雪国の農家が挑み続ける花づくり 【前編】
[本記事は宣伝会議 第43期 編集・ライター養成講座の卒業制作として作成しています]
家庭需要でようやく光が見え始めてきた花業界
だが雪国の花農家までその光は届いていない
起死回生に挑む粘り強く我慢強い魚沼人に迫る
「花瓶」て持ってますか?
近頃は花瓶がない家が多いと聞いた。じゃあ花はどこに飾るの? いやいや、そもそも花を買いますかって話。気の利いた彼氏なら花束をくれるかもしれないが、そんな時、あなたならどうやって花を飾りますか?
1.コップ
2.マグカップ
3.洗面所にとりあえず
これが案外現実か。せっかくだからと花瓶を買いに近所の花屋に行ってみると、意外や意外、花瓶を売っている花屋が少ない。結局100円ショップが便利だったりする。
豊島区東長崎にあるフラワーショップアスターの篦津(のつ)昌文さん、奈緒子さんご夫妻によると、コロナ禍になってから、店頭に並べた小さな花束が毎日よく売れているという。今まで来店したことのない方や、近所のオフィスの方などが、こまめに立ち寄るそうだ。価格帯は税込300円と500円。他の価格帯は?と聞いてみると
「ないです。800円の花を買う方は店に入ってご自分で選びますから」
ひと昔前の花はいかに長さを出し、頭(花)を大きくするか、立派なものが評価されて価格も高かったが、もうここ十年は全く違うと篦津さん。
「両手で抱えるような花束はまず減りましたね。今は片手で軽く持てて、長さも短めのブーケが主流です」
1万円や5千円の花よりも2~3千円、いや、1~2千円が増えて来ているのは間違いないそうだ。サブスクも、郵便ポストに投函される花だって価格帯はそんな感じだ。篦津さん曰く
「昨今の住宅事情というんですか、子供の頃にあったものがなくなってるんです。昔は仏壇にはいつも花があったし、神棚にはお榊があったでしょう?」
それだけではなく、下駄箱や棚がなくなり、掃除のしやすいシンプルな部屋が増えてきて、花瓶を置いて飾る場所がなくなってきている。花は消えゆく運命だったのか。いや、食卓やキッチン、洗面所にちょこっと飾れるものは家庭需要としても、ちょっとしたプレゼントとしても人気は上がっているという。このご時世、花は心のビタミンなのかもしれない。確かに花屋の店頭にはいつも小さな花束が並んでいる。
小さな花が売れてきているならば、花瓶はどうなんだろうか。周りできいてみると、今は古着屋にも花瓶があるし、IKEAとか大型店舗にもいろいろあって、「わりと持ってますよ」と20代の女性。逆に高齢の方は「終活に入ると大きな花瓶はもう置き場がなくて」という。花業界にもどうやら世代交代の波がきたようだ。
花瓶が必要な花の代表選手といえばユリだろうか。芍薬もそうだ。新潟県魚沼市でユリと芍薬を作っている鈴木健市さんはどうしているのか気になってきた。
孤独・自問自答・反逆・外に出て初めて知ること
鈴木さんはまもなく50歳。新潟県魚沼市で花を作っている。もともと父親が百合農家で、そこから芍薬も始めていった。熱血漢で情に厚く、魚沼での花づくりに誇りを持ち、今や地域を牽引するほどの存在だが、真摯に花と向き合う彼だからこそかつては大きな壁が立ちはだかった。農家は孤独との闘いで、畑に行っては自分の花と向き合い、これで良いのかと自問自答を繰り返す日々だった。
「この切り前で大丈夫ですか?もう少し緩く切った方がいいですか?」
「この色の人気はどうですか?」
聞いても農協の返事は
「今まで通りで問題ないよ」
鈴木さんはもっと知りたかった。 末端で俺の花は喜ばれているのか、本音の声が聞きたかった。本当にニーズに合っている花なら需要はあるはずなんじゃないのか。景気が下降していく中、売れなくなっていくのは農協のせいでもなければ、市場や花屋のせいでもなかったが、一生懸命良い花を作っているのに、評価がついてこないことへの不安は、日に日に積み重なっていった。
ついに鈴木さんは周りの反対を押し切って個選出荷(*1)に舵を切る。自分で自分の花を売り込もうと飛び出したのだ。 これは地方農家にとって大変な決断で、仲間が団結して花づくりをしているのに、そこを抜けて個選出荷になるのは、世が世ならば打ち首に匹敵するようなことだったと当時を振り返って鈴木さんは言った。もう後には引けない。あの時はそれだけの自信もあったし、自分の花への真っ当な評価が欲しかったんですよね。
