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藤井厚二(5)【アートのさんぽ】#29


藤井厚二の鞆別荘の再生、そして後山山荘の誕生


 
 2012年の夏は、ターニングポイントとなった時期であった。
ひとつは、施主にとって鞆の家の位置づけが変化したことの問題であった。
施主から前田圭介に、役員をしていた会社を退職しそこを終の棲家にするつもりであったが、東京での生活も捨てがたく新会社を設立して仕事を続けることとなったことが伝えられた。鞆の家は時々使う別荘という位置づけになり、不在時に見学に提供して訪問者にもその景色を味わってもらう方法を探るようにとも伝えられた。
 もうひとつの施工方法(見積りを含む)の問題で、新築に近い工法による概算見積では高くなり、施主からも新しい工法を期待されて「高すぎる」と言われたのである。
このダメ出しにより、施主も元より計画を中止すつもりはなかったようだ。既に3年に及んでいた前田との付き合いのなかで、そう言ったからといって諦めるタイプではないことは分かっていたし、むしろ新たな工夫が出されるだろうという信頼があったからこそ、取り敢えずのダメ出しであったと施主は述懐している。結果として、これらは前田の新しい施工方法、さらなる工夫を促すこととなった。
 前田は、施主に鞆の家の新しい使い方の提案をしようと考えた。別荘として使わない時期に、縁側(サンルーム)の一般公開やギャラリーとして利用する方法などを探り、鞆の家の新しい使い方を提案した。もうひとつの予算の見直しの問題では、建具の大幅な見直しをしようとした。
 

蔵に保管されていた建具


 
別荘には別棟の蔵があり、当初は入口の扉が開かない状態だったが、躙(にじ)り口のような穴から入ってみると、沢山の建具が保管されていることが分かった(図)。


蔵で発見された建具

本格的な工事で、蔵の扉を開けてみると、桐箱に入った襖絵(結城素明作)や吹きガラスの戸なども確認された。これら残された建具を全て再利用しようと考え、洗い出していって、全てを採寸した。不足のものは、新しく作り、欠損している物は部分的に修理し、パズルのように複雑な組み合わせをしていった。さらに、柱を根継したり、屋根の野地板や海布(かいふ)丸太をクリーニングしたりして再利用を図り、結果的には、鴨居の高さなど藤井の建築が持っている本質的なスケール感を生かす施工方法にたどり着くとともに、見積りを当初案より低く抑えることにも貢献したのである。それは施主の目論見でもあったのかもしれないが、このようにして前田は施主の了承を得たのである。
 

現場で考える工事


 
 2012年9月頃には工事に入っていく。
土壁と柱の見切りをどのようにするかなど、職人たちと意見を交わしながら現場で工法を決定しなければいけないことが多くあった。元の建物の解体図面を残しながら、踏襲できるものや技術は継承し、使える材料(壁材の土など)も残すようにした。下屋は土葺きでやるなど、藤井らしい技術は踏襲するようにした。
藤井厚二の建築は、非常に洗練されたものであり、これに近づくには、品格を崩さないことが重要だと考えた。ただ、多くの制約のなかで、「藤井のクオリティーに見合ったものを確保するのは難しく、アンバランスになっていくのではないかと重圧を感じ、心が折れそうになることもあった」と前田は述べる。
 再生工事のなかで、修理部分と新築部分があるが、修理部分はオリジナルの古い部材と新しい部材とが明確に区別できるようにするために色合わせをしない方針とした。
瓦もできるだけ古いものを使ったが、不足部分は復元したいぶし瓦を使用することにした。古い瓦は外から見えやすい南東側(海側)に集約し、新しいものを北東側(山側)で使うようにした。軒裏の野地板や海布丸太も同様に南東面に集めるようにした。
 

建具について


 
 建具については、先に触れたように残されていたものは全て使う方針を立て、一度工場に運び込んで洗浄し、修理をする。それぞれの建具を見ると、木目の美しい尾州杉が使われ、几帳面を取ったり、上框(かみがまち)を鎌継ぎ(図)の仕口にしたりという丁寧な仕上げが施されていた。これらを再利用するため、鴨居の寸法を5尺7寸と5尺8寸に統一するという普通とは逆の手法をとったのである。どの建具をどこに使うのかを割り振る中で、結果的にオリジナルの寸法を守っていくことにつながっていくことになる。また窓ガラスについても、オリジナルの吹きガラスが多く残されていて、各窓寸法も同じだったので、南東側に集約させて使うようにした。
 

建具、上框の鎌継ぎ


瓦について


 
 屋根瓦については、主屋の大屋根と下屋とで異なっていた。大屋根はもともとセメント瓦で、下屋は「讃岐」と刻印された鎬桟(しのぎさん)瓦、軒瓦に鎌軒瓦と万十瓦が混在していた。先にも触れたように、大屋根については、周辺の木々の落ち葉などが長年にわたって堆積したがゆえに、セメント瓦の表面のコーティングが劣化して雨水が浸透し、構造体の腐食が進行して瓦解につながっていた。
これは、そのまま踏襲するわけにいかないので、形状の類似したいぶし瓦の平板瓦で葺くことにした。下屋については、残存部分の瓦と瓦礫のなかで使用できそうな瓦を選別して、南東側で葺き直した。その他のところでは、鎬桟瓦と鎌軒瓦を四国の菊間瓦の工場に同型のいぶし瓦の金型をおこし、復元している。鬼瓦も既存のものを基に鬼師と呼ばれる職人に依頼して再生させた(図)。


再生された鬼瓦

 漆喰については、オリジナルの状態の詳細が不明だったので、左官職人の試行により熟成日数の違うさまざまな漆喰を製作し、色合わせをしながら決定していった。主屋はクリーム色に近いベージュ色としていった。さらには、大屋根の軒下は面積が大きかったので、少人数で施工するとムラができやすいので、5人の職人が一斉に息を合わせて塗りあげている。
 
後山山荘の完成
 
 敷地面積は約4,600㎡あり、大半は山地であるが、庭園も十分に広大であった。ただ経費的に嵩むこともあり、造園家の荻野寿也に指導を依頼して造園ワークショップを計画し、大学生を中心に参加者を募ることになった。蓋を開けてみると全国から女性6名を含む20名の有志が集まり、作業にとりかかった。初日は、清掃から始まり、夕方には荻野の造園のレクチャーを受けてもらい、全体計画についての認識を深めた。翌日から竹藪の清掃、滝の水路の確保、掘り起こしてコンクリートで成形など順次進めていった。7日目の最終日は、台風が襲来していたが、作業は続行され、完成していったわけである。
 このようにして藤井厚二の鞆別荘は、後山山荘(図)として生まれ変わったのである。

紅葉の後山山荘


 
参考文献:谷藤史彦『藤井厚二の和風モダン -後山山荘、聴竹居、日本趣味をめぐって』水声社

#藤井厚二 #前田圭介 #後山山荘


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