昨今の監査業界についてみんなが思い思いに述べている事とかについて
監査はイケてないのか
グレイスの一件があってからというもの、監査人はなにをしていたんだ的な話とか、業界は今どうなってるんだ的な話がほそぼそと続いているようだ。少し前には、雑誌でも監査業界は依然としてブラックだとか、ネオ監査難民がどうしたとかいう話があって、それも話題になった。
もうこの手の話は、意見が出尽くした感もあって何もおれなんかが付け加えることはないのだが、様々な意見が出るというところに多少興味を持っていなくもない。そんなわけで、今日はなんかそういう話をサラッと頭の中で整理しておこうと思う。
どうして監査は粉飾を見抜けないのか論を巡る空気の変化
最近は大手監査法人がIPO前からの粉飾に気が付かない、みたいなやらかしがよく話題になって、昔とは少し雰囲気が変わってきたような感が無くはないので、それを概観しておこう。
昔と言っても、もう10年少々ぐらい前の話だが、そのころ話題だったのは、どっちかというと、監査の駆け込み寺的な問題だった。
あまり正確ではないかもしれないが、GCの開示や監査が必要となったのが、2003年(平成15年)ぐらいから。その直前ぐらいにエンロン、ワールドコムみたいなデカいやらかしがあって、21世紀に入ってから監査業界は色々変わっていった。そんな中で出てきたのが、GCがついてるようなクライアントを大手がバンバン切っていくような流れだ。
おれは正直、GCがついている会社が1年以内に倒産した例をほとんど見たことが無いので、あまり騒ぎ立てる事でもないような気がするのだが、なんにせよ世間一般からすると相当イメージが悪い。会社経営者も、「イメージはわかったけど、で、具体的にはなにが起こるわけ?」とはいかず、よくわからないままに、取り敢えずあの手この手でGCを回避しようとしてみたりとか、わけのわからない一般株主だけが損をするような増資を繰り返したりだとか、なんかそういうことになりがちだ。
まあ、一般投資家が食い物にされるといっても、そもそも死にそうな会社の株を握ってしまった段階で、遅かれ早かれそういう弱小一般株主は損をする運命にあったわけだから、これに懲りて株などやめるがよい、と思うだけだが、基本的にまっとうな社会人として生きていきたければそういうことはあまり大っぴらに言ってはいけないのである。何しろ、健全なマーケットは自由経済社会の重要なインフラなのだ。たぶんそうなんだろう。
ともかく、だいたいそういう会社は上場廃止基準の瀬戸際だったりもするので、GCはまあ別にいいやってなってても、債務超過とかそういうのは死に物狂いで回避しようとしたりするわけだ。あと、当初はGCに起因する意見不表明の実務もあったりしたので、多少今とは危機感が違ったりもした。なんにせよ、継続企業の前提に重要な疑義とか不確実性があるとか言っているのに、1年後もたいていの会社が生き残っているのを見るにつけて、おれは不確実性とは・・・そして宇宙とは・・・と世界のナゾに思いをはせるわけである。
そもそも、業績をよくするのが経営なのだから、業績がヤバいのはちゃんと計画をもって、考えて、まともに正面から突破すれば良いだけだろ、ということにもなりそうなのだが、貧乏な会社はそうはいかない。まず、自分の会社がヤバそうだ、となると、敏感な従業員というのはまっさきに逃亡するものである。リーマン直後ぐらいは、なかなかまともな待遇の転職がない、みたいなこともあって、どうしてこんな有能なやつがこんな会社に?という例も無くはなかったが、そういうのは例外的な状況である。ヤバめな会社というのは、基本的に、言っちゃあなんだが、他所に行く当てのないような連中か、そもそも会社の置かれている状況をよく呑み込めていないようなぼんやりした連中か、勘違いしている奴、そして、俗世のことはなんも気にしないような風変わりな連中(ちなみに、こういう人は実はわりと有能なことが多い。ただやる気はあまりない)などで構成されるようになる。経営プランなどそもそも立てれないのである。もちろん、役員もそうだ。