実際、鈴木さんの花は東京の市場でも評判になるほどの出来栄えで、茎はまっすぐしっかりしていて、葉も青々として活きがよかった。花弁に厚みがあり、太陽からも土からも恩恵をたっぷりともらい、どの品種も申し分のないものだった。当然、幸先良好かと思われたが、翌年、ユリの花が大暴落した。 原因は天候不順で産地の花の出荷時期がダブついたのである。これが苦しかった。
個選になってやっとわかったことがあったが、啖呵切って離れた身、帰りたくてもそれは言い出せるものではなかった。だが花づくりを続けるために「帰らせてほしい」と頭を下げた。「うちらのところが共選出荷になった理由がやっとわかった。一人じゃできねえことをみんなでやってここまできたんだってことです。俺は同じ気持ちを持つ若い連中に俺の体験談を聞かせてやってます」
生涯を芍薬に捧げ「かぐや姫」は生まれた
魚沼といえば米があまりにも有名だが、実は魚沼の農家は米だけを作っている訳ではない。一人一人の作付けは少なく、米づくりの合間に花や野菜を作っている。 そして冬は父さんは東京へ出稼ぎに行き、母さんが雪下ろしをして家を守る。それが雪国の農家だった。
花でお金を稼ぐまでは時間がかかった。そこである時、山形県まで片道7時間運転し、山菜づくりを学ぶこと30分、それでも通って見よう見まねで始めたのがタラの芽と、うるいと、ふきのとう作りだった。やがてこれらは日本のトップ産地となり、彼らの花づくりを支えることになる。なんと、すべては花を作るための山菜づくりだというのだ。
厳しい雪国での過酷な花栽培。そこで芍薬に生涯を捧げてきた男、滝沢達雄さんがいた。雪国での球根栽培は考え抜かれたアイデアで、冬が来る前に植えておけば、その上に雪が2~3メートルは積もって土の中で球根は大事に守られる。春になると、その雪解け水が土を浄化し、花々が深い眠りから一斉に芽を出す。だがいっぺんに咲いてしまうという問題点があり、7月から10月の4ヶ月を花で食いつなぐにはどうしたらいいのか、それには芽を遅く出す球根を考えるしかなかった。 「滝沢の親父は有象無象のおっさん軍団の中の一人で、少しばかり先見の明があり、チャレンジャーだった。物珍しい親父だと言われてましたね」と語る弟子の鈴木さん。同じ部会の滝沢さんを親父と呼んで慕い、生きる上での指針だった。
今から半世紀ほど前の話に遡るが、滝沢さんがまだ30代の頃、自分が作った芍薬の花に納得がいかなかった。「花持ちがとても悪い」そう思ったという。その気持ちが滝沢さんを芍薬の花育種へと向かわせた。1974年のことで、それはとても時間がかかる作業だった。交配をさせて取れた種子は6000粒。その種を畑に蒔いて育てていく。その蒔く種の乾燥状態によって翌年芽を出すものと、2年目にようやく芽を出すものがあった。交配をさせてから発芽完了までが丸3年。 発芽し た葉を育てること丸2年。5年後に顔を出した花を3分程度見て、綺麗だと思えないものはその場で抜き、捨てる。優れた芍薬が生まれるのはまさに神のみぞ知るで、そんな気が遠くなることを滝沢さんは一生の仕事とした。6000粒から目に留まる花が2色あると、その株を育てながら選抜をさらに繰り返す。白の品種は1990年に、ピンクの品種は1993年に育種を完結させると、滝沢さんはその花をまず東京の市場へ送ってみた。東京がどんな評価をするのか聞いてみたかったのだ。
東京でその花は高く評価され、増やせとGOサインが出る。その時堀之内町農協の出荷場事務をしていた女性から、その純白な花には 「白雪姫」がいいと名前をつけてもらった。 さらに2年後、淡くやさしいピンク色が、しなやかで楚々として汚れのない女性のイメージだと、滝沢さん自身が「かぐや姫」と命名した。1995年3月、白雪姫は登録品種となり、1997年3月、かぐや姫も品種登録が完了した。ここまで来るのに20年以上の歳月が流れていた。
それでもこの花はすぐさま売れたわけではない。良い花だと思っていても、誰かが株を買って作ってくれないと日の目を見ることはないのだ。年に2度、市場と生産者を繋ぐ会があり、東京や大阪、仙台、福岡といったところから人がやってくると、滝沢さんはいつも頭を下げた。
「頼むから売ってくれ。俺はこの花に一生を賭けてんだ」
だが、滝沢さんの花はずっと安く叩かれていた。姫たちは間違いなく良い花だったが、箱入り娘に箱からの出番はなかなかやってこなかった。
【後編につづく】
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