【素的視点から#017】いま一度「働く」について①ー「キャリア」って?
四月スタートが多い日本企業、新入社員が新たに企業人になって三カ月、就活時代に思い描いていた「働く」ことと、日々の現実と、色々と思う頃でしょうか。
かく言う私は、入社早々、研修もそこそこに実地に業務を引き継ぎ、もーとーっても大変でした…
手当のつかない「サビ残」「休日出勤」は当たり前、そのベースには「仕事を終えられない者の責任」という考え方がありました。
今は社会の状況も変わり、上述の”悪習”も公には消えたことにはなっていますし、強くそう願います。
また、ここ数年は官民あげての「働き方改革」が進行中、私個人のン十年の企業人人生を単に「働く」と表現するとすれば、「働く」が実にドラスチックに、まあ変わったこと変わったこと。
その昔、いつ終わるとも知れぬ業務に日付が変わっても会社に居残りなんてこともあり…
今は、リモートワークで自分のペースを大切に「働く」ことができるようになりました。
その昔、組織のヒエラルキー、絶対的な上下関係に黙って従い、不必要なほど気を遣ってオドオド…
今は、ホラクシー(極簡単に言えばヒエラルキーの逆、フラットで各々が意思決定権を持つ)をベースにした組織運営にシフトしつつあります。
これらの変化、私個人は端的に「良かった!」でしかなく、大声で叫びたいほど。
一方、(あくまでも私の知る限りですが)従来型の働き方というのか、決まった時間や職場で、属する組織の人々と一緒に仕事をしたい、という声も少なくなく、しかも比較的若い人(30半ば迄)に多い印象。
コンサバな人達が結構いるのだなぁと意外に思ったのですが、よくよく考えてみたら、皆それぞれの背景、つまり「キャリア」がある訳で、各自の仕事感はその「キャリア」に拠るところが大きく、自他共に認める変わり者の私のような人ばかりではないのですね。
わざわざ括弧書きで「キャリア」と記したのは、このカタカナ言葉が往々にして原語の意味から離れて使われているからです(私自身も便宜上経験あり)。
「キャリア=career」の語源はラテン語の「carrus=轍(わだち、車輪の跡)」、そこから人が辿る足跡や経歴なども意味するようになったとのこと。
ですので、’キャリアウーマン’やら”キャリア組”やら”キャリアアップ/ダウン”という表現は本来の使い方ではないことにご注意。
この「キャリア」、人生の轍、まさに我々が日々を送る中で作ってきた道筋、自身の価値観や世界観のベースになっているものと言えるでしょう。
誰にもあるものであり、キャリアそのものは究極的には優劣はなく、単なる事実でしかない。
私自身の「働く」における「キャリア」について、今振り返り眺めてみると…
“キャラバン”
この一言に尽きるし、こうありたい。
己の個性と感性のみでスタートし、アチコチへトコトコ出向き、人々との交流を通して、文化価値観を見聞し会得し、またトコトコ旅を続ける、まだ見ぬ人や世界に新しい価値を伝えるために。
我が轍からは、クネクネ回り道をしてきたようにも見えなくはないですが、まあそれも良し。
本題の「働く」については次回のブログに続きます。
<今日の美>
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