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「自分の中にできているひずみ」の、言い分を聞く【物語・先の一打(せんのひとうち)】49


「自分が出来損ないではないことの証明のために結婚をしたい」だけだ、という卑怯な動機に向き合ったとたん、


ぎゅうううっと肝臓が痛むような、張りさけるような、ぎょっとする激しい引きつれを、四郎は感じた。

急な体の痛みに、四郎は思わず右腹に手をやって顔をしかめた。この激しい痛みに対してとびあがるような恐怖がある。恐怖のあまり、ねじふせようとか、即座になんとかしようとか、稚拙なカウンターアタックにしかならないことをしようとしている自分がいる。


この感覚と争ったり、この感覚の原因となることにべき・ねば・してはならぬといった圧力をかけようとしたり。


とにかく感覚したら、平常ではいられない。とびあがるほど動転している。


こわいこわいこわいこわいこわい……

…ふいに、『風の谷のナウシカ』の原作版の、粘菌たちの集団が暴走する「大海嘯」のくだりを読んだ記憶がよみがえった。


彼らは、恐怖にまみれて、いろいろなものを飲み込みながら大群で、進んで進んで進んで周りを滅ぼしてしまうのだ……村をのみこみ、都市をつぶし。進んでぜんぶをのみつくして、さらにのみこんで進む。


コワイ。コワイ。コワイ。コワイ。コワイ。コワイ。


ひいひい、ひゃあひゃあ、狂気の快哉を叫びながら女を追い詰めては殺すたくさんの不浄なご先祖さまたちの群れ。あれは、快楽に身を任せて楽しんで進んでいくというよりは、余裕を持たぬどころか、それ以外の方法を全く知らぬのでそう突き進むしかやりようのないことをしているのだ………


ご先祖さまたちが、自分たちそのままの図星をさされたことに腹を立てながら、だまって、じいっと、じいっと、その一連のコマを、四郎と一緒に、みていた……


自分の中の、どうしようもないいろいろな途方に暮れる絶望的な感覚と、寒い寒い道場の廊下で座らされながら記憶を反芻していたさまざまな読書体験とが、あの道場の廊下で、隣り合わせに置いてある。

解決の方法は知らなかった。自分はそうやって生き延びてきた。ご先祖さまたちは現代の小説を読んだことがない。漫画を読んだことがない。活字という両刃の刃物を知っているのは、”ご当代”とは名ばかりの虐げられた新入りである四郎だけだ。


「肝臓が張るような痛さがある」四郎はうっそりと口にのぼらせた。


高橋は平然と、話題のホッピング(飛び移り)にそのまま乗った。


「操作することなく、扱うことなく、”それ”の言い分をきけそうか?」


言い分……

(言い分というのはなんやろうか)


四郎はただ、激烈な肝臓のひきつれた痛みに手をあてたまま、にっちもさっちもいかずにいた。


四郎は自分についてはどうもこうもできないとき、唯一できるのが

「これまでに読んだ本の記憶から、似たエピソードをひっぱりだしてきて、手がかりにすること」

だったので、今回もそうした。

記憶をひっぱりだしてこようとする点、操作も扱いもしている。


とはいえ、ご先祖さまたちと”奥の人”たちの詰み具合の中には、 ”自分の体の言い分を虚心に聞く” というありようは全く含まれない。ので、最初から上手にできていなくてかまわない。


言い分をきく。


夢枕獏の『陰陽師』のシリーズの中で展開していることによせていうと、鬼は、力で退治・封印するうちは、操作も扱いも圧力もかかっている。支配被支配の勝負のなかで双方がダメージを負いながら、根本解決をすることがない。

WIN-LOSEを前提としてしまうと、

「すべてがつながっているので、ひずみはただ、別のところへと移動しただけ」にしかならないのだ。

人間関係の力学、男女・親子の間柄でもおなじだ。

源博雅が、御所から盗んだ琵琶をかきならす鬼にたいして、ただ音色に感動してきいている。


「琵琶をかえせ」ということを全く言わずにいる。


天然の音楽の申し子であるがゆえに、ただ感動してきいている。そこにとがめや、別の地点への引っ張り行為がない。

ただ「その琵琶は玄象か」ということをたずねる。琵琶を弾くものに対して、感動にふるえながらそういう。

音そのもののよさ。


音を出す道具のよさ。


その道具からその音を引き出す腕のよさ。

それらがどんなに難しいものごとの果てにあったかを、共通感覚している土台をもって、源博雅は


「この、おまえによって音をひきだされている楽器は、玄象という希代の名器だろう?」


というあたたかい親近感でもって、ただひとこと「その琵琶は玄象か」という。

彼の仕事はもののふなのだが、「ひろやかにあまねくみやびなり」という名前は、よくつけたものだ、実在の歴史人物を物語にうまく持ち込んだものだ。

音楽の申し子からの一言に、今までどうにもなぐさまなかったものがなぐさめられて、鬼は琵琶をかえしてよこすのだ。

つまり博雅は、「言い分をきいて」さえいない。「我と汝」が対立項にいる「ひとを襲うものと、それを追いかけるもの」という事象を忘れ果てて、「琵琶の申し子同士」という境涯に、純真無垢に入り込んでいるのみであるのだ。

