首都大学東京とは①(誕生の経緯編)
首都大学東京は、かつて東京都が設置していた4つの公立大学(東京都立大学、東京都立科学技術大学、東京都立保健科学大学、東京都立短期大学)を全てまとめる形で、今から13年前の2005年4月に新しく誕生した東京都唯一の公立大学です。
ここでは主に旧都立大側の目線から、どのようにして「都立大」がその姿を「首都大」へと変貌させていったのか、その過程についてまとめています。
【以下要約】
まずは長文が苦手な人のために分かりやすく簡単にまとめてみました。
首都大学東京は、主に当時の「石原慎太郎都知事」と「(都庁)大学管理本部」によって作られました。
それまで比較的自治的に運営されていた東京都立大学の体制を、東京都の産業政策に寄与するために、都の従属下に置こうと(トップダウン方式の体制へ変えようと)して、その結果産声を上げたのが首都大学東京です。
この過程で石原都知事率いる都側は、改革を円滑に進めるために、大学改革についての話し合いの場からその当事者である都立大そのものを排除しています。
(厳密には都立大学総長、もしくは改革に協力的な一部教員を話し合いの場に参加させてますが、それは「都立大を代表して」ではなくあくまで「都立大の事情に精通する“個人”としての資格で」参加を認めているだけであり、さらに「改革の基本的な内容には反論しないこと」を前提に参加を認めています。)
さて、それに対して都立大は「話し合いの場に入れてほしい(開かれた協議)」とお願いをして、一方的に進む改革に抵抗をしようとしました。
しかし石原都知事は「一部の都立大の人間が反乱を起こそうとしている」というレッテルを貼り付けようとし、「“一方的な”改革」に反対する都立大の団結を徐々に切り崩して、やがて都立大に内部分裂を起こさせます。
そして戦後半世紀以上かけて作り上げてきた都立大の体制を、わずか約2年間で徹底的に破壊した末に、問題を残したまま中途半端な「見切り発車」の形で創った大学が「首都大学東京」です。
要は、東京都(都知事と大学管理本部)VS東京都立大学(を中心とした4大学)という構図です。
こうして誕生した首都大学東京は、ある意味では成功し、ある意味では失敗しています。
そしてその失敗の一部に関しては、今年2018年に「学部の再編成」という形で、その混乱の所産に軌道修正を図ろうと首都大は努力しています。
要約なのでこれぐらいにしますが、誤解を生まないよう最後にこれだけは筆者も知らなかったことなので書かせていただきます。
それは「都立大は改革そのものには反対していなかった。」ということです。
そもそも都立の四大学の統合は“話し合い”の結果、既に決まっていたことでした。
しかしその“話し合い”の結果、出来上がった計画を実行に移そうとした直前に、急に介入してきたのが石原都知事です。
それまで時間をかけて大学側と都側が話し合って作り上げてきた計画を、都知事に再選し2期目に突入した直後の石原都知事が一方的に破棄して、石原都知事の考え方が盛り込まれた全く新しい計画が都立大側に一方的に提示されます。
「新計画実行の過程で、都立大側と話し合いをすることはない」というスタンスで都(大学管理本部)側が臨んできたため、都立大は「計画が変わった以上はお互いがまた話し合い(開かれた協議)をして、その上で改革を実行すべき」と主張しただけなのです。
このような当たり前の主張が、都側によって軽視されたまま新計画が実行され、私たちの「首都大学東京」は誕生しました。
東京都が設置する公立大学だからこそ、時の権力者(ここでは東京都知事)によって大学は作り変えられるというモデルケースができたのです。
【以上要約】
この文章を読むと都立大=被害者、東京都=悪という構図を抱くと思います。
というのもこの大事件から10年以上経過した今でも、都立大から首都大への大学改革について詳細に述べられた書籍というものが「都立大目線」で書かれたものしか無く、「行政側の目線」を分かりやすくかつ詳細にまとめた書籍が無いという事情があります。
それでも筆者は、この一連の流れの中で、都側はある程度はムリをしてまで改革を進めたと思っています。
ただ、東京都のトップダウン方式に首都大が組み入れられた以上、今後はその枠組みの中でいかに都とうまくやりながら首都大のブランド力形成をしていくかを考え、努力をしていくべきだと思っています。
(おまけ 今でも学内に残る当時の大学改革に反対・抗議する文書)
(この記事は、主に『世界のどこにない大学』『都立大学はどうなる』をもとに筆者がまとめ、掲載しました。)