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【ココロの旅#59】「キ-記憶」-ワタクシの人生「イロハ帳」

 こんにちは、皆さんお元気ですか。今回も山茶花の写真を載せてみました。山茶花にはマリア・カラスのイメージが重なります。天賦の才の陰にある努力はつぼみの間は外からは覗い知ることはできませんが、一旦開花するとその美しさは散っても変わらない...

~過去も現在も未来も~
ワタクシのアーカイブは?

1)一般的意味:

📖①過去に体験したことを覚えておくこと、またその内容。②生物体に過去の影響が残ること。③コンピューターに必要なデータを蓄えておくこと。

🐐上記③の説明、会社員になりたて頃の職場の光景が目に浮かびます。当時のPCはエラーすると、あからさまに「ビーッ!」🙅‍♀️という音が響きわたっていたな...(Windows導入される前の国産メーカーの業務ソフト)

2)ワタクシの旅:

👩最初の記憶---不安感

皆さんの最も古い記憶はどのようなものでしょうか。世間には胎内記憶がある人も多くいるそうですが、ワタクシの最初の記憶は幼稚園の入園式です。

さっきまでそばにいたはずの母親が、式典が始まり保護者席へ移った後に、急に不安になり、他の同年代の子供の列でビービー泣きだしてしまいました。
当時は人見知りが激しく、大勢の子供の中で怖い気持ちでいっぱいだったのだと思いますが、見かねた園長先生が演台から
「そこで泣いているお子さんのお母さん、そばについていてあげてください」
とアナウンスがあり、母は式が終わるまで傍らに立っていました。

でも、実際にワタクシの記憶にあるのは、不安な気持ち、ビービー泣いていたこと、子供に挟まれてワタクシの横に母が立っていたこと、の3つなんですね。
後に母から、「あの時は、恥ずかしかったし、困ったわぁ」という笑い話で聞いたり、涙の跡がくっきりとついたしょげた顔写真から、あの“おかあさんといっしょ”は特例措置だったこと、「普通」の子は泣かないことを知り、自身は自分事しか覚えていませんでした(笑)。

大きくなってから学校や会社といった集団の中で、生来の社交性の欠如(笑)を身をもって知り、その原点を「あの入園式の不安感」や母の「恥」という表現を思い出しては、
「この性格は持って生まれたものだから人間関係で躓くことが多いんだなぁ」
とよく独り言ちていました、若い頃は。

けれど、チビのワタクシが持っていたあの不安感はマズローの5段階欲求説の下2つ(生理的欲求・安全欲求)であり、自身を保ち守るために備わっている必然的なものなんですよね。
成長とともに、下から3番目か4番目あたりの要素(社会的欲求・承認欲求)が現れるようになったことと、母の「恥」という表現が上手い具合にくっついたことから、勝手に人間関係の「失敗」の根をそこに求めてしまっていたということなのですね。
マズロー説を採るとして、
(社会性+他者の評価)×自我+感情=3苦手(集団,社交,失敗)
だったような気がします、ワタクシの場合。
(ふ、若いのう...)

自分可愛さのあまり(笑)、何事もつい大仰に捉えて、過去のあれこれを引っ張ってきては、現在や未来の事柄に結びつけて悩む癖があったのですが、これも「記憶」があればこそ。
また、「人は見たいようにしかものを見ない」とはよく言いますが、同様に「覚えていたいようにしか覚えていない」可能性もあります。
もし、とらわれている過去の記憶があるのなら、一度、その「記憶」とこの「自分なるもの」を(小説や映画の主人公を思い描くように)客観視してみるのも良いかもしれません。

🐐マズローの5段階を昇りつめると、そこは「自己超越」!確かに...

🤷‍♀️最近の記憶---未視感

もう相当エエ齢ですし、色々な事態に遭遇し、様々な経験を積み重ね、「記憶」が「教訓」としてアーカイブされていても良いと思うのですが、今でも時々、未視感の(既視感のない)事象が立ち現われます。
よく言えば新鮮ですが、それらをスムーズに処して心穏やかでいたいよなぁ、とも思います。

ただ、昨今のオンライン中心の生活で実感したのですが、年齢や背景にかかわらず、人間関係とは(良し悪し抜きにして)誰かが誰かの不足分を上手く補うことであると。

-人前に出ることの少なく人見知り気味の若手は他者のアイディアを文字通り絵に描くことに長けており、それを受けた古株(ワタクシね)が第三者へ(たぶん)上手くアピールする。

-共通の話題でスタートしたものの、ある事項に引っ掛かりを覚えた人に、他の参加者が引っ掛かりを解こうとすればするほど(正論の類)、ますます反発し、ますます引っ掛かりの世界に閉じこもる。ーフックの法則
(本人は引っ掛かりを覚えた自分でいたかったらしい)

-ウェビナーのコメ欄に「これ、有り得ないよなー」と思った項目が上がった際、瞬時に誰かが上手く回答し新たな気づきを得る。

面白いのは、この機械・スクリーンを通してヒトやら物事と接すると、却ってそのヒトや物事がシンプルに目に映ります。そも、「伝えること」に重きを置くため、やり取りがシンプルになりやすいからですが。

リアルにそれらに接する場合、恐らくですが、互いに持っている「記憶(から来る価値観など)」がバイアスをかけ、ある意味、余計なものがくっついてくるのかもしれないとも思いました。

🐐PCやオンラインシステムも、元といえばヒトが生み出したもの。これまでのコミュニケーションの不備を補完してくれるものとも言えますね。

3)おまけ:

「記憶にございません」とは、無責任な答弁の代名詞のように捉えられていますが、その実、正直に「記憶しています」と答えているようにも聞こえませんか。
なぜなら、記憶がないなら、そも、その事柄自体が不知なわけですから、「記憶」もなにもあったものではない(笑)、パニクるはずではないか。

<今日の美>

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