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自己開示という名のダイビング

新しいSNSに登録した。その世界は、まるで広大な海のようだった。波のように流れていく投稿、無数にきらめくアカウント、そして何よりも「自己開示」が大切だという文化。私は、その海の浅瀬で足をバシャバシャさせながら立ちすくんでいた。

自己開示が大切。そう言われても、簡単にはいかない。私には自己開示をためらう理由が三つあった。

理由その一:恥ずかしいという呪縛

自己開示とは、言ってしまえば裸になることだ。服を脱ぎ、ありのままの自分を見せる。そんな勇気、私にはない。

誰かが「これが私です!」と堂々と語る投稿を見るたび、まるで舞台の上に立つ役者を見ている気分になる。彼らは光を浴び、観客の目をまっすぐに見つめている。私はといえば、その舞台袖で気配を消しているタイプだ。

「こんなことを言ったら変に思われるんじゃないか」
「過去の自分を晒すなんて、なんだか気恥ずかしい」

まるで、プールの高飛び込み台の上に立っているかのようだ。下を覗けば、深く冷たい水が待ち構えている。でも、飛ばなければ泳ぐことすらできない。

理由その二:自分の輪郭がわからない

もう一つの問題は、自分が何をできるのかがよくわからないことだ。

SNSの海には、自信満々に「私の強みはこれです!」と語る人がたくさんいる。イラストが得意な人、経営のノウハウを持っている人、文章で人を魅了できる人。それに比べて、私は自分の何が武器なのか、はっきりしない。

それはまるで、霧の中で自分の姿を探すようなものだ。どこかに自分の輪郭はあるはずなのに、手を伸ばしてもはっきりとつかめない。

「得意なことを発信しましょう」と言われても、そもそも何が得意なのかわからない。私が投稿すべきことは何なのか? 自分にしか話せないことは何なのか?

でも、考えてみれば、この「わからなさ」こそがスタートラインなのかもしれない。霧の中を手探りで進むことで、少しずつ形が見えてくるのではないか。

理由その三:開示の仕方がわからない

最後に、そもそも「自己開示のやり方」がわからないという問題がある。

自己開示が得意な人は、まるでベテランの料理人のようだ。彼らは素材(自分の経験)を巧みに切り分け、味付けし、盛り付けて提供する。それを受け取った人は、「なるほど、あなたはこういう人なのですね」と、すんなり理解する。

一方の私は、料理の仕方すら知らない新米シェフ。材料はある(人生の経験)けれど、どう調理すればいいのかわからない。生のまま出してしまえば、味が伝わらないし、かといって凝りすぎても消化不良を起こしてしまう。

結局のところ、「どう話せばいいのか」がわからないから、私は黙ってしまうのだ。

それでも、とにかくやってみる

この三つの理由を並べてみると、もう自己開示なんて無理なんじゃないか、と思えてくる。でも、それでも私は飛び込んでみようと思う。

なぜなら、結局のところ、泳ぎ方は水の中でしか学べないからだ。

最初はぎこちなくても、短い投稿でもいいから何かを発信してみる。恥ずかしくても、ほんの少しだけ勇気を出してみる。自分の輪郭がはっきりしなくても、とにかく形になりそうなものを言葉にしてみる。そして、うまく伝わらなくても、繰り返し試してみる。

自己開示は、一度のジャンプで完結するものではなく、何度も飛び込むうちに慣れていくものなのかもしれない。

新しいSNSの海で、私はまだ足をバタつかせている。でも、少しずつ水に慣れ、やがては自由に泳げるようになると信じて。


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