『ミッドサマー』

映画『ミッドサマー』を見ました💐
感想をまとめていきます。


ホラー映画?

映画を見る前はあまり前情報、前評判を入れないで行くことが多いです。しかし今回は「ホラー」という感想が1つの主流としてあることを友人伝で知ってしまっていたので、身構えて見に行きました。
結果として、私にとっては全く「ホラー」映画ではなかったかなと。どちらかというとアングラに近い。「ホラー」という言葉を用いるなら「ポップなホラー」というかんじ。

グロテスクな部分は確かにあったし、あえてそのシーンで被写体をカメラの中心にデカデカと置いたり、カメラが死体を舐めるように写したりしていたので、捉えようによってはそこが「ホラー」なのかもしれません。

私の中での「ホラー」映画というものが心霊/怨霊モノ、殺人鬼モノなどに限定されてしまっているのもあるかもしれないけど。「ホラー」として見るには物足りなかったなという感想が先にきます。

人の怨念、純粋な殺意などが「ホラー」というジャンルに準ずるものだと思うのです。この作品に描かれる「死」は全て決まっていること。誰も憎まず、当たり前のこととしてそこにある。だからこそ「ホラー」ではなかった。

「これからなにが起こるのか全く分からない」という不明瞭なことに対する恐怖は常にありました。
でもそれは「分からない」ことに対する恐怖であって、「起こった事象」に対する恐怖ではないんです。そこが私にとってこの作品を「ホラー」にカテゴライズするのが難しい理由かもしれません。

目の前で人が死ぬという物理的恐怖。
全貌が明らかになっていない謎の儀式に対する心理的恐怖。
この2つの恐怖が軸になって、うまく調和していると思いました。


美しい映像

先に「ポップなホラー」という話をしましたが、カラフルな映像と白夜の青い空がそうさせているように思います。グロテスクなシーンとのバランスがどうにも絶妙で。場面が冬から夏になってから、画面がほぼ明るいままで物語が展開していく。

青い空、豊かな緑、色とりどりの花、そして白い装束。夢心地になるような、私にとっての理想的な美しさが、画面には常に写っていました。

美しい映像からの血、というギャップが素晴らしい。ギャップが恐怖を煽ってくる。そのアンバランスな映像によって世界観により引き込まれ、腹の底に違和感に近い何かが蟠る。そういう混沌が映像になって永遠に続いていました。

ダニーの生活を序盤で描くことによって、よりホルガというコミュニティが非日常を彩っていました。ダニーから徐々に「恐怖」が抜け落ちていくように見えるのは、日常からの脱出衝動に身を任せてホルガの一部になるという感覚を経験し続けているかもしれません。

音楽も素晴らしかった。伝統民謡調であったり、静かに人間の持つ潜在的恐怖を煽ってきたり、映像の中のコミュニティの空気感がリアルに伝わってくるかのようでした。
ホルガの民はこうして生活しているのかと、自然と納得させられるような音楽が多かった。

とにかく、それほどまで美しい非日常がそこにはあります。「儀式」という日常で多用されることのない言葉を、実体験を持って経験していることも彼女らの非日常を彩る要因となっている気もします。


「嫌悪感」?「不快感」?

映画館を出たとき、同じ回を見たと思われる若い女性2人組が「内容のない作品だった」と語り合いながら歩いているのに遭遇しました。私的には流れるような物語ではあったものの、感じること、考えさせられることが多々ある作品だったので衝撃が凄まじかったです。
その後すぐ近くのカフェにて「ミッドサマー 感想」とSNSで検索をかけてみました。確かに内容の有無を語る人もいれば、純粋に恐怖を綴る人もいましたが、1番目についたのがこの「嫌悪感があった」「不快感がすごい」という感想たちでした。

これも私にとっては新鮮な感想です。
私は見ていて全く嫌悪感も不快感も抱かなかったので。
ではなぜこのような感想が出てくるのでしょう。

儀式という大義名分のもと、人を殺すから?

人を殺すことに躊躇いがないから?

恋人がいる男性に薬を飲ませて意識を混濁させたあげく、村の少女とセックスをさせるから?

それとも、人の殺され方や映像のグロテスクさがそうさせる?

「嫌悪感」と「不快感」という感想を抱くことができなかった私にとっては、どれもしっくりくる理由ではありません。物語のどの部分が、この感想を抱く人々の琴線に触れたのかすら、推察することが困難でもあります。

そもそもホルガの民は皆、「儀式」のための供物として人命を差し出しているにすぎません。これは大昔の日本でも普通に行われていた、宗教/信仰の1つです。それを目の当たりにして出る感想が「嫌悪感」や「不快感」だったならば、もう一考してほしいところです。

ホルガの民たちにとって、「儀式」で人命を犠牲にすることは、私たちが生きる上で呼吸を必要とすることと同じように、決まった世界の理です。

生命を循環させるために必要な行為で、彼らの中での「死」は失うことにはなり得ません。むしろ、生命のサイクルを分かりやすくするための行為とも言えるかもしれない。

供物とされる人々の死に方/殺され方を見ても、1つの信仰を感じずにはいられません。木、花、水、獣、土、藁、自然に捧げられる命なのだろうと一目で分かるそれからは、やはり太古より綿々と受け継がれる信仰が見えてくる。


この類の考察は考察サイトさんの方が詳しくて面白いのと、私も読んで納得する部分が多いので、あくまで1つの感想として綴らせてもらいました。

ディレクターズカット版も公開したので、見にいかなければならないと感じています。きっともっと大切なものを拾えると思うので。
決して恐怖だけで終わる作品ではありません!
まずは見てほしい!ぜひお近くの映画館でどうぞ!

いいなと思ったら応援しよう!