隣の土地で景色に一目ぼれし取得してしまいました。さてどんなものかと現在悩んでいます。…そこにある古家のサンルームのようなものは藤井厚二というくろがねや一族の建築家が京都に建てた「聴竹居」という住居のサンルームとそっくりという人もいます」とのメールを前田に送り、両者はその翌日に東京で会い、直ぐに具体的な相談に入った。施主は、崩壊寸前の別荘を更地にして、夫婦二人で住めるオープンデッキや土間のある1LDKの平屋を設計してもらうつもりでいたが、前田は「藤井厚二の設計した建築を壊したらこの業界にいられなくなります」という悲痛な反応を示した。施主はその熱意にほだされる形で前に進むこととし、前田は藤井厚二の設計思想を受け継ぎ、敷石などを測量しながら、主屋の原型を推定し、それを発展させる形をとって再提案し、施主も納得したわけである。
ただ前田も「現地調査に行った際の状態は、あまりにも瓦解が酷く、果たして本当に残せるのかという思いが頭をもたげ、図面を起こし現地へ行っては心が折れそうになることもあった。しかし、在るモノを生かしたいという想いが実に4年間この敷地へ足を運ばせることになった。振り返ってみると、この向き合った長い時間はまさに無言で語りかけてくる建築家・藤井厚二との対話であった」と述べるように葛藤しながらの取組みであった。
ここから、鞆別荘の再生の物語が始まったのである。
前田圭介の再生計画
前田圭介は、鞆別荘の再生について、すでに幾つかの雑誌で述べ、さらに2016年10月25日に筆者の求めに応じて詳細に語ってくれているので、これをもとに記していきたい。
鞆別荘は、全体として相当に朽ちていたが、建物の南東面(海側)の部分が少ししっかりしていたので、そこを軸にどのように進めようかと考え始めた。施主とは、建物をできるだけ残す方向で交渉しようとしていた。当然ながら予算的な縛りも当初からあったので、それを大きくしない範囲でどのような方法がとれるのか現場を見ながら考えていった。とりあえず、瓦礫の撤去やイノシシ対策からはじめなければならなかった。残った建物の崩壊を食い止めるため、屋根の瓦を撤去するとともに瓦礫の中の瓦もストックする手立てを講じていった。建築史家の川島智生と現場で会い、裳階(もこし)風の屋根、土蔵造りの壁は、藤井厚二の建築の重要な部分であることを聞き、この部分も残していこうと決めたのである。
前田は、建物の元の姿を調べなければと思い、2010年3月頃から何度も通い、崩壊した鞆別荘の実測をはじめ、藤井厚二の建築と濃密に向き合う時間を持ち、じっくりと考えた。敷石を測り、瓦礫の下に埋もれた部材を調べて、全体が大屋根と下屋による裳階風の二層構造の屋根のプロポーションであったことを確認した。そして、藤井厚二の建築環境工学を新たに解釈しながら、内外のつながりや熱環境に配慮した縁側(サンルーム)を生かした建物の最初のラフなイメージデッサン(図)もこの時に描いた。同年秋頃までに実測図(図)は完成、そこから推測すると当時の建築面積は約50坪であった。床の間のある居間には、庭の滝が見えるように丸窓があったことも分かった。ただ、施主の要望や条件から考えると改修当初のプランニングをコンパクトな約30坪で考えざるを得ず、その構造や部位の設計もはじめた。
こうした中で、前田は藤井厚二を見つめ直し、そのスケール感を自分なりにひも解こうとした。藤井厚二の実験住宅を第1回目から第5回目までの平面図を見直していくと、そのなかで、第3回目と第4回目にベランダが登場し(図)、第5回目で縁側(サンルーム)となったことに注目した。最初に西洋風のベランダを取り入れ、それを日本的な縁側に変えていった意味を考えたのである。さらに、京都の聴竹居にも実際に訪ねて、内部のようでいて外部のような縁側のことを考えた。縁側と居室の間にある敷居に注目、もしかしたら網戸が入っていたのではないかと想像した。
「夏に、居室側の網戸を閉めて縁側の窓をすべて開け放つと、そこは全くの外部となる」と感じた前田は、居室との間の扉を閉めると縁側(外部)、開けるとサンルーム(内部)となることを改めて実感し、藤井が内と外との関係を意識して設計していたことに、大きな共感を覚えた。
「変化しないはずの建築が、扉ひとつで内部となったり外部となったりと変化し、外と内が有機的につながっている」ことに前田は感動したのである。建具を開放することにより、建築は動くものであり、内と外との関係も変化していくことを認識したのである。