上場会社となるとなまじ監査役会とかがあったりするので、取り敢えず頭数を揃えないといけなくなる。ところが、役員に就任したらかえって評判が悪化して、他の仕事に差し支える、みたいな会社になってくると、まあ普通のまともな人というのは、一部の奇特な人を除いて、役員なんか引き受けないわけだ。そもそも給料もろくにもらえない。そんなこんなで、悲しい事ではあるが、ヤバめの上場会社というのは、基本的にあんまり能力の高くない、よくわかってない人たちにより構成されがちになる。だいたい、昔からずっと関わっているような、責任感が強い人が1人か2人いて、それでかろうじて会社の体をなしている、そんな感じだ。
そうなってくると、本業を抜群のアイデアで立て直す、みたいなのは夢のまた夢といったところで、まあせいぜい微妙に赤字を垂れ流しつつ緩やかに老いて死んでいく、みたいなのが関の山だ。エクセルキャンバスにどんな絵を描いたところで、実質的には無策に等しいのだから、ほぼ確実にダラダラ死んでいくような感じになる。
結局のところ、GCの検討で言う不確実性云々というのは、なぜかもともと出来が悪いとわかり切っている現実とは特に関係ないVR空間上の経営計画の不確実性を判定するという、奇妙で未来っぽい実務になってしまっている。それで、GCがついている会社が何年も生き残るという不可思議な現象が発生してしまうわけだ。基準上、対応策の合理性を検討する、みたいな、一見しても深く考えても結局はよくわからないルールが採用されているわけだが、おれが思うに、これがそもそもの間違いだ。対応策を検討しても、会社が事業活動を継続できるかどうかは実はよくわからないとおれは普通に思う。別に対応しなくても、会社はそんなに簡単につぶれないので、もともとあまり関係ないものなのだ。
実際には、会社が逃げの一手となった場合に、とどめを刺せるのは、第三者による破産申し立てぐらいになる。しかし、現実には、何かが回収できる見込みが全然ない場合コストが無駄になるので、だれもそんなアクションを取ったりしないわけだ。つまり、会社が文字通りつぶれるというのは、結構レアなケースで、過去にあった上場会社がいきなり死ぬ感じの経営破綻というのは、比較的まだ戦えそうなビジネスが残ってたり、逃がすべき有形無形のアセットがあるような、そうはいってもレベルの高い会社でだけ起こる事であって、犬も顧みないような、じわじわ死んでいって最終的にすべてを失うこととなってしまうゾンビ系企業には、はなから関係のない世界のお話なのである。
ともかく、もともと対応策を考える能力が無いやつが作った対応策みたいなものには何の意味もないので、ただただ経営者が無策に延命を図るとしたらどうなるか、というシナリオだけを検討すればよい。
さて、だらだら延命したとして、どうするのか。そこに登場するのが、マネーゲーマー(になりたいだけの人)たちだ。
増資というのはやり方によっては非常にナイスな使い方ができる。つまり、死にそうな会社というのは、つぶれそうだから非常に株が安い。大量に株を発行してコスパよく経営権を握ることが出来る。そのあと、なんかオーナーが紹介してきた会社を買うからー、みたいなよくわからない名目でキャッシュを抜いてしまえば、まずその時点でプラマイゼロだ。うまいこと言えば、有望な新規事業みたいなことでむしろ株が上がったりする。そもそも、資金が投入されて、取り敢えずつぶれずに済みそうです!みたいな話でも株があがったりもするので、あとは、市場でうまいこと売却すれば、手元資金なしで非常にコスパよく儲けられる。と、こういうわけである。要するに見せ金みたいなものなので、自己資金もいらない。一瞬誰かに借りればいいだけだ。ウマイ話だ!
