#63 福寿草の花
4月3日。
ばあ(母方の祖母)が、ふきのとうを採りに行きたいと言う。
入院前に大丈夫なの?と思ったが、この機会を逃してはいけないと思い、車を走らせ、近所の川の土手沿いに行く。
ばっけ(ふきのとうの意)がよく採れるらしい。
ばあは片手にバナナ、もう片方の手にビニール袋とカッターナイフを持って準備万端だった。
なんでバナナ、と聞いたら、おやつ!と答えた。
私が採るから、ばあは見てなよと言うも、何言ってんのや!と絶対に聞かないので、ばっけが沢山咲いているギリギリのところに車を停める。
二人で降りて、しゃがみこんでばっけを採る。
私は素手でぶちぶちと毟り取り、ばあはカッターナイフでひょいひょいと刈り取る。
ある程度採ったら車に乗り、僅かに移動。
降りる。私は毟り取る。ばあは刈り取る。また車に乗る。移動。その繰り返し。
いつのまにかビニール袋はばっけでいっぱい。
誰かにお裾分けしないと食べきれない量になっていた。
あーここらへんはもう伸び切ってんなあ、と辺りを見回すばあが、突然立ち上がり、ふらふらと歩き出した。
何かあっては大変なので、私も後を追う。
急に動きをとめたばあが下の方をのぞいているので、何だろうと見下ろすと、川のほとりに福寿草が咲いていた。
ぽつぽつと黄色い花が、あちこちに春の陽を受けてきらきらと光るように咲いている。
ああ、たまげた。綺麗だなあ。また見られると思わなかった。
ばあがぽつりと呟いた。
何言ってんの。また来年も見に来るよ。
んだな。まんまいっぺ食って元気にならねば。
んじゃまず、車の中のバナナ食べなきゃ。
んだな。
ばあが笑った。
5月8日。
ばあが亡くなった。
覚悟はできていたけれど、葬儀を終えた今でも実感が湧かない。
きっと何でもない日に、ふとばあの家に立ち寄った時に、その静けさにようやく、ばあの死を理解するのかもしれない。
もうあの家に行っても、私の話にげらげらと笑ってくれる人はいない。
帰りに季節の野菜や山菜をたくさん持たせてくれる人はいない。
ばあは最期まで誰にでも分け隔てなく優しかった。
子供の頃は、大人はみんなそんなものだと思っていたけれど、大人になった今、それは当たり前でないことを身に染みて感じる。
人は見えるもので見てはいけない。
そう教えてもらった。
春になるたび、ばあと二人で過ごしたあの日を思い出すことになるだろう。
私の中で、今まで何てことのなかった黄色い花が、私の中で「ばあの花」になった日だ。
穏やかであたたかなあの時間を、私は絶対に忘れない。
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