【ココロの旅#16 】コレまた苦手なもの-「感情」
こんにちは、気候の変化に体調や気分がすぐれない方もいらっしゃるでしょうか。この時期特有の「梅雨だる」という症状かもしれませんが、併せて食中毒にも気を付けてくださいね。
(例のごとくイミフあれば読み飛ばしてください)
前回までの「傾聴力・共感力・寛容力」ですが、ただ今鋭意学習中でして、今回はちょっと異なる視点から自分自身を見つめてみたいと思います。
私は「感情=emotion=エモーション 」というものが大の苦手。
似たような「感情≒感覚=feeling =フィーリング」や「sense=センス」は普通に受け止められますし、特にセンスは大切にしています。が、どうしても「感情=エモーション」には良い印象を持てず、何かこう、大仰で、鬱陶しく、この梅雨の空気のようで。何より、「感情」が「理性」の対である、とされることも「あぁ、私の手には負えないな」と思わせるのです。
感情が単なる喜怒哀楽であれば分かるのですが、複雑多様なものであるからこそ、理解が難しく苦手意識を持ってしまいます。勿論、「感情」は多くの芸術作品の源泉ですし、芸術作品に昇華され、鑑賞され、人々の胸を打つことで「感情」はその価値を持つと思うのですが、日常の個人や周囲のこととなると、むしろ、健やかに清々しく生きるには枷になるような気がしてしまいます。
実際、私には手に負えず、公私の人間関係で、相手(側)の「感情」でトラブルに発展したことがあります。そして、未だにあまり理解できていないことも多い(「人には感情があるんだよ!」の類)。また、「公」の場面で「感情!」を持ち上げるのに遭遇すると、「ナンセンス=nonsense」と思ってしまう…
私自身には感情が無いのかと、これまでの人生から振り返ると、圧倒的に「驚」が思い返されます。この「驚」は、感情というより私の生きるパワーでもあり(笑)、特に、日々のアレコレの発見による「驚」によって生きている気がします(喜怒哀楽も全て「驚」から生まれているかも?)。
子供時代の育った過程(家庭?)も影響しているのかと思いますが、ある程度は性分だと思っています。ただ、高校時代や「会社人」になってからは、他者の心情理解よりミッション/実務・実力重視で過ごしたので、「感情」への無理解に拍車がかかったのだろうと思います。
それに、ここ数年の「共感力」重視("エモい"という言葉も)の風潮に、
正直、戸惑いを覚えてもいます...
ですので、私に関わってくださる方々で「コイツ冷たい、何様?」と感じられても、単に他者への共感が不得手でできないだけですので、どうぞ気にしないでください(笑)。
<今日の美---a sort of my anthem>