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Vol.8 藤原氏①~鎌足の登場

こんにちは。TKです。今日からは、藤原氏の歴史について書いていきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

1.鎌足、運命の出会い

藤原氏の歴史は、中臣氏と呼ばれる神官の一族に生まれた中臣鎌足から始まります。

彼の幼少時代については良く分かっていませんが、記録によると学問に優れていたとされており、将来的には神官として朝廷に入る予定だったようです。

ところが、彼は神官よりも政治家としての人生を取ろうとしており、そのような中で彼は葛城王子(後の天智天皇)と出会うのです。鎌足はやがて葛城王子に高く買われ、王子の側近として活動するようになります。そして、蘇我氏排除を企む葛城王子の右腕として乙巳の変(大化の改新)を迎えるのです。

2.乙巳の変~内臣へ

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乙巳の変の後、葛城王子は中大兄皇子と名前を変え、まもなく次期大王としての地位を固めます。そして、彼の右腕としてクーデターに参加した鎌足は内臣(内大臣)に任じられ、大王の最高顧問とも言える立場に就きます。

その後はしばらく鎌足の記録は出てこなくなるのですが、中大兄皇子の下で白村江の戦いなどの外交問題や国防問題に対応していたようです。そして中大兄皇子が天智天皇として即位した後は、律令の制定などにも関わっていたとも考えられています。もしかしたら、律令体制の基礎を造ったのは鎌足なのかもしれませんね。

3.「藤原氏」の誕生

天智天皇が即位して8年目の669年、鎌足は病に倒れます。死が迫った鎌足に天智天皇は、これまでの働きに報いるためなのか、鎌足に織冠と太政大臣の地位を与えたと言われています。
さらに、ここで天智天皇は鎌足に「藤原」という姓を与えます。こうして、中臣鎌足は藤原鎌足と名前を変えるのでした。日本史に藤原氏が産まれた瞬間です。

その後鎌足はまもなくこの世を去ります。後に鎌足の死を聴いた天智天皇は深く悲しんだと言われています。

4.その後

こうして、藤原氏の基礎を作り上げた鎌足。しかし、鎌足については後に作られた日本書紀と藤氏家伝のみにしか記録がなく、彼の本当の人物像についてはよく分かっていないことも多いのです。

ちなみに、藤原というのは奈良県にある飛鳥地方の地名に由来すると言われています。でも、藤という植物が他の木に寄生して生きていく植物ということと藤原氏の歴史を並べて見ると、なんとなく不思議な感じがしてきます。


本日もここまで読んでいただき、ありがとうございました。










































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