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花屋の花に隠れた物語  帰ってきたかぐや姫 【後編】


生まれたストーリーに光をあててほしい


「こんなポテンシャルを持っている芍薬は他にはない」
 鈴木さんは信じていた。地道にコツコツと作り、増やしてきたかぐや姫と白雪姫がようやく売れ出した頃には、さらに10年ほどの歳月が流れていた。人生の大半を、芍薬の育種に注ぎ込んできた「滝沢の親父の名前と生き様を残したい」と鈴木さんは思うようになっていた。

 そんなある日のこと、雑誌「花時間」が滝沢さんのかぐや姫を取材したいといってくる。だが鈴木さんは断った。
「花をクローズアップするんでしょ?本が出た時にそりゃかぐや姫は売れますよ。でもブームが来ると生産が間に合わない。だからこっちは一生懸命増やすんです。でもブームが去ったら?花は市場に溢れて下火になって消える運命になる。この花はそうはさせない」
 ならばどうやったら受けてもらえるのかと聞いてきた。
「その花は自然に生まれたんじゃないんだ。『ひと』にスポットを当ててくれ。生まれたストーリーに光を当ててくれるならば考えてもいい」
 花時間は「滝沢達雄」にスポットを当て、1年間の取材を経て特集記事を出した。
 全国誌に紹介されたことはさぞかし喜んだことだろうと思ったら、本に載ったことを喜んだんじゃなくて、「東京から俺の話を聞きにきた」ってことがうれしかったそうですよと鈴木さん。「あの人は金も残さないで夢だけ追いかけたんです」
 その滝沢さんは7年前に83歳で永眠した。今は孫の利道さんが、達雄さんの夢を引き継いで、鈴木さんの畑で共に頑張っている。

在りし日の滝沢達雄さん
孫の滝沢利道さん

菅原さんとかぐや姫

 滝沢達雄さんの話を聞き終えると、菅原さんはそのかぐや姫を買って帰られた。そして2日後、照れくさそうに出した手の中でかぐや姫は絵になっていた。その絵の中のかぐや姫は可憐というより、芯が強く、逞しい感じがした。
「これね、良かったらその生産者さんにさしあげて。なんだか嬉しいじゃない、素敵な物語のお花と出会えて。この私が絵を描こうなんて自分でもびっくりしてるのよ」
 その絵は、近所の画材屋で額装をお願いすると、まるで町娘が貴婦人にでもなったかのような見違える作品に変身してしまった。

菅原さんとかぐや姫

花づくりが全身に染みついた男、鈴木健市

 鈴木さんはまもなく50歳。新潟県魚沼市で花を作っている。もともと父親が百合農家で、そこから芍薬も始めていった。熱血漢で情に厚く、魚沼での花づくりに誇りを持ち、今や地域を牽引するほどの存在だが、真摯に花と向き合う彼だからこそかつては大きな壁が立ちはだかった。農家は孤独との闘いで、畑に行っては自分の花と向き合い、これで良いのかと自問自答を繰り返す日々で、悩みはつきなかった。
「この切り前で大丈夫ですか?もう少し緩く切った方がいいですか?」
「この色の人気はどうですか?」
 聞いても農協の返事は
「今まで通りで問題ないよ」
 鈴木さんはもっと知りたかった。 末端で俺の花は喜ばれているのか、本音の声が聞きたかった。本当にニーズに合っている花なら需要はあるはずなんじゃないのか。景気が下降していく中、売れなくなっていくのは農協のせいでもなければ、市場や花屋のせいでもなかったが、一生懸命良い花を作っているのに評価がついてこないことへの不安は、日に日に積み重なっていった。  
 ついに鈴木さんは周りの反対を押し切って個選出荷(*1)に舵を切る。自分で自分の花を売り込もうと飛び出したのだ。 これは地方農家にとって大変な決断で、仲間が団結して花づくりをしているのに、そこを抜けて個選出荷になるのは、世が世ならば打ち首に匹敵するようなことだったと当時を振り返って鈴木さんは言った。もう後には引けない。あの時はそれだけの自信もあったし、自分の花への真っ当な評価が欲しかったんですよね。
 実際、鈴木さんの花は東京の市場でも評判になるほどの出来栄えで、茎はまっすぐしっかりしていて、葉も青々として活きがよかった。花弁に厚みがあり、太陽からも土からも恩恵をたっぷりともらい、どの品種も申し分のないものだった。当然、幸先良好かと思われたが、翌年、ユリの花が大暴落した。 原因は天候不順で産地の花の出荷時期がダブついたのである。これが苦しかった。

