藤井厚二(1)【アートのさんぽ】#25
藤井厚二の鞆別荘、発見と再生
1通のメールから
それは1通のメールから始まった。建築関係の松隈章氏から、広島県福山市内の鞆の浦に藤井厚二ゆかりの建物があるとの情報が寄せられたのである。
早速に私の所属する近代建築福山研究会のメンバーたちとともに現場を訪ねたのは、2009年11月16日のことであった。当然ながら鞆の浦には何度も行っていたのだが、後山中腹の医王寺付近には一,二度しか足を延ばしたことはなく、ましてやその北隣の鬱蒼とした木々に隠れたところに古い建物(鞆別荘)があろうなどとは思ってもみなかった。
敷地を支える堅牢な美しい石垣をすり抜けて石段を登っていくと、少し現代的な木製の門構えが見えてきた。特に門扉は、目線の高さのところに短冊ほどのスリットが複数入った一枚板状のもので、明らかにモダニズムの洗礼を受けたデザインだと感じた。われわれは胸が高鳴るのを感じていた。しかし敷地内に足を踏み入れると、そこは瓦礫の山となっていて、呆然と眺めるしかなかった。周りを囲む大きな木々の落葉は、屋根を覆い尽し、時間とともに腐食を進ませ、雨水の浸透を許し、構造を脆弱にさせ、大方の崩壊につながっていた。
辛うじて残っている部分も傷みがひどく、あとは時間の問題というところであった。われわれは、その残っている建物のなかで縁側(サンルーム)の部分に注目した。
聴竹居と瓜二つ
それは、見るからに藤井厚二(1888‒1938)の名作、京都・大山崎の聴竹居と瓜二つのように感じたからである。
早速中に入ると、天井が網代で、そこに開閉式の換気口があり、内壁が和紙張りであるという事実が見えてきた。いずれも藤井厚二の特徴とするものばかりで、興奮を抑えながら採寸をはじめた。ここからは、一緒に調査に入った宮地功の報告をもとに少し詳しく見ていきたい。
主屋の建物は、柱梁構造の在来工法による木造平家建てだが、崩壊した状況では全体の間取りは良くわからなかった。その屋根は、大屋根と下屋の二層構造で、大屋根がセメント瓦葺きで、下屋がいぶし瓦となっていた。屋根のセメント瓦も、コンクリートの断熱性の高さを知っている藤井ならではの使い方のように思われるが、いぶし瓦に比べて防水性、耐久性で劣るゆえに建物の寿命を縮めたと考えられる。小屋裏を高くして外壁に土壁を使い、屋根にも葺土を使っていた様子が窺え、室内の熱環境を研究、実験していた藤井らしい手法のように思われた。
縁側(サンルーム)の屋根は、母屋の南側の下屋の下に差し込まれる形となっていて、室内の天井高は高いところで2,230㎜、低いところで1,930㎜と通常の高さより低くなっている。でもそれは、屋根を銅板葺きにして勾配を緩くし、足元の束石も通常より低い130㎜程度とし、その上の大引も60㎜と非常に細い部材にして、何とか確保した高さであった。
縁側の側面上部を見ると、屋根が主屋の庇にもぐり込んでいる様子が分かる。複雑な納まりで、縁側の屋根を支える垂木が「くの字」に曲がって、主屋の庇の垂木に一本の材として繋がっている。ただ、この曲がり部分に小屋裏換気口を設けることで、垂木の曲がりの不自然さを感じさせないようにしている。
この小屋裏換気口は、室内の開閉式の換気口と繋がり、天井内や室内上部の暖かい空気を排出し、室内気温の上昇を押さえるために用いられている。これも、藤井が使う室温調整の仕掛けである。
鞆別荘の縁側(サンルーム)
さらに、この鞆別荘の縁側(サンルーム)を聴竹居のそれと比較してみると、藤井の設計であることが明確に見えてくる。
