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この夏は大丈夫だと思ったの【1日1本エッセイ61本目】
この夏、私は過去の経験から学び、鬱との共存を試みました。胃のトラブルが散発的に現れましたが、それでも鬱の感情に襲われることはほとんどありませんでした。ある意味、夏の訪れは新たな希望を抱かせてくれるものと考えていました。
しかし、今朝の目覚めは私に違う現実を突きつけました。まるで身体が重く、頭がどんよりと重たい布で包まれているような感覚に襲われました。
やる気やエネルギーが何処かへ消えてしまい、その代わりに鬱の波が私に襲いかかってきたのです。
この時、私は日常のルーティンを遂行することを放棄し、代わりに休息の日としました。鬱の無気力感に打ち勝つためには、時には自分を守るために一歩引いて休むことも必要だという教訓を再び受けました。
鬱で苦しんだ哲学者の中で、有名な例としてはフリードリッヒ・ニーチェが挙げられます。ニーチェは19世紀のドイツの哲学者で、その著作で倫理学や宗教についての深い考察を行いましたが、後半生には鬱病や精神的な苦悩に苦しむことがありました。
彼は1889年に精神的な崩壊を経験し、その後は長い間、身体的および精神的な健康を取り戻すことができませんでした。
ニーチェの鬱病と苦悩は彼の哲学にも影響を与え、彼の後期の著作には孤独や苦しみ、人間の存在の困難に対する洞察が表れています。彼の思考はしばしば「ニヒリズム」と関連づけられ、人生の意味や価値についての問いに向き合ったものでした。
ニーチェの例は、哲学者としての深い思索と同時に、鬱という精神的な苦しみにどのように向き合ったかを考える際の興味深い事例です。
鬱が持つ最も恐ろしい側面の一つは、その無気力感です。この感覚は、何事においても行動することが困難であり、すべてが重荷と感じられます。時には、この無気力感に囚われ、生きる意欲まで失ってしまうことがあります。今回の経験は、その辛さを改めて思い知らせてくれました。
鬱の波に飲み込まれそうになっても、どうにかして踏みとどまり、前に進む決意を持ち続けなければなりません。生きることに対する希望を保ち、闘い続ける覚悟が必要です。
この夏、そしてこれからの季節、私は鬱との闘いを決して放棄せず、希望を抱いて前に進んでいくことを選びました。
それにしてもこの夏は大丈夫だと思ったのになぁ。そうはうまくいかなかった。鬱の煩わしいところだ。