「操作することなく、扱うことなく、”それ”の言い分をきけそうか?」


と高橋が言っているのは、巷の心理療法の技法でいうと、70年代後半によく研究された”フォーカシング”の技法だった。カール・ロジャースの傾聴を自分で自分の体の、ことばになりえない症状や感じ・感覚に対して使う。

「技法」と表現している時点で、操作や扱いが入り込んでいる以上、「もはや技法でさえない」境涯に解き放たれないうちは、ひずみがのこっている、という体験をただ、くりかえしていくことにはなるが。


操作することなく、扱うことなく、ただ音色に感動してきいているなかで成仏が起こる、ということを十二分に知っていて初めて、この「言い分」とは何かをひもときはじめることができる。

カール・ロジャースの「傾聴」と、”フォーカシング”という技法が直面するものごとの中で、自然に何が起こり、何が成仏し、何が解放されるのか。

未成仏と修羅の闘争と支配対被支配と操作。それらのパワーゲームは、無知と恐怖と「時惜しみ」「欠乏」への焦りから続く、という体験の中でいやというほど負けたものだけが、それと全くかかわりのない地平で

「ただ、感覚する」


「ただ、それの親友のように、そばにいる」

という両手ばなしの行為をやりきることについて、


「操作と成仏の間には、何のどのような違いが横たわっているのか」を、まがりなりにも説明することができる。

河合隼雄が「自閉症児の治療」のなかで、「まさにそれと同じことがおこる」と夢枕獏との対談で語っていることは、その周辺の

「心を現世に返してもらえる、いきさつ」

のことを語っている。

……膨大な時間がかかることへのおびえ、を自覚していない世界へ抜け落ちてしまってはじめて、この境地に至る。


四郎はそこに絶句していた。

「十九、はたち」のいのちのきわにいるものにとって、膨大な時間がかかることは、

とっかかりに立っただけで、寿命がつきてしまう

という恐怖から離れえないことだからだ。


無自覚へと抜け落ちると、人を襲う。無自覚へと抜け落ちないと、その境地に脱しえない。


活路がない--


「操作することなく、扱うことなく、”それ”の言い分をきけそうか」

もういちど、はじめてきくように、高橋は言った。


「そうする」


四郎は返事をして、ふと我に返った。にっちもさっちもいかないとき、自分は雑念という雑草に生い茂られて、にっちもさっちもいかない。高橋は自分の外にいる。そしてこいつは、自分のことを生涯ひとりの親友とさだめている。「ただ言い分をきく」というのがどういうことかわからないなら、こいつに同期してしまえばいい。


「僕のガイドがあったほうがいいか、ひとりでやるか」


「手をくれ」

高橋はそっと手を伸ばし、四郎はそっと高橋の手に触れた。ふれようかふれまいかを、ぐるぐるとめまいのようにループしてしまう奈々瀬の肌や髪と違って、どうでもいい男には、躊躇せずに触れられる。

あつい体温の手だった。自分の手も、あつい、と感じた。

「分布が……肝臓から、右へあがって、のどの右側をあがって、口、右の鼻の奥へ……肝臓も、肝臓の形に腫れて痛い、というわけやない」


体の感覚を、ゆっくりと追って、違和感のある場所を口にしていく。


ふつう、ある程度の訓練がなければ、このように違和感のある場所を探し当てることと、それを言葉で伝えることとは、そうそうスムーズに連携できはしない。

(前は、あんなに難しかったのに……?)

あれっと思うほど、たどることが可能になっている。なぜだ。


すぐに思い当たった。

草や木の蒸散呼吸と合わせるように、ゆっくりしすぎるじれったさに身をもみながらも歩いた。

あの早朝の散歩の積み重ねが、自分の体の内側の感覚を、たどりやすくしている!


