藤井厚二(3)【アートのさんぽ】#27
藤井厚二の実家、藤井家旧蔵「御所丸茶碗」をめぐって
昭和初期の売立
大阪美術倶楽部(1910年に設立された大阪の美術商の団体)において、1933年(昭和8年)10月29日に「広島県藤井此君園氏所蔵品入札」という売立(オークション)が行われた。
筆頭札元は大阪の坂田作冶郎で、宰領は藤井厚二であった。この入札名は、造酒業も営む藤井家が販売していた銘柄名「此君」からとったものである。
この売立も、兄の藤井与一右衛門が弟の厚二に依頼して行わせたものであった。与一右衛門の趣味性ばかりか、厚二の趣味性も見えるものである。
この売立には、300件の作品が出されていたので、その概要を詳しく見ながら、藤井厚二の趣味について考えてみたい。
絵画
まず大きな部分を占めるのが、絵画112件である。その多くは江戸期のものであるが、藤井厚二は著書『日本の住宅』のかなでそれらの画家について詳細に次のように述べている。
「田能村竹田は描くに清人の画を模し、之に務めたので清人江稼圃は其の模倣することの巧なるを賞した程ですが、画を描くに南画の手法に據り俳句に漢語を多く用いても、自己の真髄は没却しなかった与謝蕪村に対する如き敬慕の念は起こりません。従って竹田の作品は蕪村の如く偉大でもなければ、浦上玉堂の遺した作品程の感興も起しません。我国の三名陶工の一人と云わるゝ青木木米の作品に於ても自己を忘れた模写が極めて多く、尾形乾山の如き面白味はなく頗る不満を感じ、反って余技であった画に於て共鳴す可き点が多いように思われます。建築に於ても偉大なる建築物は極めて気持ちよく崇高の念にうたれ、之より受くる印象は実に深いものです。斯かることは蕪村の如き非凡の名手に対しては望み得ることですが、偏屈なる個性の発露は模倣以上に不快です。曽我蕭白は圓山応挙の画風を罵倒しましたが、偏狭なる個性はその作品に表れて応挙以上に不快なる感を与えます。」
ここに述べられた画家たちの作品も売立に含まれていた。たとえば、田能村竹田の《淡彩秋景訪友山水》(図)や青木木米《松下煎茶 竹田賛》(図)、そして浦上玉堂《米法山水大幅》(図)といった縦長の軸装の山水図があった。
竹田、木米の作品は、垂直方向の線が目立ち、静かな落ち着きをもっている。藤井厚二が特に評価していた浦上玉堂の作品は、北宋後期の描法に倣った山岳山水で、筆は粗放であるが生動感がみなぎる図であった。
さらに、尾形乾山の《朝妻画讃》(図)、円山応挙の《瀑布亀》(図)、与謝蕪村の作品も含まれた《諸名家書画張交六枚折屏風一双》もあった。
その他、伝岩佐又兵衛の《浮世絵中屏風 一双》、岸駒《牡丹孔雀 皆川書 双幅》(図)、谷文晁《富士山水横物》、田能村直入《梅谿訪友詩画》、呉春《海辺老松鶴》、松村景文《蓬莱双幅》、伊藤若冲《御柳仏桑花横物》、酒井抱一《籠蛤画讃》、岡田為恭《源氏絵》、頼山陽《水墨山水画賛》、中島來章《中菱花双鯉 左春景嵐山 右秋景通天 三幅対》、富岡鉄斎《青緑蓬莱山》、狩野尚信《中布袋 左蓮鷺 右芦雁 三幅対》、狩野周信《大舜 左右夏冬真山水三幅対》、松尾芭蕉《竹画讃》、今尾景年《秋池水禽》、幸野楳嶺《夏谿書屋》、竹内栖鳳《薫風行吟》(第2回帝展出品作)などがある。江戸初期から続く藤井家の歴史を反映して、江戸から明治にいたる代表的な画家たちの美術館級の作品がそろっていて壮観である。
茶の湯
書は12件あり、主なものには、沢庵《一行》、松平不昧《山田月画讃》、了々斎(表千家九世)《横物》、吸江斎(表千家十世)《富士画讃横物》、碌々斎(表千家十一世)《大横物》などがある。
藤井家は代々表千家流の茶の湯の系統のようで、茶掛の書が多いのも特徴である。
