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学校に行く方法【制作メモ】

もしそこへ行けたとしても、そこにいる間は自分にこういう悩みがあったことを考えなくなってしまう。結局そこへは行けないとしたら、こんなことは考えるだけ無駄になってしまう。今この瞬間も何かを望んでいるはずの自分が、その時になれば誰に気づかれることもなく、なかったことにされてしまうのがつらかった。

待ち合わせ【創作】

 最近書いた小説の中で、こんな文章を書いた。デートの約束をしたはいいものの、当日になって出かけるのが憂鬱になった主人公の心象として。小説全体は自分の経験も混じっているけれど、この文章の部分だけは、ある友人から聞いたことがもとになっている。ただ、その人は小説とは違って、学校に行くことに対してこう感じていたらしい。それがこの小説を書こうと思ったきっかけでもあったので、そんなふうに学校へ行きにくくなってしまった人について少し考えたことを、小説へのメモとして残しておきたい。

理由はなくても行きたくない?

 学校に行きたくないということを聞かされたのは、その人が高3のとき。受験勉強を自分が少し頼まれて見ていたので、休憩時間によくこんな話をされた。とは言っても、上の文章のようなことを整理して話されたのではなかったし、そもそも学校に行くのが嫌になるような原因は、いくら聞いてもその人にはないみたいだった。
(例えば成績がよくないとか、友達とうまく行ってないとか、やりたいことが周囲に理解されないとか)

 それで話を聞いて行くうちに、その人は純粋に気持の上でひっかかりがあることで学校に行けない気持になったんじゃないかと思った。
(その人は「理由はなくても行きたくない気持ちになるってこと?」と聞いても、「そうかもしれない」けど「違うかもしれない」、自分でも「よくわからない」と言っていたが)

 だから上の文章は、学校に行きたくない理由を聞く度にいつでも戻ってきてしまう出発点のようなところを、自分が(勝手に)言葉にしてみたというのが近い。でも、ある人の気持にだけ何かをしたくない思いがあって、それが本当にできなくなるということはあるのだろうか。そうだとしたら、それは自分や周囲を振り返ってみてもちょっと見当たらない経験だった。

「自分がない」という感覚

 その人に限らず、学校に行けない人の話を見聞きする度に自分が想像するのは、そこにいる間は「自分がない」という感覚のことだ。ある場所に行くのに何か嫌なイメージがあるときは、大抵そこで会ったり話したりする人に自分が受け入れられないことを想像するからではないだろうか。自分とは違う人達が目的のわからない会話をしている、そして自分にはそんな人達にある何かが欠けている。その何かを持つまでは自分はそこへは行けないという気持。そんな感覚を自分もよく感じることがある。

 でも、本当にそんな場所へ行って自分が自分でなくなるようなことはなくて、現実は悪い空想といい空想の中間ぐらいだ。
(それに「自分がない」ようなことは大抵家で一人で考えることだから。)
現実は、その場所へ行っても自分が「自分」でいられる条件のようなものがあるんじゃなくて、とにかくそこへ行ってしまえばその日は行ったことになる、それだけだと思う。だから一人で色々と考えてしまって行きたい場所へ行けなくなったり、行った方がいい場所に行ってもいいのか悩んでしまったりするのは、外へ出ていくと「自分がない」という感覚を強く感じる人が多いのではないかという気がするのだ。

 学校に行っても「自分がない」(自分というものが認められていない)という感覚があるときにまず考えるのは、どこへ行っても「自分」でいられるようなものを持ちたいということだと思う(実際に自分(筆者)はそうだった)。自分を表せる何かを作ることや、自分だけの考えを持つことや、自分が帰って行ける場所を持つこと。でも、それの難しいところは、それが自分の中でどれだけはっきりとしていても、生きている人を前にして認めてもらえなければ意味がないところだ。「自分」を作るにも、「自分」の居場所を持つにも、自分と向き合うのではなくて他の人の前で、小さなことから認めてもらうのがむしろ近道なのだと思う。それはきっと誰かに名前を呼んでもらうぐらいのことでもいいのだ。

考える時間の苦しさ

 それに、生徒たちが学校に行くのは、授業を聞くためではなくて(もちろん授業があるから行かなきゃ行けないのだけど)、部活をしたり友達と会ったりするためなのが普通だと思う。友達と話すのは学校に行かなくてもできるけれど、やはり学校で友達と過ごす時間はそこにしかない時間だし、部活にせよ他の活動にせよ、学生(特に高校生)の間しかできないことが確かに存在する。学校に通うのはそうした関係や活動への参加証で、しかも大学以降のそうしたものに比べれば極めて手に入りやすい参加証なのだと思う(場合によっては保健室登校などの方法も含めて)。高校までの勉強はそのための口実のようなもので、他の好きなことの仲間に出会うための場所だと考えれば、学校に行けないことはもったいないことに思えないだろうか。
(ただしこの点については、その友人は自分と同じで、部活は入っていたけれど、授業や勉強の方が学校に行く楽しみになるような人だった。だからなおさら学校に行きたくない理由はわからなかった)

 今これを書きながら思い出すのは、この話を聞いた当時の自分が、こんな話をするその人が結局そこまで休みがちだったわけではないことを聞いて、(行きたくないのが嘘ではないにしても)あまり深刻なものではないんだと安心してしまったことだ。ある意味では、その人の話を学校にいない間のわがままだと思っていたわけで、その人が一人で考える時間の苦しさがあったはずだということに気がつかなかった。始めに言ったような小説を書いたのは、その頃その人の悩みを愚痴だと思って聞いていただけだった自分に、人が口にする悩みの原因がわからなかったとしても、その悩みを口にさせている辛さはわかってあげられるはずだ、ということを気づかせたかったからでもある。

 こんなことをよく話してくれた人もちゃんと第一志望に通って、今は立派に(?)大学生活を送っている。もう昔のような行きにくさを感じていなければいいのだが、それにしても、どうして友だちや両親にではなく、その人の学校での過ごし方を知らない自分にこの話をしてくれたのか、それは今になってもわからない。


(この文章は、小説に書ききれなかった背景を理解してもらうために、読んでくれた人へ、またこの文章から小説に興味を持ってくれるかも知れない人へ向けて書いた、蛇足のようなメモである。)

Artwork: Dikkie houdt een krant omhoog in een klaslokaal - 1947 - Rijksmuseum, Netherlands - Public Domain.
https://www.europeana.eu/item/90402/RP_T_2015_41_1485

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