そうなると、コンパクトなプランというのは藤井の考え方を変えるものであり、鞆別荘のプロポーションを元来の姿に戻すべきではないか考えはじめた。建物内部と外部の自然が心地よくつながる空間をめざし、元の建物の形や内法寸法、スケール感をいかすことが重要ではないかと。
ただ大きく崩落していた建物だったので、全くの復元というのは無理であるし、現代建築家としての前田の仕事ではないと考えていた。前田は、自分がすべき復元とは何かと自問した時、外観を元に戻すということは自然であるが、内部については自由に作ってもよいのではないかと考えた。藤井の歴史的な住宅を、自分が再生することによって、新しい意味を付与できるのではないかと考えるようになった。
再生の考え方
前田は、リノベーションについて自分なりのルールを考えた。
つまり、縁側(サンルーム)は公開するようにする。そのため、海側(南東側)に内露地を作り、人が来ても、内部を通らずに辿り着けるようにする。外部のプロポーションは踏襲する。現代的な要素を取り入れる。もともと良い材料が使われているので、材料にはこだわる。腐りかけている部分を直して再現する。図面でやるべきこと、(図面に描けないもので)現場で工夫してやるべきことを分けて考える、ということであった。
2011年には、実施設計とともに構造設計や地質調査をはじめていった。
施主は、当初台所をオープンキッチンとして望んでいたが、藤井の典型的な台所と食事室は、狭い配膳口でつながるようなクローズドな関係だったので、セミクローズドな台所を提案したり、居間の床を現代的なものとするため石材の使用を提案したりした。施主はこれらに否定的だったが、前田が考え方を粘り強く説明する中で受け入れていった。
また施主は、居間に暖炉を入れたいという要望も持っていたので、床の間の所に暖炉を置くプランも練っていたが、床の間は藤井の建物にとって重要な場所であり、床の間を生かしたプランに修正し、さらに床壁を取り払って、サンルームと居間の床の間との間を跳上障子とし、両者の間の空気の流動をつくり、縁側としてもさらに機能させる使い方のプラン(図)も提案していった。このようにディテールを練っていくなかで、全体のプランの方向性も明確になっていった。
構造設計の技術的な考え方
構造設計においても技術的な問題をクリアにしなければならなかった。
現状の基礎を残し、生かしていく技術的な問題、つまり細い急坂をトラック・ミキサが入れるのか、生コンクリートをポンプで現場まで圧送できるのか、敷石を生かす方法があるのかなどを具体的に検討していく。耐震性のある土台をつくるためには、躯体全体を一度ジャッキアップしなければならないが、これにはコストがかかるので、部分的にジャッキアップする技術的な検討を開始した。
既存の外周回りの土台を活かし、内側に新たな土台を這わせて互いに緊結させる。それにより、既存の伝統工法の基礎も見せることができるようになり、さらに、敷石や束石に載っている柱の足元を一体化するため、また山地という性格上、湿気を避けるため、コンクリートのベタ基礎とし、敷石の両端の基礎梁によってアンカーを定着させる。敷石面に建っている既存の面皮付柱は、コンクリート打設時に、各柱周りにスタイロフォームでヌスミを入れ(図)、打設後に柱梁をわずかにジャッキアップし、無収縮モルタルを流す。硬化後に腐食した柱脚をカットし、新設の土台と側面からアンカーで緊結する。このような方法で大掛かりなジャッキアップによる土台のやり替えを回避させた。構造は、前田の恩師でもある田中輝明建築研究所に依頼し、どのように耐力壁をとって構造を担保していくかを解析してもらい、プランの骨格を決めていった。
屋根では、小屋裏で使われていた桔木(はねぎ)の構造(図)を研究し、新しくして使うようにした。これは、テコの原理で深い軒をはね上げるようにして無柱で支えるもので、この建物の大きな特徴ともなっている。この桔木は、聴竹居でも使われている。上棟では、既存の棟と新しい棟とのレベルを調整し、残存部分と新規部分との摺り合わせを慎重に行って連結している。
桔木の調整をして軒先を揃え、大屋根と下屋を連結して屋根仕舞としている。前田も、柱の少ない軽い構造にしながらも屋根を持たせ、鴨居の荷重を調整するこの伝統の技術には驚きを隠せなかった。また、裳階風の二重屋根の構造や土蔵風の大壁の構造は、断熱の機能ゆえに藤井が取り入れていたものなので、この構造も引き継ぐこととした。前田は、「その機能性と形状の美しさのバランスは、藤井のデザインの重要なものだ」と感じていたようだ。
参考文献:谷藤史彦『藤井厚二の和風モダン -後山山荘、聴竹居、日本趣味をめぐって』水声社