別荘の間口、奥行きは6,155×2,200㎜で、聴竹居の6,000×2,200㎜とほぼ同寸法とみていい。間口が微妙に違うのは、別荘の主屋との取り合いのために少し拡がったものと思われる。方位について、別荘は西側から南側にかけての鞆の海を見下ろす景観がすばらしい。聴竹居も南側を俯瞰する景観がすばらしく、ともに正面をほぼ南に向け、俯瞰する角度も似通っている。正面の立面は、別荘が西側に開きのドアがついて左右非対称になっているが、聴竹居が左右対称になっている。
別荘は、西側に滝のある庭園が設わり、内側から見える風景も切り替わるのでドアが設けられたと考えられる。窓と地窓について、ともに三面の外壁全てに設けられていて非常に開放的になっている。その高さについて、別荘は天井高が低いため1,200㎜程度の高さしか取れていないが、聴竹居は1,500㎜程度取れている。その地窓について、ともにすりガラスを使い、中連窓について、別荘は前面に透明ガラスを使って眺望を確保し、聴竹居は、上部に磨りガラスを使うことで上方向への視線のぬけを止めて、水平性を強調している。したがって両者とも透明ガラスで開放されている部分は1,100〜1,200㎜でほぼ似通った高さになっている。
鞆別荘の構造と外観
柱について、別荘は柱梁を現した真壁構造で普通寸より若干細めの柱を使っているが、聴竹居は屋根の荷重を桔木(はねぎ)で主に主屋側に負担させているために、建具の方立と似た構造で非常に細い柱になっている。なお別荘では腰壁部分に構造補強のため筋交いが設けられている。
外観について、別荘は真壁構造で、壁が漆喰塗りで、主屋部分に合わせるために束石を使用して直接大引を載せ、床下を開放し、聴竹居は大壁構造で、壁が漆喰塗り、コンクリートの布基礎となっている。屋根について、別荘は縁側部分が銅板葺き、下屋部分が瓦葺きで、主屋がセメント瓦、聴竹居は主体が瓦葺きで、周辺部は銅板葺きも使う。
内部の仕上げ
内部の仕上げについて、いずれも床は板張り、壁は漆喰塗の上に和紙張り、天井は網代で、天井には開閉式の換気口が2個所設けられている。ただ天井高は、別荘が1,930〜2,230㎜、聴竹居が2,495㎜、別荘では、屋根を主屋の下屋にさし込み、床を主屋より120㎜下げ、さらには天井に勾配をつける。
このように、敷地形状や周辺環境、景観の違い、増築であることによる構造、寸法、意匠の制約などに起因する違いはあるが、別荘の縁側には、聴竹居と同じ手法、同じ設計思想が流れていると考えられる。つまり、聴竹居と同じデザインを、鞆別荘に持ち込み、造らせたと考えるのが自然なのであろう。
藤井厚二作であると確信
われわれが鞆別荘を訪ねたと同じ時期に、建築史家の川島智生もここに入り独自に調査をしていた。しかも逸早くまとめて、『醸界春秋』2010年1月号で発表したのであった。
そこでも「玄関があったと覚しき場所は朽ち果て、その向こうにはなにもない。屋根は落ち、柱は倒れ、壁は崩れ、完全に崩壊している」と報告している。川島も、「屋根が平屋建てにもかかわらず、裳階風に二段」になっていることに注目し、真夏を涼しくするために小屋組の屋根裏の懐をできるだけ大きくとったのだろうとした。さらに、縁側について、「銅板葺きのこの建物は、ガラス窓の配列など、京都大山崎にある聴竹居のサンルームと共通する形状を示す。だが細部を観察すれば、〔…〕簡素化されていることに気がつく」とし、藤井厚二作であることを確信しているとした。
参考文献:谷藤史彦『藤井厚二の和風モダン -後山山荘、聴竹居、日本趣味をめぐって』水声社
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