表千家の記録によれば、久田家の門下に藤井家の系譜が現れる。三代久田宗全の時に入門し、四代久田宗也の時に皆伝を受けた藤井不源斎(善右衛門、1759年没)、久田宗参の弟子、藤井景二(不入斎、1856年没)、久田耕甫の弟子で、碌々斎の在世中の幕末に家元が全焼した時(1864年)、多大な寄進をした藤井景甫(不朽斎、1889年没)の名前が見られる。
これらの茶掛の書からも、表千家の系譜を守っていた形跡が見えるのである。
茶道具
その茶の湯の趣味を物語るように、茶道具(懐石の器を含む)は140件もある。内訳は、茶碗22口、香合18口、茶入・棗10口、茶杓8本、花入7口、水指9口、釜5口、向付11口、鉢や盆26口、香炉1口、その他23件となっている。
茶碗で、世間の注目を浴びた《御所丸茶碗》については、後で詳しく述べるが、それ以外の茶碗でも《青井戸茶碗 呼銘みどり》、《利休所持 長次郎 赤茶碗 呼銘常盤》、《志野茶碗》、《釘彫伊羅保茶碗》、《錐呉器四方茶碗》、《斗々屋平茶碗》、《黄瀬戸筒茶碗》、《古伊羅保内刷毛目茶碗》、《光悦 黒茶碗》といった名碗の数々を持っていたようだ。
香合では《呉州松皮菱香合》、《古染付張子牛香合》、《祥瑞本手立瓜香合》、《唐物独楽平香合》、《祥瑞瑠璃雀香合》などある。棗では《利休判黒棗》、《宗全一閑張菊棗》など、茶杓では《宗全共筒茶杓》、《利休茶杓》など、花入では《権十郎一重切花入》など、水指では《万暦赤絵桝水指》、《青磁鉄鉢大水指》、《祥瑞一閑人山水花鳥丸紋絵共蓋水指》など、釜では《古天明方衝釜》など、鉢では《祥瑞本捻鉢見込牡丹》、《古備前半月形手鉢》、《呉州赤絵福字鉢》などがある。
その他では、《長船忠光脇差 金牡丹獅子拵》など28口の刀剣があった。
以上に見られるように、藤井与一右衛門のコレクションは、江戸から明治にかけての日本画や茶の湯関連が主体となっていて、数寄者としての趣味性を示すものであった。
御所丸茶碗
先にも触れたように、この売立で最も注目されたのは、《御所丸茶碗》であった。
出品番号は「1」、名称は《本手御所丸茶碗 藤屋伝来》となっていて、通称《御所丸茶碗 藤井》とされていた。
御所丸茶碗というのは、古田織部の好み(意匠)によって現在の韓国の釜山近郊、金海の窯で焼かせたもので、御所丸という古くからの対鮮貿易の御用船で運ばれた茶碗であると考えられている。文禄・慶長の役(1592‒1598)の際に島津義弘がこの手の茶碗を朝鮮で焼かせ、それを御所丸船で運び豊臣秀吉に献上したという伝承がある。
ただ、最近の研究によれば島津義弘の軍は文禄・慶長の役では金海を経由していないことから、御所丸船で秀吉に献じたという説は疑問視されているが、御所丸という名称が御用船の名称からつけられたのは明らかなことであった。
御所丸茶碗には、よく焼き締まった白色の肌の「本手」あるいは「白刷毛目」と呼ばれるものと、その上に黒い鉄砂を片身替わりに塗った「黒刷毛目」と呼ばれるものがある。形はいずれも歪みがあり、高台が箆(へら)で五角ないし六角に切られている。
本手御所丸茶碗の代表的なものとしては、《古田高麗》(鴻池家旧蔵)や《藤田》(藤田美術館蔵)があり、そしてこの「藤井」がある。
この茶碗は大阪の日本料理店「𠮷兆」の湯木貞一に旧蔵され、やがて湯木美術館に移って、「由貴」という追銘がつけられている。
この茶碗は、やや丈の高い沓形で口縁は玉縁、胴には細かい轆轤目(ろくろめ)が巡り。強く張った腰には粗い篦削りが施されている。大きな高台は九角になり、高台内は無釉で無造作に篦で削られる。