 そんな時に届いたのが菅原さんの「かぐや姫の絵」だった。自宅一階の作業場の真ん中に神棚のように棚を設え、そこにかぐや姫の絵が鎮座していた。
「俺、この絵にどれほど力をもらったか。 滝沢の親父が30年苦労して作ったかぐや姫が、俺の畑で作った花が、縁もゆかりもない人のところで咲いてくれ、喜ばれ、絵になって返ってくるなんてこんな冥利に尽きることはないっすよ。 これ見て頑張るぞって誓いを立てたんです。 だから神棚のようにちゃんと祀らせてもらいました」
 個選になってやっとわかったことがあったが、啖呵切って離れた身、帰りたくてもそれは言い出せるものではなかった。だが花づくりを続けるために「帰らせてほしい」と頭を下げた。
「うちらのところが共選出荷になった理由がやっとわかった。一人じゃできねえことをみんなでやってここまできたんだってことです。俺は同じ気持ちを持つ若い連中に俺の体験談を聞かせてやってます」

二人の親父の声が聞こえる

 鈴木さんのお父さんは昨年4月2日に亡くなった。
「一昨年の年末に雪の前の仕事(*2)が具合悪くてできねぇって言うから一回ぐらい休んでもいいべって」
 雪国にやっと春の声が届き、農家が忙しくなる前にお父さんは人生の幕を下ろした。
「沢山の人に助けられて世話になったから、地域や、仕事や、自分を助けてくれる人の為になることはきちんとやるように」
 父親にそう言われてきたという。同じ仕事をしてきたから衝突ばかりだったが、今となればあの時なぜ父親がそういうことにこだわったのかが妙に良く分かるという。
 コロナ禍の中での入退院の冬。病院の許可をもらって、個室で二日間泊まり込み、親父を看取れたことが息子として最後にしてやれたことだった。「あー親父とはお別れだと思った時、握手したんですよ。力いっぱい握り返してくれて・・その手を写真に収めました」

どれだけ働いた手なのか・・

「結局、親父を越えられなかった。 生きていれば何回もありがとう、おめでとうが言えるが別れは一回です。ただただ親父には感謝しています。こうして、百合や芍薬の仕事に自分も就いて、親父のように沢山の人に支えられて今日も仕事をしています」 
 この日の魚沼は50センチの雪が積もったという。鈴木さんに5年後、10年後のことを聞いてみた。
「言いにくいことを言いますが、実は今が一番しんどい。先が見えてないんです。誰のせいにもできない。花のことばっかり考えてますよ。必死こいて立て直して、5年後に花づくりをやっていられたら、どんなことがあっても一生花切ってます」
 コロナ禍でなくても試練はやってきたと思うと言った。たまたまコロナで気づくことができた。若い世代で消費が伸びても、雪国の花農家にそれが届くのはまだ少し先のようだ。だが春の足音は近づいている。

 最後に健市さんが1枚の写真を見せてくれた。それは目の覚めるような濃いピンク色の芍薬のドライフラワーだった。「うわーっ、きれい」思わず声が出てしまった。なんて発色のいいドライフラワーだろう。
「ギリギリまで畑で咲かせて、色の一番乗ってる時に切って乾燥させてみたんです」
 鈴木さんもこんなに綺麗にできるとは思わず、感動したそうだ。
「今度の夏はこれもやってみるかな」
 やっぱり頭の中は花のことばかりだ。若い世代にどう切り込むか、折りしも空前のドライフラワーブームは続いている。

乾燥させると普通は花弁は縮むが
開かせながら乾燥することができた
農作物のためには雪国の雪は大切だという

 二人の親父が遺したものは、雪深 い山の地で生き抜く越後魚沼の侍のような精神だったに違いない。二人の親父の声が聞こえる。「耐えるしかねぇ時はどう耐えるのかを考えろ」そして「やるっつったらやれ」魚沼の花の底力は豪雪の下から咲くことだ。鈴木さんは雪の降る中で、もっと遠くを見据えていた。 



*1  一般的に、個選は個人選果のことで、自身の責任で選別を行う。共選は共同選果のことで、農協などの出荷所でサイズなどの規定に則って選別を行い、その出荷所のブランドで出荷をする。

*2 花の仕事や山菜の仕事をいつ雪が降ってもいいように準備すること。冬の間に食べる野菜を収穫したり漬け込み、雪の囲いも終わらせておくことをいう。



















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