もちろん、そういう馬鹿っぽいアイデアが存外にうまくいくというのは言うまでもなく稀なことで、例えば、おカネを入れるまでは可愛かった、必死でおんぼろ社長椅子にしがみついている感じだったやつが、カネが入った瞬間、全然言う事を聞かなくなり、六本木辺りで死ぬほど豪遊してたりとか、よくわからない友達を会社に連れてきて、めちゃくちゃ金を払ってたりとか、寄生虫めいた「顔が効く」が精いっぱいの「具体的には特に役に立たないコンサル」みたいなやつに、チューチュー巻き上げられたりとか、まあ様々な哀愁漂う事情により、だいたいは途中でカネが消えてなくなるわけだ。うまい話というのはなかなかないものである。
そういう投資家サイドのグッとくるワイルドサイドストーリーはともかくとしても、そもそもが、なんでもいいから急場をしのげればよい、つまり、なにひとつ本業をカイゼンさせようという話では無いわけなので、増資で資金を得たKUSO会社が行うようなナゾめいた投資というのは、ほぼ100%が焦げ付く運命にあるのだ。おれは、一回マジで営業外債権の貸倒実績率が100%になってしまった、という会社を見たことがあるのだが、「これは、貸付けた瞬間に引当という事でよいのでしょうか?」などと聞かれたので、「御社が貸付けたお金が一度でも回収されたことがあったでしょうか?そもそも、一般事業会社が本業に投資するより、他社にカネを貸したほうが儲かるというのは、文字どおりだとしたらとても恥ずかしいことで、おかしいと思うでしょう?たぶんそれは、貸付じゃなくて、取り上げられたか、手数料か、おおかたそんなところでしょうから、すぐ損失にするのが正しいのです」などと答えておいた。
ちなみに、おれはなんでもかんでも損失にするのがとにかく好きで、とあるテキトーな会社が、残高の大部分についてまともな説明をできなかったので、よくわかんなかったものを片っ端から損失に落としてやったことがあるのだが、いくらなんでも根拠なく落とし過ぎだといって、レヴューみたいなやつで大変怒られたことがある。いやまて。ほんとうに大事な資産だったら、会社が説明できないはずがないだろ、まともな情報が無いってのはそういうことだ、と抗弁したが、あまりに量が多かったために、信じてもらえなかったようだ。おれは間違ってないと思う。取り敢えず資産は悪だ。隙あらば落とすんだ、いいね?
さらに余談を言うと、そうやってなんでもかんでもバカスカ落としていると、中には確かに落とし過ぎることもあって、投資を清算すると意味不明に特別利益が上がりまくるという摩訶不思議アドベンチャーが発生することもある。これをおれは「ボトムライン経営」と名付け、経営の新たなスタンダードであると提唱するなど、要するに誤魔化したりしている。売上なんか無視しろ、当期利益がすべてだ。良い子は真似してはいけない。
まあ、そういうことはいい。ともかく、そんな感じで、露骨に売上をでっちあげるというのは実はそれほど多くはなかったのだが、架空投資みたいなのはめちゃくちゃ横行していた覚えがある。おれは100万回ぐらいそんな「会社に入れたお金をすぐ抜く方法ありませんかね?」といった、そびえたつKUSOみたいた相談を受けて、非常に婉曲かつ知的なボキャブラリーを駆使して、「馬鹿かおまえ」という事を伝えるのに腐心したものだ。
そこに、多少頭が回るやつが混ざるとと、新規事業を買ってきました!みたいな感じで友達におカネを払って、それをぐるっと回して売上で回収するみたいなことを思いついたりもする。これは大変厄介だ。そういうケースでは、おれはまたしても非常に婉曲かつ知的なボキャブラリーを駆使して「おまえらみたいな、なにひとつ深く考えてない会社が突然そんなうまく金儲けできるわけないだろ、不自然すぎるんじゃ!」という事を、諭さねばならなくなるのである。
おれは一度、調査に行った会社で、なんとなく前払費用あたりにそういうあやしい雰囲気を感じたので、担当者に「で、この中で本当の前払費用はどれなんですか?」とダイレクトに質問をしたところ、「なんてこと聞くんですか!」と若干抵抗されたが、結局は全部インチキの名残だったと白状されたことがある。会社にいる奴が、本当に商売ができそうなやつかどうか、というのはとても大事な視点だ。こいつには無理だなと思ったら、グイグイ詰めて問題ない。
