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【廃線散歩】8.武州鉄道 前編

廃線散歩 第8回は武州鉄道です。
この廃線は、現在では東武野田線のみが通っている岩槻において、東武(当時は東武とは別の私鉄でしたが)より先に開業した、岩槻にとって初めての鉄道でした。
なんと今年は武州鉄道開業100周年ということで、今、岩槻が一部の人々の間で熱いです。最近の鉄道会社は開業〇周年や全通〇周年といった周年祝いにかこつけたイベント開催やグッズ展開に余念がないですが、まさか既にこの世から消えた廃線の開業祝いをするなんて思いもしなかったですね。文豪の生誕〇周年みたいなもんですよ。

以前少しの間、岩槻駅改札前にあった展示

私は関東在住の廃線好きとして武州鉄道については以前から知っていましたが、戦前に14年間しか走らなかった鉄道のことなんてほとんどの人が知らないでしょう。知らないのが当たり前です。それが今、100周年ということでスタンプラリーや講演会の開催が決定したり、アクリルスタンド(オタクな好きなやつだ!)が売られたりしています。稀有なことです。以前廃線跡を辿ったり歴史を少し調べたりしたことがあるので、その時の収穫をいつかまとめようとボンヤリ思ってましたが……今でしょ。(懐かしネタ)
というわけで、長くなりますがお付き合いいただけると幸いです。
ちなみにスタンプラリーについては以下リンク先をご参照ください。


武州鉄道の経歴~度重なるルート変更と敷設工事延期~

最初に開通した区間は蓮田~岩槻でした。1924年(大正13年)10月19日に開業しました。開業したのは大正ですが、計画は明治からありました。当初は川口町を起点に岩槻、幸手を経由し日光へ至るという壮大な計画もあったようですが、敷設免許を取得できたのは下図のルートでした。

荒川付近が起点なのは、そこから品川方面へ曳舟による貨物運輸も行なう計画だったためです。終点が岩槻ではなく宮ヶ谷塔(七里~岩槻間にあります)という微妙な場所なのは、当時別の計画路線と岩槻辺りのルートが被っており許可が下りなかったためです。
なお、社名が最初は「中央電気軌道」でしたが、明治43年に「中央軽便電気鉄道」へ変更しています。その1年後さらに「中央鉄道」へ変わり、最終的には「武州鉄道」に落ち着きました。

中央鉄道(株)の中核に蓮田の有力者が加わったことで、ルートが一気に変わります。起点が川口町になり荒川付近の案が消えましたが、舟運の計画は残ったままです。大門村というのは東川口~浦和美園間にあります。今後も出てくる地名なので記しておきました。忍町というのは行田市のことです。

大正2年、忍~岩槻の敷設免許を取得します。忍~菖蒲でまたルートが変わっているのは、やはり他の計画との兼ね合いによるものです。今じゃ信じられないですが、この時代は日本の至る所に鉄道敷設計画がありました。

大正8年、社名が武州鉄道に変わりました。そして計画もまた変わってるんですよね。ここへ至るまで、敷設免許は取得したのに着工できてません。資金繰りが上手くいかない等の問題を抱えていたのです。さらに川口町の用地買収も上手くいかなかったため、起点を蕨へ変更しました。それだけでなく、鳩ヶ谷から分岐して北千住へ延伸する計画も出てきました。おそらく旅客収入の多さを見込んでのことでしょう。
ここまで計画が二転三転しているあたり、廃フラグがビンビンですよねw

ようやく開業しました!
北千住へのルートを消しましたが、開業後の資料に出てこないのでいつの間にか計画が消えたのかも、と思い消しました。蕨ルートは残ったままです。どうしても省線(今は京浜東北線)に繋げたいんですね。そりゃそう。ローカルの小さな鉄道にとって、国の路線と繋がってるかは重要です。

さて、急に赤羽が出てきました。
実は武州鉄道の社長もコロコロ変わってるんですが、蓮田~岩槻を開業させた時の社長は、なんと京成電鉄の社長でもあった本多貞次郎でした。彼のゴリ押しな指導により開業にこじつけたと言っていいかもしれません。本多は強固な経営基盤のためには都心への延伸は不可欠という考えの下、省線赤羽駅へ至る計画を打ち出しました。結局、社内からの反発も多かったのか、本多はその後社長を辞任してしまいました。ただ、赤羽延伸そのものは魅力的な案であり続け、その後暫く武州鉄道は赤羽への夢を見ることになります。

昭和3年の暮れ、岩槻~武州大門が開業しました。武州大門から鳩ヶ谷経由川口までのバスも出るようになります。実際、鉄道の乗車賃は安くないため沿線の交通需要はバスや自転車がメインでした。学割もやってたようですがそれは逆に安すぎて大した収益になりませんでした。

ここで蛇足です。
赤羽への夢を見る武州鉄道のトンデモ計画の話をしましょう。
赤羽へ延伸するにはクソデカ荒川にクソデカ橋を架ける必要がありますが、この弱小ローカル線にそんな資金はありません。それでも夢を諦めきれず、少しでも工事費を抑えられないかと思案していたところ、当時の社長である山口は思いついてしまうのです。
>>廃線跡を利用すればいいのだ…!<<
当時、志茂の川岸近くに鉄道省の火力発電所があり、赤羽駅東側からそこまで資材運搬用の引込線が敷かれていました。が、今の京浜東北線が赤羽に延伸してきた際、駅拡張により引込線と接続できなくなったため、引込線を王子駅に接続するように変更しました。

