退行催眠の記録①

【母との共依存関係】

心療内科の医師からの紹介で人生初の退行催眠を受けてきた。その医師との診察と平行してこれからも定期的に続けていくつもりだ。

ここ最近、自分の中で大きな変化の時がきている。端的に言えば、あまりにも「自分らしく」生きていない事で、自分にも周りにも色々な支障が出てきていて、いい加減気付かねばならない事、乗り越えねばならない事が目の前に束になってやってきた。

元気なふり、平気なふりをしても意味がない。これは何らかの学びの機会なのだ、と腹をくくった。

そこで、辿り着いた退行催眠の記録を書き記しておこうと思う。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私を生きづらくしたのは、幼少期の母親との関係だったのでは?と思いそこを中心に探っていった。

私は幼少期、曽祖父は村長。祖父は地元で有名な校長先生、祖母も明治生まれで師範学校を出た才女で、父は長年PTA会長で学校にも良くいたし、式典では必ず挨拶するし、ある時なんかは帰宅したら先生達が父と飲んでるなんて事もあり、何とも息苦しいおかたい家庭で育った。

母親は厳しく、怖い人で、特に異性関係に厳しかったが、それと同じくらい優しい人で愛情深く、それでいてとても弱い人で、自然の法則の「表裏一体」のお手本みたいな人物で、今思うととても両極端な人だった。

そして、ない事にしていた記憶だが、退行催眠中に想い出した事が1つ。
私が小さい時、父は優しかったのに対し、母はキレると大声で恫喝し、暴力を振るう人だった。成績が悪かったり、自分が許せない事があると、それはそれは気が狂うように怒り散らし、ある時、私は土下座をしながらとてつもない大声と泣き声で、母に謝っていた光景を退行催眠中、想い出した。
母がいないと生きていけない!!この世で1番愛していると断言していた私は幼少期、母がとても怖かったのだ。
ようは、好きじゃなかったのだ。

しかし、私が4歳の時、「お母さんは明日からいないからね。お父さんと寝るのよ。」と伝え、母は病院へと行った。
後に分かったが、母親は現代医学では治せない不治の病に侵されていた。

末っ子の幼い私は父と行動を共にしていた為、今でも医師の話をしている姿、父と手をつないで歩いた病院の廊下を覚えている。

そして、、、数年後、母は再発するのだが、この時、いよいよ、死ぬか生きるかの大手術に挑む事になり、実際、母は三途の川を見ることになる。

その時の恐怖心を退行催眠で想い出した。

ここがキーポイントの1つであるのは間違いないのだけど、、、この続くきはまた次回。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?