ちょっと脱線がひどくて、いつまでも本題に行けなさそうになってきた。
ともかく、ヤバい会社というのはえてしてそういうものなので、当然に、そういう火種になりそうなお客様にはお引き取り願いましょう、となるのは、ある意味商売としては当然なわけである。極めて保守的であることに定評のあるデカい監査法人なんかは、なんとなくそうやってヤバそうな仕事からは速やかに逃亡してきた。だいたいそういうところは、減損とかそういう問題があると、落とせば債務超過ッスみたいなこともあったりするので、監査も佳境になってくると、よくわからないエクセルシートを見せられて、来年はめっちゃ黒字ッスみたいなナゾの説明を、怪しげなブローカー同席のもと延々聞かされるなど、まあ、監査をしていてもツライ目に合う可能性が非常に高いわけだ。
そんなわけで、そういった会社というのは、わりかしそういうのが平気な監査人のところに集まる。そうなると、当然粉飾めいたトラブルが発生する場所も集中するわけで、多くの「いいとこの会計士」からは、なんか不正会計みたいなものは、アジアの東の果てでだけ起こる局地的な現象だ、みたいなイメージを持たれるわけである。つまり、その当時にさんざん言われていたのは、「一部の不届き者」が真面目に監査をしないから、みんなが監査の厳格化めいた迷惑をこうむることになるのだ、というような論だった。ずいぶん、話が長くなったが、昔は不正会計みたいなものはそういうようなイメージのものだったように思う。まあ、それ自体は、別に間違ったことでもないのだが。
しかし、その後、規制当局はそういう駆け込み寺めいた事務所を順繰りに攻略してきた。具体的な名称は出さないが、今やそういう「気合の入った」事務所もずいぶん淘汰され、新規参入もあまり耳にしないようになった。リーマンショックが一段落してからというもの、脱監査法人会計士が、コンサルやらなんやらで、あまり仕事に困らなくなり、そういう「ヤバい」仕事にあまり手を出さなくなった、ということもあるように思う。
そんなこんなで、2010年代に入ってから、今度は、オリンパス、東芝といった、普通に誰でも知っているような会社がやらかす、という事件が起こった。この辺りから、アレ?という感じになってきたわけだ。平たく言うと、「ああ、あそこねw」みたいな事例の他に、全然マークしてないような普通っぽい会社の事案というのが増えてきた。それと同時に、ビッグ4みたいな監査法人のクライアントでのやらかし、みたいなのが、定期的に表に出てくるようになったのである。
まあ、役所の人員が増えたのが関係しているのかどうかは正直わからないのだが、ともかく、会社のモラルが極端に悪化したのでなければ、粉飾みたいなものは、今や、相当たくさんが発見されるような時代になった。そういうのは一つ言えそうだ。
昔だと、なんかヤバい気配みたいなのを感じると、大手はなりふり構わず逃亡し、そのあとを、気合の入った連中がワンデイ監査で乗り切る、みたいなケースも結構あったのだが、大手もようやく知らない奴にあとでひっくり返されるとそれはそれでマズいことになる、という事に気づいたのか、わりと降りずに最後までやるようになってきた。そういう変化もあったような気がする。それに関係するのかどうかわからないが、監査の指摘により過年度の取引が云々、みたいなのもよく目にするようになったように思う。
その結果、ヲチャーたちがどういう雰囲気でそういう事案を見るようになったかというと、どうも、粉飾みたいなものは、東アジアの島国のよくわからない不届きなならず者たちの社会で行われるのではなく、わりとどこでも普通に発生する可能性がある事件なのだ、というように、多少見方が変わってきた。そういう雰囲気を感じる昨今である。
