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【観じて想う#017】日々新たな始まり…

部屋の片づけをしていたら、ここ数年のメモ帳が目に入り、何気なくページをめくってみたら、まるで他人が書いたもののように観えた。

とびきりの善人、という訳でもないが、人生に関する"まとも"なことが書いてある。
無論、わざわざ文字にして残すぐらいだから、自身にとってつまらない、くだらないことは書かないにしても、この私と同一人物が書いたのかと不思議になるほど、"まとも"なのだ。

メモした言葉の大半は本や誰かの話からヒントを得て書き記したものと思うが、見返してみると、”しんどい”中、何とか「善く生きよう」としていたある一人の人間のようで、ヘェと意外に想った。

この意外さこそ、ここ数年の私の変化から獲得したものでもある。
"善き人"であろうともがいていたあの頃は、アタマ=理屈による「○○であるから善き人」になりたいという思いを悶々と抱えていた。

この、自分がどこかへ行ったまま「善き人」は、私以外に迎合した善き人であり、結局は他人事になり辛さは解消されなかった。
しかも、性格上”有言実行”なんていう言葉も添えてしまうものだから、幻想/妄想の善き人からなかなか離れられないのだった。

今は、ヘェと拍子抜けしたかのような反応をするほど、あれらアタマ発の言葉から距離を感じるようになった。
カラダ発、つまり「何となく」体が動くことをする日々をようやく送るようになった昨今、こちらの方が所謂「善き人」に近づいているように感じる。

私自身を中心にすると、他者への尊重が高まるということを実感している。
自身が他者となんらかの関わりを持つ以上、他者は私自身や人生、日々のために何かしら尽力することになるから、他者は私自身の一部になるのだ。
更に俯瞰的に捉えれば、私が存在する世界そのものも私自身であり、この空間や景色、時間を大変愛おしく思うようになる。

同様のことは古今東西の賢人が散々書物等で述べているのは(生来の哲学気質で)随分前から知ってはいたが、フンフンとアタマで捉えていただけだった。
今初めて、腑に落ちるーカラダ(と恐らくココロ)からストンと解するー体感している。かなりの遅咲きではあるが。

さて、また明日もカラダが楽しむことをー如何に世界を楽しくするかについてアタマを使う(アタマもカラダの一部!)

日々新たな始まりーまさに。

<今日の美>

花束を君に

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