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【素的視点から#015】野の花と一切衆生と…

前回は一粒万倍日と天赦日が重なる大吉日について書きましたが、皆さんは新しく何かを始められましたか。

私は、ブログ内で宣言した通り、文字通り、もっと笑顔でいる機会が増えそうです!
長らく銀歯だった前方の歯を白いセラミック製のものに変えることになり(この四月から保険適用になったため)、目下工事中でして、これでニコッとしてもギラッとした銀歯ではなく、爽やかな白い歯をお見せできる(はず)、あぁ嬉しい!

さて、今回は「一粒万倍日&天赦日」という言葉で思い出したことについて少し書きたいと思います。
それは、聖書の一節・イエスキリストの言葉なのですが…

”野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。・・・(ルカによる福音書 12章22―34節)”

このくだりは信者でなくともご存知の方は多いかもしれません。
私も信者ではないですが、聖書の中で最も好きな箇所でして、これは間違いなくイエスキリストのお言葉だろうと固く信じているものの一つです。
(ただ、この後に続く文章は「信仰」や「異教徒」などという言葉が使われているので、ちょっと...ブツブツ)

生来の思考型&合理主義的人間であった私でも、全てを分析精査し論理や理論で割り切ることが不可能なことは当然ながら多くありました。
その都度、割り切れずに自身に感情の刃を突きつけることも、人並みにはありました。
そんな苦しい時に、よくこの一節を思い出していました、砂漠の中のオアシスのような、そんなお言葉。

結局は、どんな論理や理論も、この「神」の前では破綻せざるを得ない、いや、正確には、分析精査も論理も理論も、そもそも「神」というかこの世界の中に万物とともに既に組み込まれているのかもなぁ…と薄々感じながらも、そ目を背けて日々をやり過ごしていたのですねぇ、当時は。

翻って今は、例えば、先日の「大吉日」についても、一粒の種が多くの実を結び、更に天は我々の所業を最終的には赦す、このような思想が自然と日常に織り込まれている、といった「自然事」に関心がいくようになりました。

この有り難い思想は、仏教の一切衆生という言葉の真の意味にも、イエスキリストのあのお言葉も想起させる、そして…

つながっているなぁ、何もかもが・・・ニコッ😁✨

<今日の美>

例の如く、と、撮り方が…

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