そうして最近では、「また粉飾を見抜けなかった」みたいなテーマに関して、「そもそも、ほんきで隠されると粉飾の摘発は極めて困難なのである」といった教科書に書いてあるような論や、「本質を見ることが大事なのに、形式的な作業にリソースを奪われて、そこまでやり切れと言われても無理なのである」といった論が、「こんなことが見抜けないなんて、よっぽど適当にやってたんだな」という(案外根強い)論に混ざって、そこそこの量見られるようになってきた。そういう風に、いやおれだっていざとなったらできないかもしれないよな、という感じで、多くの人が捉えるようになったのは、それはそれでいい事なのではないかな、という事はまず思う。
ついでにIPO界隈について多少述べておくと、まあ知ってのとおり、IPOを目指しますみたいなベンチャー企業みたいな会社に、まともな管理みたいなものは基本的に存在しない。もうちょっと言うと、やってるふり、みたいなことは簡単にできてしまうのだが、ほんきで必要だと思ってやっていることが少ない、みたいなことだろうか。
ともかく、IPOの証券審査とか東証審査の項目は、「対策」が可能であるくらいには、テンプレ化しているようにおれは感じている。あまり多くは言わないが、テンプレを導入すれば、それでクリアできる、みたいな認識の人たちが、本当に上場会社として大事なことは何なのか、みたいなことを真剣に考えているのか、結構疑問に思うところである。
そういう、取り敢えず格好だけ何とかしておけばいい、みたいなノリは、若干KUSO会社にも通じるところがあって、ハリボテ感みたいなものは、共通する部分である。そこで問題なのは、IPOを目指す会社は、なまじ有能な人間が集まり、カネがあったりする、という事だ。
そうなってくると、AHOが見え見えの粉飾をするKUSO会社より、エリートがコストをかけて考え抜いたチャレンジをしてくるスタートアップ企業のほうが、監査をしようと思った場合、100倍やっかいなターゲットなのだ。おれはそう思う。
それでいて、社会を変えるみたいな大義名分もあったりして、たまにホンモノの会社が混ざっていたりもするので、なおのことたちが悪い。取り敢えず、IPO界隈の粉飾みたいなことについては、何しか形式を整えちゃったら、なんとかなっちゃうみたいな審査のありかた(内部監査調書はあるけど本当の意味での内部監査はしていない的な)とか、そういうIPO村の住人のカルチャーに病原があるような気がしてならない。つまり、みんなガバナンスというものをすごく形式的に捉えていて、本当に必要なことをやらない一方で、どうでもいいことは整備せよ、とまあ、よくある間違った方向に突き進んでいるような業界。そんな風に感じるところだ。
取り敢えず、IPOは会社をサポートできるやりがいのある仕事です、みたいなことについては、まるきりウソでもないとは思うが、そんなに甘いものではないと思うぞ、という事を言っておきたい。
監査はKUSOみたいな意味のない仕事なのか論について
これは、極東のストリート育ちのおれに言わせれば考えるまでもなく、「そんなことはないよ」という話なのだが、これも最近よく見かける話題になったように思う。
おれの持論はこれを読んで欲しい。少々パワープレイ時代の話みたいになってはいるが、本質はあまり変わらないように思う。
監査オワコン論の亜種だとおれが思うものとしては、監査法人を抜け出して、コンサルとかFASとか、ベンチャーCFO、果てはPEファンドへ、みたいなキャリアドリーム的な話題がある。これも、監査から抜け出したいという動機が背景に透けて見えて、直接的ではないが、暗に監査オワコン論みたいなものを示しているような気がするのだ。
さっきも言った通り、粉飾みたいな事案に巻き込まれるというのは、もはや対岸の火事とは言えない、業界人であれば、誰にでもありそうなことになりつつある。他人ごとではないのだ。そうなる原因はさておき、ともかく監査というのは、しんどくて、さらにアブナイ仕事なのだ。
ゼロ年代後半からの監査の「近代化」の波は、業界人に悲喜こもごも(主に悲)で迎えられた。最近忘れらている気もしなくもないが、実は、当初はあるべき姿で監査をしたい、みたいなヤング層の一定の支持みたいなものもあったのだ。
