短篇小説「浮きっ歯」
薄暗いバーのカウンター席で、グラスを掲げた男が見知らぬ女の目の中を覗き込んで言った。
「君の瞳に、乾杯!」
テーブルの上で蝋燭の炎が揺れた。女の心も同じように揺れることを、男はひそかに期待していた。
「ずいぶんと歯の浮くような台詞ね」――女はそう言い返してやりたいところではあったが、正直それどころではなかった。文字どおり、瞳に乾杯をされてしまったからだ。幸いグラスが割れるようなことはなかったが、こぼれたアルコールが目に入った女はハンカチで右目を押さえた。
一方で乾杯したほうの男は、不意に左の奥歯に痛みを感じた。正確に言えば痛いというよりは、疼くような感覚であった。まるで実際に、歯が根元から浮き上がってくるような。揺れたのはむしろ、自分のほうであったのかもしれない。
「何すんのよ!」
瞳に乾杯された女は咄嗟に席を立ち、男に食ってかかった。まずは男のネクタイを緩め、次にシャツのボタンを上二つ開け、首元の地肌にガブリと歯を立てた。食ってかかるというのはそういうことだ。
しばしその様子をカウンターの向こうから羨ましそうに眺めていたマスターが、七輪を持ち出して季節はずれの餅を焼きはじめた。彼は以前からこの常連客の女を狙っていたうえに、生粋のマゾヒストなのであった。しかしマスターの嫉妬の炎は強すぎて、つい餅を焼きすぎてしまった。
まもなく雑居ビルの半地下には煙が充満し、火災報知器がけたたましく危機を報せた。客たちは飲み代の支払いなど忘れて、あるいは忘れたふりをして一斉に耳をピンと立てて、脱兎のごとく店を飛び出していった。彼らは家に帰るなり、もれなくにんじんに齧りついた。
カウンターでもみあいになっていた男女もまた、同じく駆け出していた。しかし彼らはにんじんどころではなかった。それぞれ人混みに紛れて店外へ脱出すると、女は眼科に向かい、男は外科と迷ったすえに歯医者へと向かった。男は首すじも負傷していたが、幸い出血はすでに止まっていたからだ。一方で奥歯の、正確に言えば奥歯が元あった場所のうずきはいや増すばかりだった。だがすでに夜も更けていたため、どこの医者も当たり前のように閉まっていた。
女はせめて目薬だけでも買おうと、薬局へ向かった。その頃には右目が兎のように充血し、燃えるほどに熱くなっていた。しかし十メートルほど走った先の路傍で、彼女は全身ずぶ濡れの状態で立ちつくすことになった。
「大丈夫ですか?」
野太いホースを抱えた消防士の男が、女に真っすぐな目を向けてそう尋ねた。男は近隣のバーからの通報により現場へ駆けつける途中、よくある火災報知器の過剰反応に過ぎなかったとの続報を受けて引き返そうというところで、彼女の燃えるような瞳に出会ったのであった。
恋の炎が燃えた。その瞳に引き込まれるように、消防士の目はまさしく真っすぐに伸びきって、これもまた女の目の中にまで入り込んでこようとしているのだった。彼の目は実際に一メートルほど前方にまで、つきたての餅のように細長く伸びていた。
だが目の前にひとたび燃えるものが見えてしまえば、彼は放水しないわけにはいかない。それが消防士の矜持というものだ。その炎は、餅のように伸びる彼の目にもすでに引火していた。彼はホースから思いきり水を放った。女は眼前に迫り来る血走った眼球と水流をよけるように慌てて目をつぶると、「大丈夫です!」と豪語して全身びしょ濡れのまま再び歩き出した。消えたのは彼の目に燃え移った炎のほうだけであった。
それでもまだ、ホースを持った消防士は引き続き彼女のあとをスタスタとつけていった。だが彼は、けっしてストーカーというわけではなかった。目がすっかり飛び出しきってしまった彼のほうでも、にわかに目薬を買いにゆく必要が出てきたというだけだ。
当然だがそうなれば、一気に表面積の増える目の乾きは尋常でない。目薬程度ですっかり伸びきってしまった目を――とりあえずイヤホンコードのように首のうしろへまわしておいてあるその目を――元の状態にまで戻せるのかどうかはわからないが、それでも何もしないよりはマシだろう。不思議なことに消防車は周囲のどこにも見あたらず、しかし彼が手に持っているホースはどこまでも伸びてゆくように思われた。
幸いなことに、薬局はまだ開いていた。立て続けに店内へ足を踏み入れた二人は目薬の棚へと向かう途中、大きく開けっ放しの口の真ん中に、ふわふわと黄ばんだ奥歯を浮かせている男と出会った。まるで歯をうがいしているようにも思われたが、口内が液体で満たされている様子はない。それはもちろん、つい先ほど女の瞳に乾杯した例の男であった。
