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【捜索願】人間臭さはどこに消えた?
妻と2泊3日のプチ旅をしてきた。寒波到来の影響で、選択肢を、グワーッと狭めることとなってしまったが、それはそれ。予定外を楽しむことができた。結局は、手元にスマートフォンがあれば、なんとかなってしまう。楽しそうなスポットや、グルメ情報をサクッと手に入れることができるなんて便利の極みだ。
だが冷静になると、確かに便利なのだが、何か違う気もする。機械的に手にした及第点ばかりで「人間臭さを失っているのではないか」。そんなことをふと思い危機感を覚えた。便利は使うもの。便利に使われてはいけない。さもなければ人間臭さを奪われてしまうのではないか。人間臭さは便利のなかへと消えていく。
機械的にスマートフォンで調べれば、良くも悪くも想定内のことしか起こらない。なんとなく先が予想できてしまうのは、偶然の出会いを遠ざけていることになる。
ふり幅を小さく抑えることは無難だ。無難を否定するわけではなく、むしろ好きだ。だが、ふり幅が大きいほうが、記憶に残りやすいという事実がある。大成功か大失敗か。そんな偶然の2択に直面する場があってもおもしろい。失敗はその瞬間で切り取れば、悲壮感に包まれることになる。しかし時がたてば酒のツマミとなり、笑い話になるものだ。そこに人間臭さが宿るのではないか。
実際今回の旅でもふらりと立ち寄った、地域に愛されているであろう公園を散歩したこと。これが案外記憶に残っている。もちろん、晴天と富士山という「特別」が添えられていた影響はあるのだが、やったことは妻と偶然見つけた公園を散歩した。これだけだ。
もう一つは大室山での出来事だ。大室山は静岡県伊東市にある火山で、すり鉢状の火口周りを散歩できる。しかしこの日は生憎の暴風と寒波の影響で、山頂までリフトで行くことはできたのだが、火口周りの散策ができなかった。
暴風に揺られるリフト(たまに止まる)、肌に突き刺さるような寒さ。しかも頂上の散策が中止されていることを我々は知らなかった。
想像してほしい。極寒のなかリフトにのり、暴風に一抹の不安を感じつつ、一人1,000円を支払ったが散策もできず、滞在時間5分で折り返すという残念な結果を。成功か失敗かで言えば、間違いなく失敗だ。でもこの「できなかったこと」「辛かったこと」のほうが記憶に残るし、笑い話になるから不思議だ。
番外編で言えば、清水の商店街で見つけた八百屋さんと魚屋さんが激安だった。妻が嬉しそうに買い物をしていたことも記憶に残る。
この「公園での散歩」、「散策できなかった大室山」、「商店街での買い物」は、便利に頼らず偶然的であり、人間臭く楽しんだからこそ記憶に残ったのではないか。
スマートフォンを活用し、2泊3日の期間に美味しいものを食べ、有名スポットにも立ち寄った。もちろんトータル的に楽しい旅だったと満足をしている。にも関わらず、パッと思い出せるのがこれくらいとは我ながら興味深い。やはり良いか悪いではなく、経験を記憶に刻めることが人間の持ち味だ。その為には人間臭くある必要がある。
「迷う」の質も機械的であることが増えたように思う。初めて訪れる街の風景。屋根の形や色。寂れてはいるが、どこかエネルギーに包まれる商店街。自然と暮らしの境界線。視線を上げればそんな環境が広がっているにもかかわらず、旅中に私が小さな長方形の電子機器に注いだ時間は相当なものだ。外れを引かないよう「どこに行くべきか」と迷っている。この機械的な「迷い」は必要なのか。
どうして答えを求めてしまうのだろう。初めての土地を五感で感じ、偶然を楽しみ、迷ったら現地の人に聞けばよい。答えなんてそこまで重要ではないし、誰かの好みで作られた「星の数」なんて、もっとどうでもよいはずなのに。
せっかく与えられた便利を使うことは大事。わざわざ遠ざける必要はない。Googleマップが使えなくなったらと思うとゾッとする。それほど生活に浸透している便利さを手放すなんてことはあり得ない。そうは分かっていても、局所的には「何か」が違う。
なんとなく結論が見えてきた。人間臭さを維持するには「便利との付き合い方が大事だよね」ということのようだ。「便利に使われるな、便利を乗りこなせ。さもなければ人間臭さを奪われるぞ」。こういうことだ。
この思考は40代後半のおじさん特有のものかもしれない。「あの頃の不便は良かった」なんてことは思わない。むしろ逆で、便利にどっぷりと浸かったおじさんだという自負もある。だが、潜在的に「あの頃」の人間臭さに引き寄せられている可能性も否めない。
実はnoteでこっそりと人間臭さを探している。自身の思考整理という人間臭さに、40代後半の加齢臭を添えて文字を羅列する日々。同時に、誰かの人間臭さを捜索している。
見出し、目次、結論ファースト等でテンプレ化された作品に今はあまり興味がない。短文でも、無理やり書き上げた長文でも、分かりにくくても、誤字脱字があろうとも、人間臭さがある文章が面白い。
今後AIの精度はますます上がり、歪のある文章が減っていくのだろう。だからこそ不器用に日常や、出来事を綴った文章に新鮮さを感じ引き付けられてしまう。テンプレ文章はAIに任せておけばよい。人間臭さくいこう。