当時の仕上がったパートナーというのは、昼前にクライアントに現れて、昼飯をおごってもらったあと、ものすごい見当はずれのことを言って、夕方に早々に帰るという、実に働き方改革の徹底された連中であった。うらやましい反面、ああはなるまい、と思ったものである。どっちかというと、当時のヤング(ただし意識高めに限る)の不満は、「おれが勉強してきた監査論とかけ離れた、原始的な実務が横行している」ことに向けられたりしていた。ロクに考えずに前期調書をトレパクして、なんでそうするのか聞いてもサッパリ答えられない、そんな奴らは蔑まれ、ロジカルに滑舌良く監査論を諳んじるような今から思えばイタイ奴らが幅を効かせつつあった。いや、マジでそういう時代もあったんだよ。
そんな調子だったので、立会のテストカウントをサンップリングツールを回して100万回ほど行うみたいな話が、チームによっては飛び出したりもしたのだが、(おれは馬鹿げてると思ったが)なんかそれほどクソミソに言われているわけでもない、みたいなこともあったりしたのだ。
それから、間もなくおれは近代的な監査法人からいなくなったので、リアルな肌感みたいなのは正直よくわからないのだが、どうせ「ロジック」みたいなものが、知らぬうちに一人歩きし始めたのだろう。社会というのはそういうものである。いつしか「売上千本ノック」みたいな、ナゾの儀式めいた実務が執り行われたりするようになって、体力のないやつが次々とオフィスで倒れるという事態になったりもした。それでも、多くの今パートナーになったり、まさになろうとしている世代の連中は、「それはそれで理があることだから」というわけで、歯を食いしばって頑張ってきたりしたわけである。(なお、その手の連中は往々にしてワーカホリックなので、実際には歯を食いしばったりはしていないことが多い)
今、監査オワコン論とか、「無駄な調書が増えすぎて本質を見れていない」、「調書なんか書いてる暇があったら監査しろ(これは、おれがヤングな頃に実際言われたこともあるのだが)」、みたいな話に対して、「いや、やるべきことをやるのは当然だろ!」「調書に書いていない手続きはやってないのと同じだというのは、PROなら当然のことだ!」というようにリアクションするタイプの人は、そうやって「監査の近代化」めいた歴史を支えてきたタイプの人たちなんだろうと思う。
一方、監査の近代化みたいなものは、結局、人々をAIのように扱うことになる事でもある。昔から、これに気づいている人は一定数いて、大っぴらには勢いを増すモダニスト達の苛烈な弾圧に逆らえないので、だいたいはケータイの電波が入らない地下の酒場とかで語られることになるのだが、「決められたことを全部とりあえずやる事ではなく、自らの洞察に基づいて、本当に問題がありそうな部分だけを追求してこそPROの仕事だ(調書なんか二の次だ)」みたいな論は、アンダーグラウンドではしきりに言われてきたことである。今それが、トゥイッターのような、見えてるアンダーグラウンドでしきりに言われるようになってきていることに、おれは時代の転換の萌芽を感じないでもない。
この辺は、結局は、ある意味宗派の違いみたいな話であって、いずれにせよ、SUSHI食って帰る、みたいな働き方改革ガチ勢よりかはよっぽどまともに監査をしようとしている、という点ではグラフで比べるとそれほど差はない。おれは個人的には、後者が本質ではあると思うが、後者には、たまたま良心的なクライアントに巡り合ったので生き延びているだけの、SUSHI食いパートナーみたいな存在の隠れ蓑になってしまうという弱点があることにすぐ思い当たる。そういうやつらにはおよそ脳と言うべきものが搭載されていないので、考えて仕事をしろと言っても実は全くの無駄で、神秘的なサンプリングマシッーンの託宣に従って、感謝のバウチング千本ノックでもやらせておくほうが、よっぽど世界平和のためには有益なのだ。