彼は彼で、とりあえず歯に家出された歯茎のうろに詰める痛み止めの丸薬を買うために、別ルートから薬局へとアプローチしていたのだった。と同時に、首元に刻まれた歯形を隠す絆創膏も買っておかなければならない。どうにかしてその傷を隠さないことには、彼自身も妻に家から追い出されかねないからだ。こんなことになるならば、調子に乗って瞳に乾杯なんてするんじゃなかった。
「また会ったわね。腐れ縁ってやつかしら」
女がそう言うと、二人の縁はみるみるうちに目に見えて腐ってゆき、ドロドロになって床の上にこぼれ落ちていった。そうなれば二人とも相手の顔などすっかり忘れてしまい、互いの恨みも怒りも、たしかな腐臭だけをその場に残して消え去っていった。そしてその裏ではまた別の縁が、奥にあるベビー用品の棚から漂ってくる粉ミルクの香りに包まれて、新たに生まれようとしていた。
乾杯の男は目の前の女の存在を忘れてその脇を通りすぎると、続けて彼女のうしろから姿を現した消防士とすれ違った。前をゆく女にあるべき存在感がそちらへすっかり乗り移ったとでもいうのか、彼は妙に気になるその消防士の背中を目で追うと、銀色のヘルメットの縁に沿うようにして後方へ垂らされている不思議な物体が目に留まった。そして気づけばその先端をひっ摑んで、自身の左耳穴の奥深くへと挿し入れていた。
「いい音だ……近ごろ流行りのワイヤレスなんかより全然いい」
乾杯の男は口内で自由に奥歯を躍らせながら、不明瞭な発音でそう言った。消防士がイヤホンコードのように首の裏へまわしておいたそれはいつしか実際のイヤホンとなって、その先端のスピーカーコーンを思わせる目玉から魅力的な音楽を発出していた。
「実に懐かしいメロディーだ。なんというか、初恋に胸を焦がすような――」
その刹那、彼の胸が燃えるように熱くなり、モクモクと煙まで立てはじめたのは言うまでもない。だが不幸中の幸いとはまさにこのこと。目の前には、立派なホースを持った消防士が構えているのだった。
「餅は餅屋、って言うからな」
乾杯の男はそう言うと、ボタンを弾き飛ばしながらひと息にシャツの胸をはだけて本職の放水に身をまかせた。一方そのころバーのキッチンでは、火災報知器が静まったのちも七輪で焦げた餅をしつこく焼き続けていたマスターが、同じ台詞を呟きながら餅屋への転職を決意していた。彼はバーテンダーの職業病を言い訳に、自らも酒にすっかり溺れきってしまっており、どこかに脱出の糸口はないものかとずっと探しあぐねていたのだった。
「いや渡りに船、のほうかもな」
まもなく薬局の一角には膝下まで浸かるほどの水溜まりができあがり、その表面には乾杯の男のキザな台詞から遁走した奥歯がどんぶらこ、どんぶらこと揺蕩っていた。
*
「いまの君はつまり、この奥歯のようなものだな」
わたしの退職願を受け取った人事部長は、その文面にすっかり目を通してからそう言った。彼は本当にそこへ目を通してしまったので、退職願いの真ん中には目玉サイズの穴がぽっかりと開いてしまった。これはつまり、差し出された退職願いを破り捨てたというような状態なのか。わたしはその言動の真意を摑みかねながらも、どうやら自分は慰留されているのだと感じ、それはそれで悪い気はしなかった。
「こういった正式な手続きには、社のほうで用意した規定の書式というのがあるものでね。辞めるのなら改めて、こちらの書面に署名捺印して提出してもらわないと。そうしてもらえると、こちらの内容に関してはすでに当方ですべて把握してあるから――というか私が作った文面なのだから当然のことだが――いまのように本文にがっつり目を通す必要もない。それを受け取った私がやるべきことといえば、せいぜい署名欄の表面に目を滑らせる程度のことで、そうなれば晴れてほとんど無傷の書類をスムーズに受理することができるというわけだ」
先ほど悪い気がしなかったわたしは、至極おめでたい人間というほかなかった。こういう時くらいは、むしろ奥歯に物の挟まったような言いかたをしてもらったほうが傷は浅く済むのだが、この男の奥歯は一ミリたりとも歯茎から浮かび上がることはなく、それどころか前後に糸ようじの挟まる隙間すら一切ないとでも言うのか。たしかにそんな窮屈な状況に耐え得る人間でなければ、人にまみれた組織に根を下ろし続けることなど困難であるということなのだろう。
彼の口が開くたびにわたしはその中を覗き込んでみたが、どの角度から捉えてみても見えるのは巨大な前歯ばかりで、その奥には真っ暗な空間がどこまでも広がっているように感じられた。
差し出された書面にその場で署名捺印したわたしは、ハローワークよりも先に歯医者へと足を向けることにした。だが足が向かったからといって、体の全部がそちらへ向かうとは限らない。わたしの口の中で浮き上がった一本の奥歯は、とっておきのキザな台詞を携えて、歯医者とは反対方向にある夜の街へとその一歩――ではなくその浅はかな一歯を踏み出した。