Google Mapから作成。現在、赤部分は道路になり、黄部分は家の並びに名残が見られます。

上図の黄色線が廃止になったので、この用地を鉄道省から安く買い取って赤羽駅への接続ルートにしようと山口社長は考えたわけです。

接続イメージ

しかし工事費が最も嵩張る荒川橋梁の問題を解決できなかったため、この計画は流れてしまいました。川だけに。

そういうわけで赤羽延伸は無理ゲーだと悟った武州鉄道、延伸先を蕨or川口に変更します。結局かい!という感じです……w

さて、二度目の延伸は昭和11年の大晦日。たった2kmちょいの行程です。
大晦日の開業というのにも理由があります。武州鉄道は資金繰りに苦労しながらも何とかやってきましたが、それと言うのも国の補助金があったからです。年内に新しく開業しないと追加の補助金が貰えないとかで、昼夜を問わず工事をして、どうにか大晦日にたった2kmを開業させたというわけです。B'zもびっくりのギリギリ具合です(このネタ伝わるか…!?)
神根駅は田んぼの真ん中にポツンとあるだけの寂しい場所でした。かつて宿場町として栄えた鳩ヶ谷もまだ遠く、こんな所から乗る人も降りる人もほぼ居ません。

結局、営業成績回復の見込みはなく、頼みの補助金も打ち切られるということで、昭和13年に会社解散の申請が出されます。神根延伸から僅か2年後、総距離16.9kmの小さな鉄道は儚くも消えてしまいました。

参考資料
『幻の武州鉄道』郷奇智、『武州鉄道』風間進、Wikipedia

※10/20追記
10/19の講演会で聞いた事ですが、どうやら蕨駅前に武州鉄道予定地とかいう看板が立っていたらしく、蕨延伸の為の用地買収等はされていたようです。また、菖蒲町の方でも用地買収は進められており、今の菖蒲東小学校敷地の一部分が対象だったことが久喜市HPに掲載されています。
そういえば参考資料の『武州鉄道』に、一向に延伸してこない事への菖蒲町民の不満を緩和するため、実際着工の目途は立っていないが駅予定地だけは作っておいた、といった事が書かれてたと思います。

武州鉄道の再来……?

さて、武州鉄道の計画ルートを見て「おや?」と思った方は居るでしょうか。赤羽方面への計画、今の埼玉高速鉄道(以下、SRと表記)を彷彿とさせますよね。実はSRには延伸計画があります。
現在の終点、浦和美園から岩槻を経て蓮田へ至るという計画です。
どこの武州鉄道ですか。こんなことってあります?廃線から80年以上経つ現代において同じエリアに同じようなルートで再び敷設計画が持ち上がる路線なんて他にあります!?ドラマチックに申し上げるとこれは武州鉄道の再来ですね。どうです、面白くないですか?私は非常に面白いと思って経歴を調べてしまいました。長々と読んで頂いた方々、誠にお疲れ様です。
SRの延伸ルート等については以下リンクをご参照ください。

廃線跡を辿る~蓮田から河合~

ようやく廃線跡のターンです。早速参りましょう。

いつもの今昔マップ。黄色線が武州鉄道。
現在の地図に落とし込んだもの

蓮田駅の東口側に二階建ての駐輪場があります。実はこの場所に、武州鉄道のホーム跡があったそうです。

駐輪場の奥まで行くと、武州鉄道についてのパネルがひっそりとあります…!

なお、武州鉄道に関係はありませんが、西口側には車輪が鎮座しています。

竣工記念碑もあります。その中にちゃんと武州鉄道開業の文字が…!

東口側に戻ります。下の写真、赤矢印の所に先ほどのパネルがあり、廃線跡はパネルの場所からこちらへ緩くカーブしながら延びています。

なお、後ろを向くと歯科医院があり、その先も宅地になっており痕跡を辿るのは難しいです。が、Google Mapの航空写真で見ると、家の並びが不自然な箇所があることが分かります。航空写真は廃線跡巡りの強い味方です。
ちなみに航空写真で気付いたんですが、ただ砂利を敷いただけの駐車場が綺麗に整備されてたんですね。上の写真はもはや古い景色…。

Google Map
市街地はほぼ辿れないですが、この三角の駐車場辺りから分かりやすくなります
藪の部分が廃線跡です
分かりやすい!
地上からだとかえって分かりづらいですねw
ちなみにこの近くには馬込というバス停があり、場所は少し違いますが、名前が同じ「馬込駅」というのが武州鉄道にありました。

実はかつて武州鉄道が走った区間である蓮田~岩槻、岩槻~浦和美園を、現在は国際興業バスが繋いでいます。つまり、このバスに乗れば武州鉄道に乗ったような気になれるのです。幻覚が見たい方は是非どうぞ。

廃線跡の道路
東北自動車道で分断されています
ここにも馬込の文字。武州鉄道の駅は高速道路付近にあったそうです。
廃線跡の道路
河合幼稚園。廃線跡はこの門をぶち抜いていきますが、関係者ではない私は迂回します。
ちなみに「河合駅」もありました。馬込は途中から出来た駅でしたが、河合は開業時から設置された駅です。この幼稚園の少し先にありました。

廃線跡を辿る~河合から岩槻北口~

武州鉄道の岩槻北口駅は、今の野田線と交差する付近にありました。
廃線跡の上に立つ公民館
農地に消えた廃線跡
右側が廃線跡
細長い空き地が廃線跡
岩槻の市街地へ入ってきました
生産緑地の左の宅地が廃線跡
家の並び~~
廃線跡に立つ建物
こちらのカフェも廃線跡上に立ってます。入った事はないのでいつか…!
さいたま市消防団岩槻第二分団。この辺りに岩槻北口駅があったそうです

あまりに長くなってしまったので今回はここまで…!
後編はこちら↓です。


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