この監査の形式論と本質論みたいなものの対立というのを考えていくと、リアルな現実ワールドでは監査人のスキルには個々のばらつきが大きいので、みんなにフィットする監査のやり方みたいなものは、多少無意味な作業が混ざろうが、鋭さが失われようが、結局はある程度形式的にピントのぼんやりとした標準手続きをひと通りやる、みたいなことにしていかざるを得ない、というように、一周回ってトラッドな結論にたどり着く事になるわけである。
形式論者に言わせると、丁寧なリスクアプローチに基づいて周到にプランニングすれば、無駄な手続きなど存在するわけがない、みたいな話になるわけだが、まあそれこそ、いわゆる「言うは易し」というやつである。それができる(残念ながら一握りの)人間だけで運営できるほど、大手は小さくないし、仕事も少なくない。なによりそれは、手続きを実行するスタッフを機械のように扱う事であって、監査実務がどうこう以前に、組織の運営上、多くのソーシャルな問題を生み出すであろうことは想像に難くない。誰しも、自分をAIのようには扱ってほしくないものである。
そう、結局、形式論・・・つまり「近代化」の行きつく先は、人間を交換可能な機械のように扱う事になる世界なのである。それにより、スタッフはちっともこの仕事が楽しくなく、実際に営業を担当したり、クライアントとのリレーションを担当したり、最終的に意見を出したりといったポジションだと、監査楽しい、みたいな妙な分断みたいなものまで生じることになる。これが、インターネットでよく見かける、監査はつまらないのかどうなのかに対する意見の不一致の正体なのではないかとおれは思っている。
こういう、遅れてきたテイラーイズムめいた科学的管理のことを、おれは心の中で「AIの活用」つまり、人間がAIのようになっていく現象と揶揄しているわけなのだが、その結果として、作業は合理化してもなんかストレスフルでうすらキッツイ、みたいな状況が発生するのは、考えるまでもなく、ごく自然なことだろうと思う。それをブラックと呼ぶかどうかは人によるのだろう。「合理化が進むも、なおも課題」みたいなのは、実は合理化が進んできたことによって、「やりがい」とかそういうものが感じられなくなり、プレッシャーだけが残されている、という新たな問題が過去からの過重労働問題と混ざりあって、よくわからないけど醸しだされているオワコンめいたムード、みたいなものがその正体なんじゃないかと思う。
いずれにせよ、M&Aの広がりみたいなことで、FAS的な隣接業界が結構元気にやっている以上、作業の合理化によって発生する「監査つまんないんだけど」、みたいな空気と、いつ何時自分も粉飾事案の登場人物になるかわからない、みたいな漠然とした不安と失望みたいなものによって、ヤングたちが重くなりすぎた六法をおいて監査部屋を去っていくのは当然と言えば当然の流れである。
会計士試験に合格するとまずは監査法人に入るものだ、みたいな歴史もあって、人材のリテンションのような部分について非常にうといのが監査法人というものである。合格者が若年齢化し、転職が当たり前になっていく昨今、今後は、そこらをちゃんと工夫して魅力的な現場を作っていかないと、なかなかきついだろうな、という事は思う。ともかく人のやることを分解して合理化することはひと通りやったのだろうから、今度は人を人という不合理な野生の存在として、あるがままに捉え、モチベートしていくことが必要なんじゃないだろうか。
個人的には、職場を面白くできるかどうかは、自分がどう遊びを見出していくかということが最も大事だという持論があるので、つまんねー、みたいな文句だけ言ってるやつは、それはそれでKUSOなんだろうと思ってはいるが、まあ、おれのそういった「仕事がつまらないなら面白くすればいいじゃない」的な部分は、昔から「世の中のほとんどのやつはおまえみたいな人間じゃないんだから、後輩に余計な指導をするな」と怒られてきたところなので、あまり言わないでおこう。
