言葉に色をつけようとして、noteが書けないウホウホするゴリラ
本当ならば「noteが書けないとき」というテーマは、そのあいだ何をするか、何をしないかを書くのが本筋なんだろう。しかし、今やそれすらも書けない自分に辟易する。何をしないか、それを考えるのは有名なエッセンシャル思考であろうが、それすらも出来ない。
このごろnoteが素直に書けない。
その理由は言葉の闇の中でグルグルまわっているから。この言葉の闇が問題で、なんとなく自分の言葉の色が見えてこない。こんな時は読書に限るということで辻邦生の「小説への序章」を読んでいる。その中で幼児について書かれていて、彼らの中には通時性がなく、あとから記憶によって整理されていくことが書かれていている。
色と通時性
この2つが連動して文章の構成がしっかりなされるが、今の自分には全くできない。色もなければ、通時性もない。物語としても、小説としても、そしてnoteという形にもならない。それは悲しいことなのか。それとも単に頭が止まっているだけなのか。
こんな時ぼくは原始人、いやゴリラになりたくなる。愛を、生を、死を声高らかに具体的に叫びたくなる。なんでこんな抽象性の高い文章を書いているのか、自分でもさっばり分からない。文章としての繋がりを考えるのではなく、ただ単語を叫びたくなる。
出来るとすれば読書だけだ。アウトプットなんてケンチャナヨ、インプットするしか方法が見えてこない。言葉の闇から抜け出すには。できるだけ難しい本が良い。頭の中から自分の言葉を追い出すには。
これらの言葉の繋がりがナラティブになれば素敵だ。自分にはそう思えてくる。透明度の高い言葉なんていらない。自分の言葉には色があると読んでくれた人に思って貰えたなら、それで十分だ。
だが、ここで筆を置いたら言葉が出ないとウホウホするゴリラと一緒である。タロットに何が悪いのか聞いてみることにする。人類と神話の英智を借りてみようというわけだ。
タロットに聞いてみよう
戦車のリバース。まだスピードをあげるときでは無い。恋人のストレート。何に焦点を当てるのかで結果が変わる。太陽のリバース。陽の下へでるにはまだ距離がある。
どうやら言葉の闇はまだまだ続くらしい。その中でも明るい兆しは、言葉の組み合わせで良きこともあるようだ。手の中に残っている言葉を駆使することで、もがきようがまだあるのはラッキーなことである。出口は見えない。しかも太陽の陽の光はまだ遠い。言葉に関してウホウホするゴリラ状態は続くようだが、それもまた1つの「noteが書けないとき」に当たると諦めよう。そして、他の人の冷静な文章でも読んで頭の中を整理しよう。これも人生のエチュードだ。