四郎は表現を添えてやった。


「痛みが、張る感じで、でっぱってくる……肝臓を傷めて、死ぬように思う。おそがい(こわい)」

「形は」四郎は少しだけ、高橋の手のひらから指をにぎりこんだ。「形は、縦長で硬い。黒か、灰色のような気がする」

色と形と大きさを、なんとなくなぞってたどってみた。


次には、ゆっくりと、そのそばに、尊重する距離をとって、座る感覚を持ってみる。

「そばにおるようにする」四郎は、ゆっくりとささやくように言った。そして、肝臓の痛みに向かって、そっと声をかけた。「いままで、ようかまったらんと、ごめん」


少しの時間がたって、また、四郎は声をかけた。「いままで、何も話を聞いてやらしとおいて、ごめん」

(ごめん)


(俺は、うちがわで、こんなふうにつっかえて、炎症を起こしておったのに)

やっと、力で押さない、圧力をかけない、ということが、ゆるやかにわかりはじめた。草木と呼吸していた日々が、それをわからせはじめたようだった。

……ふいに、縦長で硬い黒か灰色のそのかたまりから、まるで「しかたがないて。どうせやええのかわからんもん」とでもいいたげな、今まで感じたことのない「仲間感」が、四郎にわずかに、伝わってきた。


それは、常温の水のようにかすかな、わかりにくいかすかなものだった。


だが、たぶん、仲間感というか、気を許したような感覚だった。


「肝臓の痛み」というひずみの結果であるような存在が、自分に、気を許し始めてくれている……

四郎は、はじめて踏み込んだ自分との対話の新しい局面に、心の中で目を見張る気分があった。

同時に、高橋がおしげもなく自分自身の人生の時間を、四郎にあたえながら、リラックスして、ただ、待っている、そのあたたかさも、触れた手から流れ込んできた。

高橋自身は、「三十六歳すぎて生きている気がしない」という焦燥感と、自分は気がちがって死ぬだろう、という暗い予感とにさいなまれて追いまくられて、ぜえぜえ、はあはあ、生き急ぐように生きているというのに。

生涯ただ一人の親友に、これほど惜しげもなく人生の貴重な時間の砂時計の砂を、注いで注いでそそぎこむ。


邪険にされていない。


気を許され、あらゆるものを与えてもらい、ゆっくりと時間を与えてもらっている。


時間を惜しげもなく与えるというのは、尊重して愛しているということだ……大切にしている、ということ。

(自分を大切にするというのは、こういうことも言うのか)

「言い分をきかせてくれるとええ」

四郎は、肝臓の張りに対して、そう言ってみた。


しばしの沈黙のあと、それは、流れ込むでもなく流れ込んできた。


――つかれた


――人の要求にばっかこたえとると、つかれて自分がようわからんようになる


――人から来るのは非難ばっかりや、あれがだめ、これがだめ、努力して報告すると、もっとえらいことがかぶさってくる


――話したくない


――努力して話せば話すほど、追い詰められて、痛めつけられる


――もう、いやや

「そうか、俺が無理に努力したぶん、お前に無理を押し込んどったんか。親父がダメだししかできんのは、ほぼ、そういう否定と奮起の時代に生きた、制限からやもんなぁ」

――くるしい

「くるしかったな」

――誰にも会わんとおきたい


――人と一緒に住むのやめてくれ、

「奈々瀬とおると、疲れるんや、俺も」四郎は不意に自分の気持ちを言った。


「嫌われたないもんで、ええかっこしたくて、どうしようもなくなって、余計うまいこといかん」

そして絞りだすように言った。「疲れて、いやになって、いつかめちゃくちゃにしそうや」

――ずっとそうやってきた、ひとのいうこときいて、もうだめになったら縁切る


「悲してかなわんな」

――かなしい

(すごいな)と四郎は自分で思った。自分の中から悲しさがするすると出てくるなんて、前代未聞ではないのか。


「こんなかなして苦しいおもい、しとったんやなぁ」

自分と通じている自分は、もはや「かわいそう」ではなかった。


途絶していたときは、どう扱っていいのかわからないので、何をどうすればいいのか全くわからないために、いっそう何とかしてやらなければならず、「かわいそう」な自分であったらしかった。

言い分をいうがまま、聞き取りをするがままに任せて、出てくることをそのまま出して去らせる。


これによって、どうやら、自分の中の途方に暮れた感覚が、もう不要になったらしかった。


どうしていいのかわからない、は「どうにかする必要はなかった」という理解に変わり始めていた。

どうにかする必要はなかった。


体の感覚が、どこにどう分布しているかを感じ取って、ゆっくり、そばにすわるようにして、言い分をきいてやるために、たっぷりの時間をいっしょに過ごせばよかった。

おのずから、どうにかなっていくのだもの。


だから、さきほど書かれた

「高橋が言っているのは、巷の心理療法の技法でいうと、1970年代後半によく研究された”フォーカシング”の技法だった。カール・ロジャースの傾聴を自分で自分の体の、ことばになりえない症状や感じように対して使う。」