ひとつ思うのは、さっき言ったように、おれがヤングだったころにいた監査法人の環境というのは、(ソロバンマスターのような信じられないぐらい有能なジジイもいたが)年中SUSHIを食ってるパートナーとか、年功序列パワーにより、なにひとつマネジメントできないままマネジャーなったZAKO、みたい存在であふれていたため、基本的にスタッフ層には、おれたちが仕事をちゃんとやるんだ、みたいな空気があって、取り敢えず上のいう事をガン無視することになんの問題もない、そんな感じだった(まあ、おれのいた部署は頭のおかしいやつが多い事で有名だったので、特殊なのかも知れないが)。ところが、今主流となっているパートナーは、そういう環境から頭角を現し「近代化」の時代を生き抜いてきた、結構優秀な人間なのだ。わりと過去に自分がやってきたことに自負があったりもするだろう。
そういう人たちが根っから悪いわけではないのだが、結果的に、上が有能で、滑舌よくロジカルにやるべき仕事をちゃんと差配していると、なんか無視して好きに遊ぶような余地もなかったりするのかなー、みたいなことは多少思わなくもない。あと、今に至るまでに、手取り足取り指示しないと動かないヤングがスタッフ席にあふれていた時代があったりとか、まあそういう不幸な経緯も色々あったようにも思う。
それと忘れてはいけないのは、「とにかくあんまり考えたくない」という真剣なアンチ労働主義者の存在である。労働と対価のコスパについて真剣に考えると、いかに労働を減らして対価を得るか、つまり給料泥棒というものが人類の到達点、至高である、となる。努力して成功することを喜ぶなどというのは、未開人のやることなのだ。人類は、一日中ムーピーゲームとかそういうのをやっておればいいのである。そうした未来的孤高の立場からすると、頭を使うなどという、人類の活動の中でもかなりカロリーを消費する類のエコでない行為は、全力で忌避すべき愚かな行いであって、そういうのは馬鹿にやらせておけば良い、とこうなるわけだ。「考える監査」などもってのほかだ。ただ感謝せよ。アザス!アザス!
残念ながら、ほとんどはやり方がまずくて、組織内で冷や飯を食わされる羽目になるわけだが、本当に才能に恵まれた一部の人間が、人に好かれる事を徹底するなどの方法で、この境地に到達する場合がある。実は何もしていないのに、いるだけでありがたがられる、なぜか無くてはならない存在・・・人々の精神的支柱・・・すなわち、KAMIつまりGOD・・・。そういうポジションにたどり着ける可能性を持ったスタンスのひとつが、徹底したアンチ労働イズムなのだ。彼らの向こう側には人類の未来が見える。
こういう選ばれし未来人材を惹きつけてプールしようと思うと、日ごろの仕事というものが頭を使うようなものであってはいけないのかも知れない。そういう意味では、スタッフワークを徹底的にマック以上にマックジョブ化するという方向性は、とびぬけた英雄を生み出すための土壌としては、優れている面もないではない。まあ、そういうレベルでない、単にサボりたいだけの怠慢なタイプの人間にとっても居心地が良いという点では、科学的に管理された標準的監査実務というのは、実は多くの人にとって受け入れやすいPOPなものだったりするのかもしれない。
そういう未来のことはさておき、待遇とかそういう事だけでは無くて、もうちょっと、のびのびと働くにはどうしたらいいのか、みたいな目先の現代のことを真剣に考えていかないと、業界全体として厳しいんじゃないのかな、という事は言っておきたい。これは、より厳しい取り締まり、みたいなことでは解決できない問題だろう。何度も言うが、それは結局人間をAI化する事であって、立派で意欲のある人材を育てる事にはあまりつながらないのだ。
取り敢えず、会計士のやる仕事の中で、監査というのはおれの知る限りかなり難しい仕事なので、それにチャレンジすることは、それだけで立派な事なんだよ、ということは知っておいてもらいたい。まあ、それだけに甘くみちゃいけないってことでもあるんだが。
監査はそんなに簡単に「近代化」できるような類のものではない。そもそも、監査の「近代化」が、監査の有効性について本当にポジティブな影響を与えているのか、っていう効果の測定もちゃんとやってないでしょ。たぶん、そこをまずはっきりさせたほうが良いんじゃないかと思う。これは他の組織とか社会全体にとっても言える事かな。
そんなお話。