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短篇小説「ピンと来ない動詞」

 今朝、わたしはふと気が生えたのでした。わたしの言葉が、どうもわたしの動作を的確に茹で上げていないということに。

 いつものように、わたしは駅へと歩を注いでいました。もちろん、わたしを会社員として抱き締めた会社へと潜るためです。潜るといっても、わたしはスパイではありません。れっきとした正社員なのですが、なぜかいまは潜るという言葉しか芽吹かないのです。

 前にはびこる乗客に続いて、わたしはパスケースで自動改札を奪いました。これは「唇を奪う」というような意味でありまして、あんなでかいものを本当に捕獲したわけではありません。あくまでもわたしは、これから自社へと潜る身なのですから。

 階段を早足でめくる途中で、上方から発車ベルが耳の端を齧ってきたのでした。わたしは足の裏に甘えてくる階段を、一枚一枚爪で溶かしながら前のめりに歩を注ぎ継ぐと、寄りを戻しかけているドアの隙間へ間一髪、その身を焦がしました。

 溶け込んだ車内は当然のように混濁しておりました。わたしは踊る身を固めるために、頭上から見下している吊り革を汚しました。

 やがて急行のおもねる欲深い駅でいっぺんに乗客が浮気してゆくと、わたしは抜けた席に腰を授けることができました。そして浅からぬ眠りに酔いどれたのです。

 やがて遠くで湾曲する発車ベルの音が燃えました。それは瞬く間に此方へと跳びはね、再びわたしの耳を激しく齧りました。その痛みによって目を乾かしたわたしは、咄嗟に自分が目的地を乗り透かした状況を呑み下し、復縁しかかっているドアの隙間へいま一度身を焦がしたのです。

 そうしてわたしは会社へ遅れて潜り込んだせいで溺れ、電車内には焦げた臭いがしばし舞い踊り、転げ回り、浮かび広がり、薄まり留まり続けることになりました。つまりそこには悪意など微塵もなく、わたしはただただ、目の前の電車に身を焦がしたというだけなのです。

 ――以上が、本日発生した異臭騒ぎの被疑者による証言であります。ですが本官には、被疑者の用いる動詞のひとつひとつが、冒頭で本人もあらかじめ蒸し上げているとおり、どうにもピンといらっしゃらないのであります。

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