白い釉薬は柔らかく、胴には淡紅色の斑紋、腰には薄墨色の丸い滲みあり変化のある景色になっている。あたかも春の淡雪のような風情があることから、松永耳庵により「由貴」という追銘がつけられている。
この御所丸茶碗の売立の筆頭札元となった坂田作冶郎(柏樹老)とは、大阪・高麗町の道具屋で、湯木貞一と永年親しくしていた人物だった。湯木は、この入札について述懐している。
「90年の道具屋生涯ちゅう、柏樹老のいちばん華々しかったのは、何といっても、広島県福山の藤井此君園の売立の時でした」(「茶極道」『茶道雑誌』1960年3月号)と。
坂田は、昭和初期に銀行破綻を発端とする事情で困っていた女性の世話をしたことがあった。その陰徳に感激したのが、その女性の兄であった藤井厚二という。藤井が兄与一右衛門から売立を頼まれた時、それを坂田に一任したというのである。
「なにしろ福山の藤井家といえば、尾道の橋本[広島銀行の前身の創始者]と併称される中国筋の道具持と知られ、その宝庫を一手に掌握したのですから、道具屋冥利、男一疋の花の舞台が提供されたようなものです。人間陰徳を積めば必ず陽報あるを柏樹老しみじみ体得したわけです」。
「庫を開くと、ウブ品たくさんで、なかには乾山絵替りの筒向十客など、いまだ一度も使ったこともない真新しいのが出ました。とりわけ、一と際光りかがやいたのは白手御所丸の茶碗でした。それまで関西では伝説の多い鴻池の古田高麗をもって白手御所丸の第一品といわれていたが、それに劣らぬ名品だった」と。
坂田は、大阪のほとんどの老舗を札元に加わえたが、肌の合わなかった春海商店を札元に加えなかった。これを知った春海商店の三尾邦三は大いに憤慨し、藤井厚二に捻りこんだという。三尾の様子に驚いた藤井は、坂田と相談して札元に春海商店を加えることとなった。
こうして三尾としては意地でも御所丸を取らなければならなくなった。前入札で二番札だった京都の土橋嘉兵衛もその後、倉敷の大原三楽庵(孫三郎)の命を受けて入札に臨むこととなった。
そして入札当日、特別扱いとされた御所丸茶碗は青竹の柵に囲まれ、三尾と土橋は伝説的な競り合いをしたのである。
その結果、通り相場の7、8万円をはるかに越え、三尾が15万円で落札し、土橋が13万5千円で二番札となった。土橋はそのかわり、乾山作絵替筒向付を2万6千9百円で落札した。
三尾は、落札したものの引取る先もなく困り果てていた。最後は友人だった南海鉄道の寺田甚吉に泣きつき寺田家に収まった。
終戦後は、芦屋の松岡家に移り、茶事に用いられた。その後、湯木貞一のもとに入ったという。
「御所丸が私の手もとに届いた時、同町に住むよしみでわが子が戻ったように喜んでくれられたのは柏樹老人でした」と。
そして坂田は湯木に「この頃は黒刷毛御所丸が流行るそうですが、黒刷毛なんぞは狂言の黒塗婿のように一段低いもので、白手御所丸の気品の高さは能の老女物の風格があります」と言い遺したという。
それが昭和30年代前半のことで、湯木はこの御所丸を早速に茶事で使ったが、1963年(昭和38年)には追銘がつけられた。先述のように追銘をつけたのは湯木と昭和20年代から親交のあった松永耳庵で、御所丸茶碗のなかでも白い釉が際立つ逸品であることと湯木の名をかけて「由貴」とされた。
もともとの内箱蓋表には筆者不祥で「御所丸 茶碗」と銀粉字形されている。現在の内箱蓋表には「御所丸 由貴」とされ、蓋裏には「八十八翁 耳庵」と松永耳庵の手で書かれている。以後、湯木貞一はこの御所丸茶碗を愛用し、大切な茶事の折には「大井戸茶碗 銘対馬」、「釘彫伊羅保茶碗 銘秋の山」などとともに用いてきたというのである。
参考文献:谷藤史彦『藤井厚二の和風モダン -後山山荘、聴竹居、日本趣味をめぐって』水声社