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「負けヒロイン」という言い回しについて思うこと

こんにちは。
ともきと申します。

筆者は負けヒロインや当て馬と呼ばれる存在が大好きで、日々あらゆるジャンルの作品の失恋シーンを摂取して生きています
最近、特に感銘を受けた作品は綿矢りさ『ひらいて』秋★枝『恋は光』雨隠ギド『おとなりに銀河』などです。
そんな性癖に生まれついたので、twitter改めXでもしばしば「負けヒロイン」で検索をかけて情報収集をしているのですが、その際にたびたび「負けヒロインという呼称が嫌い」という意見を見かけます。

自分も「負けヒロイン」という呼称については色々と思うところがあります。
この名称ならではのニュアンスや魅力もあると思う一方で、センセーショナルなバズワードとして機能している側面もあり、誤解して伝わりやすい表現だと思います。
この記事では、そんな「負けヒロイン」という言葉の持つ意味や使われ方について考えていきます。
どうか、お気に入りの恋愛作品を片手に、気楽に読んでいただければ。


負けヒロインという言葉がもたらすイメージについて

「負けヒロイン」が受け付けないという意見の中には、言葉のアンチから概念そのもののアンチまで様々いるのですが、やはり最も物議を醸す原因は「負け」という単語の存在でしょう
「負け」という響きはどうしても耳に残りやすい強いフレーズです。
それゆえに、言葉だけが独り歩きしやすくこのレッテルを貼られたキャラクターに対して、負のイメージが付きまとうことを危惧する人は多いと思います。

実際、この不安はある一面において正しいと思います。
近年、「負けヒロイン」をタイトルに冠している作品や、負けヒロインをテーマとした作品が増えています。「なろう」で検索しても無限に出てきますね。
そこで描かれる「負けヒロイン」像として多く共通するのは「負けヒロイン」を「かわいそうな子」という属性して扱っているという点です。不憫可愛いなんて言葉もあります。
これらを見ても、「かわいそう」「みじめかわいい」を示す記号として負けヒロインという概念が消費されているのは事実でしょう。
古来からある「幼馴染は負けヒロイン」みたいな雑なフレーズが出回りやすいのも、そういった消費性向の一環だと思います
(ちなみにこの言説、正確には全然違います)

このようなノリで、好きなキャラクターを勝手に「かわいそうな子」として周囲からレッテルを貼られてしまうのは、ファンからしたら溜まったものではない。
というのも、そのヒロインを語るとしたときに、その魅力が「かわいそう」一辺倒であることはほぼないからです。
それにも関わらず、負けヒロインというレッテルによって「かわいそう」だけが特徴として独り歩きしてしまう。
このことに嫌悪感を覚える人は少なくないのではないでしょうか。
実際、強い言葉が独り歩きしやすい風潮には自分も思うところがあります。
その意味ではちょっと前に話題になった「鬱漫画」概念の議論とも似ていますね。

負けヒロインは「負け」ているのか?

そもそも、失恋の魅力は、必ずしも負ける瞬間そのものにあるわけではありません。

  • 叶わないかもしれない恋に一生懸命に立ち向かっていくひたむきさ

  • たとえ報われなくとも一途に主人公を想う健気さ

  • 心の内に住まう嫉妬や羨望などの衝動が見せる人間臭さ

  • 失恋の瞬間に臨む覚悟の切なさ、そして失恋を受け入れる涙の美しさ

  • 未練と後悔に苦しみながらも失恋の傷を受け止めていく強さ

  • そして、失恋の痛みを乗り越えて次の一歩を踏み出していく尊さ

この全てが失恋するヒロインたちの魅力を生み出しています。
「負け」の瞬間というのはあくまで失恋という長いプロセスのひとつのエッセンスでしかないのです。

では「負け」という表現が完全に不正確と言うと、そうでもありません。
というのも、結局彼女たちが「負け」ていることは事実だからです
世の中には多くの失恋の形があります。
一度は両想いになった二人が破局する失恋、単純に好みじゃないからとフラれる失恋。
一般に失恋と言うと、これらのことを指す方が多いかもしれません。
実際に「失恋ソング」で調べると、半数以上は付き合っていた二人の破局を主題にしたいます。
その中で、「負けヒロイン」がもたらす失恋は、絶対的な基準ではなく相対的な基準でフラれるという点において明確に異なっています
実際『五等分の花嫁』など、ヒロイン同士が明確に「勝負」を仕掛けた上で「負ける」というパターンも少なくありません。
全てを捧げてでも手に入れたかった、たった一つの恋のレースに敗れてしまうという、それっぽっちだけれどそれっぽっちではない失恋なのです。

「人生において恋が全てではない、その一時点でしかない恋の成否で勝ち負けのレッテルを貼るのは乱暴だ」という意見もあるでしょう。
客観的にはその通りかもしれません。
ですが、失恋したその瞬間、そのヒロインの主観において間違いなく「負け」ているのです。
『あの夏で待ってる』の谷川柑菜のセリフで「私がどれだけ望んでも手に入らないものがそこにあるのに」というものがあります。
このセリフに込められた悔しさや羨望。届かぬ想いへの憤り。
これはまさに「負け」という主観があるからこその感覚と言えます。
この「主観における負け」が負けヒロインの失恋の重要なキーなのではないでしょうか。

