儚い幸せ、について
好きの反対は嫌いじゃなくて無関心、だというけれど。
幸せの反対が不幸せじゃないとしたら何なのだろう、と思うことがあった。
…
……
「かわいい、かわいい。これもかわいい」
赤ちゃんと一緒にとった何百枚もある写真のデータをiPadでスライドしていたとき、お母さんが「かわいい」を惜しみなく連発していた。
そんななか、ぽつりとこう言った。
「このときは幸せだったね」
あのときは「いましかない」とわかっていたから、限られた時間のなかでめいいっぱい夢中になって楽しんだ。だから、本当にかけがえのない幸せな時間だったなあ、と振りかえってみて思う。
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まもなく1才になる甥っ子に会いに、大阪に行ってきた。
ツーショットをこれでもかと色んな角度からとったり、木の汽車にまたがる彼を押してあげたり、音の鳴るおもちゃで遊んだりしていたらあっと言う間に2時間半が過ぎていた。
半年ぶりに会った彼は「にゃんにゃんなー」「あっぷー」「だあー」と不思議なことばを話すようになり、泣いて笑って不機嫌な顔をしてとめまぐるしく変わるきもちを全身で表現するようになっていた。
「半年前はあんなにおとなしかったのにね。また次きたときは全然違うようになってるんだよ」
隣にいたお母さんのことばを聞いて、愛くるしい彼とはもうお別れなのか、と、二度と訪れないひとときの儚さをしみじみと感じた。
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幸せについて考えていて思い出したのは、年末年始に読んだエッセイの一節。
「幸福は、瞬間的に感じるもので、継続的な状態ではない」
(佐久間 裕美子 / ピンヒールははかない)
幸せは、努力して手に入れるものでなければ、夢を叶えたり好きな人と結婚したりすればなれるものでもない。
たとえば夢が世界一周だったら、旅の醍醐味は道中での喜び・切なさ・わくわく・ドキドキなどこころが大きく揺れ動くことだし。
恋愛の道を進みゴールテープを切るのが結婚ではなく、一緒に人生を歩みたい人と日々の暮らしのなかで楽しかったこと嬉しかったことを共有し、悲しいきもち寂しいきもちを分かち合うことが幸せな生活だと思う。
毎日の生活はほとんどが昨日からの続きで、体は習慣によって反射的に動いていることが多い。生きるということは、頭とこころをほとんど動かさなくてもできてしまう。
だけど、そういう流れるような日常を送っていると世界の色や音・匂い・肌触りが少しずつすこしずつ感じられなくなり、しまいには自分のこころが動いているのかどうかさえもわからなくなる。
好きの反対は嫌いじゃなくて「無関心」というのと同じように、幸せの反対は不幸せじゃなくて「無感動」なのかもしれない。
だとすれば幸せになるために必要なのは、やりたいことをやるためにがむしゃらに努力することではなく、自分の感じたことに正直になり勇気をもって行動することなのだと思う。
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継続的な幸せなんてないのだと受け入れることができたら、他者からの承認欲求からも解放されるのかもしれない。
ただの知り合いではなく、友だちというのともちょっと違うような気の合う人が東京を離れると聞いて久しぶりに会ってきた。
まだまだだと思っていた別れを受け入れるのは中々難しいけれど、ずっと一緒にはいられないことを知ってしまったから。
いまだけはずっと一緒にいたいと思った私は、ゆらゆら揺れる彼女をぼーっと眺めることしかできなかった。
あのとき伝えられなかった想いの告白を、好きな本のことばを引用しながら最後にひとつ。
「東京の街が、どこか似合わないきみが、好き」でした。
あなたがいつまでも、健やかで笑顔でいられますように。