「65歳で映画監督になる」は無謀か。若者の言葉が、老女の胸の奥底に眠る欲求を呼び起こす『海が走るエンドロール』
【レビュアー/おがさん】
夢には賞味期限があると思っていた。
何歳になっても夢は見られるが、気力と体力、経済的余裕や時間などを考えると、叶えられる時期は実は限られている。だから、何かを始めるのは若ければ若い方が良い。
そんな固定観念を壊してくれたのが、たらちねジョン先生の『海が走るエンドロール』だった。
『海が走るエンドロール』はTwitterで1話を公開すると、9万を超えるRTと28万を超えるいいねが付き、大きな反響を呼んだ。
65歳を過ぎ夫と死別し、数十年ぶりに映画館を訪れたうみ子。そこには、人生を変える衝撃的な出来事が待っていた。海(カイ)という映像専攻の美大生に出会い、うみ子は気づく。自分は「映画が撮りたい側」の人間なのだと……。心を騒ぎ立てる波に誘われ、65歳、映画の海へとダイブする!!
『海が走るエンドロール』(たらちねジョン/秋田書店)書誌より引用
臨場感あふれる創作の海に、読者も溺れる
本作において特に引き込まれたシーンがある。カイがうみ子の家で一緒に映画を観た後のシーンだ。おそらく、こういう意図で描かれたのではないだろうかと推察しながら気になったコマについて記載する。
『海が走るエンドロール』(たらちねジョン/秋田書店)より引用
まずは2コマ目、息を吸い込むカイ。空気が変わって何かが始まる予兆を感じさせる。この表現があることで、作中で初めて登場する波の表現に対する心の準備を読者に促すことができる。
そして4コマ目の枠線上には、真っ直ぐな水平線が枠線と並行するように描かれている。押し寄せる前の波をコマを割らずに描く表現方法を初めて見て、私はこの時点で単行本を即購入した。
この波は実際にはうみ子の心象風景を表したものだが、水平線を真正面に描くことで、うみ子だけでなく、読者もこの波に巻き込まれるような構図となる。
4コマ目ではカイの表情上半分を大胆に削り、口元にフォーカスしている。これによって、不穏さすら感じさせるが、読者の注意はこれから発せられる言葉に集中する。
『海が走るエンドロール』(たらちねジョン/秋田書店)より引用
そして、放たれたセリフ「映画作りたい側(こっち)なんじゃないの?」
1コマ目では、そんなうみ子の呆然とするリアクションとカイのセリフを両立させるために、カイの後方の視点から描かれている。
さらに言うと、この構図は立ち位置をハッキリさせるためなのかもしれない。映画作りたい側(こっち)と映画を観客として楽しむ側。今はまだクリエイター側にはいないうみ子と、当事者であるカイを分け隔てるための構図である。
2コマ目ではうみ子の目に波が映っている。瞳から「ザザ.」と言う波の効果音が発せられる表現も珍しい。うみ子にしか波が見えていないと共に、その波に心を奪われていることが伺える。
うみ子自身が気づいていなかった映画を作りたいという欲求、しかしその興味の波に抗えないことを、うみ子自身がどこかで感じとっていたのではないだろうか。
続く3コマ目、さらにカイの背後から押し寄せている波を描くことで緊張感を維持したまま、次ページへの引きとなる。
意図されていない部分や読み間違いもあるかもしれないが、私は読者を巻き込む波のような力強さと巧みな表現力に、完全に心を奪われてしまった。
後悔とは自分の心に嘘をつくこと
作中後半で映画作りを本気でしたいと考えているが、「老後の趣味」と答えてしまう、うみ子が描かれている。
これは謙遜だけではなく、自制心に近いものだろうと思う。年齢を重ねるほどに、社会における自分の立ち位置を理解する。だからこそ、自分の発言が相手を困らせたりしないか、空気を壊さないかを考えるようになる。
若い時は夢を見ろと言われる。それがいつしか年齢を重ねていくと、現実を見ろと言われるようになる。応援はいつしか心配に変わっていく。
そういった世間の声や一般論を痛い程理解しているからこそ、自分のためだけではなく、心配をかけさせないように本心を隠してしまう。
さらに年齢を重ねるごとに、本当はやりたくてもやれていない事に対して、やらない言い訳や、自分を諦めさせる十分に思える理由も増えていく。
それでも自分の心に嘘をついた時、澱のようなものが少しずつ溜まっていく。それを人は後悔と呼ぶのではないだろうか。
人が死に直面した時、自分らしく生きなかったことを悔やむことが多いという。自分の心に従う生き方を、何歳になってもしたいものだ。
眩し過ぎる光が生む影
65歳で映画監督という新たな挑戦を始められたら、私たちは何かを始めないことにもう何も言い訳できない。だから、人によってはこの物語を残酷だと思うこともあるだろう。どこかで諦めた夢をまた見たくなってしまうからである。
与えられた環境はそれぞれ異なるため、夢を諦めた経緯は人の数だけ理由がある。紛れもない事実として、どれだけ努力をしようと全ての夢が叶えられるわけはないし、年齢制限がある夢も存在する。
それでも、夢には広がりがある。夢は一人で叶えられるものではないから、周りの人の協力や支えによって初めて実現可能性が生まれる。人々の努力と意志の繋がりが、それこそまるで海のように夢を構成していくのだろう。
だからこそ、叶えられなかった夢の周りには、それを支える夢がまた広がっている。年齢を重ねる最大の武器は経験だ。その経験を生かし、大海に再び挑戦することも悪くないのではないだろうか。
もう一つ、本作を象徴する海は当事者かどうかを分断する要素であると考えている。
作中では夢に向かって進むことを、船を出すことに例えられる。海岸から石を投げても船には当たらないように、当事者でない立場からどんな言葉を投げかけようとも、それであなたの人生が変わるわけではない。
もちろん、船を出せば必ず順調な航海となるわけではない。時には荒波で難破してしまうかもしれない。それでも、その苦労は当事者にしか分からないし、その困難を乗り越えた先に広がる景色は船を出した人にしか体感できない。
作中のうみ子の言葉を借りるのであればこうも言える。
「誰でも船は出せる」
夢を追わないことを選択するのは、その人の自由だ。けれど、どんなにオンボロ船だとしても船を出すかどうかもまた、その人の自由だ。