この表現は、


「一部が間違っている」という説明が、このときの四郎になら、できるまでに変わっていた。


少しだけ成長したといってもいいし、少しだけ深い体験を言語化できるようになったといってもいいし、少しだけ仏性をもったといってもいいのだろう……

得た体験を表現すると、次のようになる。

「高橋が言っているのは、巷の心理療法の技法でいうと、1970年代後半によく研究された”フォーカシング”の技法だった。

カール・ロジャースの傾聴の態度のなかで、自分自身が、自分自身とともに、くつろいで共にいる。


そのことによって、自分の体の、ことばになりえない症状や感じようが、自分に対してなにかを伝えてくる。そのなにかが、操作や圧力なしに信頼と安堵のあたたかい沈黙のなかで、

やがて、自分の中に流れ込んでくる・・・ と知っていて、それに対してたっぷりの時間をそそいで、ともに過ごす。


ともに過ごす時間がじゅうぶん、全肯定的で、急ぐこともなく何の操作や無理強いやコントロールとかかわりのなくなった境地で行われることによって、

結果として、やがて、症状や思い込みは解消へとつながっていく。」


どちらかというと、この表現が実際に近かった。

四郎はちらと時計を見た。6時57分。たっぷりの時間、といっても、ふりかえってみれば、今回は、ほんの40分程度だ。先祖代々数百年のいきどおりと絶望からすれば、とても短い時間だった。


四郎は、少しだけ安心を得た気がした。


数限りなくこんなことがあるから、「まだおわらないのか」という気分は、当然出てくることになろう。その、焦りと怒りそのものについても、同じように感覚して、言い分をきいてやる。その繰り返しになるのだった。

「時惜しみ」の焦りと怒り、という感覚は、峰の先祖返りにはとてもきつい苦しみだった。4-5代にいちど、高濃度に圧縮された産業廃棄物をめいっぱい体につめこまれたように、累代の峰の先祖返りと累代の先祖たちとがぎゅうづめになった赤ん坊は産み落とされる。

--女を襲ひ人斬に淫す。近郷すさむをとどめ得ず。

と彼らは伝書に表現され、厄介ものとして近親者に闇討ちで始末されて死んでいった。


タイムリミットはいずれも、数えの十九かはたちだった。

とても、何かを心置きなく成し終えて死ねるだけの時間を恵まれたとは言えない。


そのくりかえしで、因果は濃さを幾何級数的におりかさね、今、ここに、嶺生四郎という「ご当代」がいる。

人体六十兆個余の自分の細胞のうち、「言い表した一つの感情」でカバーできるような感情と意思の方向を持っているのは、せいぜい数パーセント、、、

あとは


不随意運動をささえたり、


頭と胃袋は別のことを考えていたり、


胃袋と腸は別のことを考えていたり、


足の故障のあとは別の記憶のとどまりに苦しんでいたり、


頭と雄の部分は別のことを考えていたり、

ひとりの中の世界がそもそも、


てんでばらばらで時に相反しているものなのだ。

いうことと行うことが不一致かつずれていることなど、ほぼ100%に近く不一致なのだ。

言行一致というのは見果てぬ夢のかっこよさを持つから言われるだけだ。


あれは一歩でも近づけば自分をほめていい、不達目標だ。

一歩でも近づく前に、自己理解の前提として、


六十兆個の細胞は全くべつの意思を持ち寄った都合上の同居体でしかないことを、


よくわきまえておくことだ。




「おはようーー」


すずやかな声が部屋へはずんではいってきて、高橋と四郎はふた呼吸ほど遅れて「おはよう」と返事をした。ひょいっとのぞいた奈々瀬の笑顔が、いいようもなく表面的な笑顔になった。

いいようもなく表面的な笑顔のままで、奈々瀬は片手をにぎられている高橋と、高橋の手をぎゅっと握っている四郎、という風景を見てほほ笑んでいた。


高橋が、笑顔のままで、四郎に握られていた手指を、遅ればせながらあえて無造作にふりはらった。



「男はまっぴらごめんです」といつも言う四郎のうちがわで、


(なんや、つまらん……)

と、「奥の人」がこんどは離された四郎の手のかわりに、


ずぞぞーーっ


と、高橋の手へ灰色の大きな舌のようなものを近寄せようとして、


びしっ

とまるで音がするように、四郎によって一瞬で、まるけられ、たぐられ、奥に押し込まれた。


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高橋照美
「最大値の2割」ぐらいで構わないから、ご機嫌でいたい。いろいろあって、いろいろ重なって、とてもご機嫌でいられない時の「逃げ場」であってほしい。そういう書き物を書けたら幸せです。ありがとう!