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【ココロの旅#74】"誕生日の所感"-素的視点から
こんにちは、明日は大寒とはいえ、徐々に日も長くなり冷たい風の中でもほんのちょっと日差しの温かさも感じるようになりました。道端のお花も春の準備を始めているようです。
そんな今日この頃、おかげさまで誕生日を迎えました。
当日は色々な方からお祝いメッセージを頂き、感謝&温かい気持ちでいっぱいになりました。Thanks!
そして、こんなことも...
~数字でもあり積み重ねでもあり~
●ココロからの呟き
その当日は、随分前から旅行の予定を入れていたのですが、この度のステイホーム期間と被ったため、大人しくその日を過ごすこととなりました。
誕生日を迎えても「あ、プラス1か」程度の希薄な感情しか持たなくなり、たまに書類の年齢欄に出合ったら「お、そうだった」とその数字を改めて認識するだけになってから、もう相当久しい。
ところが、今年の誕生日は少し違ったのですよね、いつものように起床し、いつものようにルーティンを淡々とこなしていたというのに。
というのも、不意に
「よくこれまで生き延びてこられたなぁ」
と呟いたのです、洗濯物を干しながら。
災害や戦火或いは某パンデミックなどの中に身を置いている人々を思うと、普通に「日常」を送ることができている私がこんな表現を使うのは、不謹慎かもしれないのですが...
ただ、こんな独り言を言うのはほぼ初めて、しかも、日常の家事をしながら無意識に、こんな言葉が口をついて出たことが何より意外でした。
悔し泣きしながら「自分、よおやったやん、くぅーっ!」という哀しい独り言は、これまでもしばしばあったのですが。
はて、はて、一体何なんでしょうか?
●素的視点から
今回のあの呟きは、自己への労いでも慰めでも賞賛でもなく、何というのか、ココロがどうしても聞かせたかったコトノハとでもいうのか、ぽっと生まれ出てきたようなものでした。
靴下をピンチで留めながら、呟きが生まれ、『来し方』がぼんやりとイメージとして浮かんだ後、それが『道』という形で見えたのでした。
これは、アタマとココロがつながっていたということなのかもしれません。あの瞬間、無意識のうちに、自然と。
他者の人生や事情を伺っている時に、そのお話の核心部分が何かしらのイメージとして見えることは、経験としてままあったのですが、自分自身について『絵』が見えたことはそれまでなく、これが自身に対して確信が持てない要因でもあったのだとも思いました。
・・・これは、まさに聖書の「ちりと梁の話:他人の目にあるちりを取り除く前に、己の目にある梁に気づいて取り除け」ですね(苦笑)。
あの『呟き』と『来し方』と『道』が見えたことで、自分に劇的変化が起こったわけではないのですが、今まで以上に気が楽になりました。
自分は自分でしかないのだという、清々しい諦めとでもいうのか。
ところで、家事やルーティンというものは、なかなか侮れません。集中して黙々とその行為を行うことは、ある種、瞑想に近いのかもしれませんね。
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全くの余談ですが、365日誕生日占いというものをウェブで見つけ、私のその日の箇所を読むと最後の方にこんなくだりが...
・・・誠実なわりに人生が報われにくい傾向にある。恩返ししない人のために尽くすのはやめましょう。勉強意欲のない人に教えるのはやめましょう。打って響く人々のために尽くすべきです。・・・
これ、数年前に読んでいたらきっと発狂していたと思います、もうドンズバ過ぎ(爆)。
今なら笑い話として、こうして皆さんと共有できるわけですが。