ところが、そんなキャラクターたちに対し「負けヒロイン」というラベリングを行うと、少しニュアンスが変わってきます
それは、本人の意志とは関係なく、恋愛レースの結果だけを見て第三者が客観的な「負け」という判定を下すということ。
主観的な「負け」は悔しさや疎外感と言った感情に接続する一方で、客観的な「負け」はかわいそうにつながってしまいます。
この主観と客観の転倒が「負けヒロイン」という呼称の違和感を生み出す根源かもしれません。

その違和感が最も顕著に表れるのが「失恋後」です。
負けヒロインというのは「負け"る"ヒロイン」であることは確かなのですが、未来永劫「負け"た"ヒロイン」にはなりません。
失恋の痛みにもいつか終わりが訪れます。
この失恋をどう受け止めていくかという部分が、負けヒロインの最大の見せ場と言っても過言ではありません。
その受け止め方は様々です。『初恋ゾンビ』の江火野芽衣のように綺麗に恋を精算して次の人生へと進んでいくパターンもあれば、『寄宿学校のジュリエット』の狛井蓮季のように恋人でなくとも特別な存在であるとするパターンもある。
さらには恋を終わらせるばかりではなく、『俺ガイル』の由比ヶ浜結衣のように想いに一区切りをつけつつも諦めずに新しい恋のステージへと進んでいくパターンや、『ハイスコアガール』の日高小春のように失恋を引きずったままそれでも生きていくというパターンもあります。
(たまに未来永劫「負け」を背負うという、この上なく残酷な結末もあったりしますが、それはまた別の話)

その恋を諦めるにせよ、諦めないにせよ、片想いの記憶を人生の1ページとして収納した時点で、あるいは失恋の傷を自らの一部として受け入れた時点で、「負け」という事象は過去のものとなるのです。
「負け"る"」は「負け"た"」になり、「負け"ていた"」になる
この主観における「負け」を吸収して、自分の中に受け入れていくプロセスこそが、負けヒロインの物語の最大の見せ場ともいえるでしょう。

そういった点では「負けヒロイン」というネーミングは、どうしても「負け"た"」部分にフォーカスされすぎている言葉のようにも思えます。
失恋を乗り越え「負け"ていた"」に昇華し、自身を構成する一要素に落とし込んだ先では、主観においても客観においても最早一辺倒な「負け」という属性では記述できないのです。
実際、負けヒロインをテーマとした創作でも、この「負け"ていた"」に遷移する段階で扱いに苦慮している様子をよく見ます。
主観と客観の不協和、時点の不協和の2つが、「負けヒロイン」という属性付けを難しくしているといえます

それでも「負けヒロイン」という言葉を使う理由

そのような背景もあって、やはり属性・レッテルとしての「負けヒロイン」の使われ方は、誤解を生みやすいものだと思います。
では「負けヒロイン」という表現は使うべきではないのか?
「負けヒロイン」に代わる適切な表現はないのだろうか?
そのような道を自分なりに模索してはいるのですが、これがなかなか難しい。
というのも、やはり「負け」という成分がもたらす傷や痛みは「負けヒロイン」を語る上ではやはり欠かせないと思うからです。

「負けヒロイン」は本人に魅力がないわけではなく、あくまで選ばれなかったヒロインに過ぎません。
人によっては、むしろ彼女の方がメインヒロインよりも魅力的と感じるでしょう。
それもそのはず。負けヒロインは多くの場合、何らかの意味でメインヒロインに対するアンチテーゼとなっており、メインヒロインを選んだ場合には手に入らない、別の幸せの形を体現しています
それゆえに、よい負けヒロインには「この二人が結ばれたらそれはそれで幸せになれるだろう」と思わせるパワーがあります。

だからこそ「選ばれなかった」ということにも重みがある
もっと素直になっていれば、私が先に出会っていれば、あの人と出会うことがなければ。
あくまで恋物語という運命のいたずらの、たった1つ2つの歯車のかけ違いによって「負け」ただけで、その選択自体の価値が劣るわけではないからです。
ありえたかもしれない別の幸せ、それがたった一つの恋という衝動によって消えていく儚さ。
この失われゆくものへの祈りもまた「負けヒロイン」を語る上で欠かせない魅力であると言えるでしょう。

この「負け」という結果のもたらす無常さも魅力だと考えている筆者としては、やはり負けヒロインを語るにおいて「負け」というニュアンスは入っていてほしいと思ってしまいます。
単なる「サブヒロイン」や「二番手・三番手」ではどうにも不足なのです。
(「当て馬」もちょっとニュアンスが違う)

たしかに、「負けヒロイン」というレッテルとなりやすい概念は誤解を生みやすい表現だと思います。
でも、その時点における主観的で無常な「負け」が内包する痛みや切なさは大切にされてほしいというのも事実。
それが、それでもあえて「負けヒロイン」という呼称を使い続けている理由です。

まとめ

長々と語って参りました。
この記事はあくまで、「負けヒロイン」という言葉が含んでいる「かわいそう」にとどまらないエッセンスを、失恋を愛してやまないオタクの立場から解説したつもりです。

これを受けて、「じゃあ新しい名称を考えようぜ!」だとか「言葉の使い方を変えていこうぜ!」だとか、大層な呼びかけを行うつもりはありません。
ただ、「負けヒロイン」という言葉は、単に「かわいそうな人」という烙印を押すレッテルであってはいけないと思うし、その奥にある失恋の美しさや人間臭さにもう少し目が向けられるようになったらいいなと思っています。

この記事が「負けヒロイン」なるものに思いを馳せるきっかけとなれば幸いです。

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