運命、共有【雑記】

 卒論(年明け〆切)をほったらかして、この文章を書いています。これを誰かに読んでもらいたいと思うからです。

 これを誰かに読んでもらいたいと思うのは、今書いている卒論が、間に合わずに出せなかったときのことを考えるからです。今、私は大学の4年生で、無事に卒論が出せれば来年の3月に卒業し、無事に院試が通れば来年の4月に進学して、もう2年研究(勉強)をします。だから、これを書いている、今年の12月の時点では、来年どうなっているのか、一つも決まっていないんです。

 一つも決まっていない来年のことは、想像すると恐ろしくなります。
「自分がそこにいてはならない時間」というものを、想像したことがありますか? 私は、卒論が書けないかもしれない、院試に通らないかもしれないと思って、初めてそれを想像しました。もしそのどちらかでも失敗すれば、来年は、そこにいてはならないのだと。

「そこにいてはならない」という恐怖は、なんというのか、自分が誰にも必要とされていないこと、そしてそういう一人の人間が生きて行ける保証はないことの、逃れられない重さです。それは、人は誰だって、他の誰かに必要とされているからこそ、今生きているのが当たり前のことでしょう。でも私には、それは本当に恐ろしい考えでした。

 運命共同体、という言葉があります。 「運命をともにすることを相互に了解し合った複数の個人」という説明が、日本国語大辞典に載っています。人は誰でも、自分一人との運命共同体なのかもしれません。でも、自分一人の運命を、自分一人が知って、その運命と一緒に一人のままで消えてしまったら? それが怖くなって、思ったんです。運命は、ともにすることができなくても、人を知ることは、その人の運命を自分のどこかに書き込むことなのではないのか、と。運命、共有、したいです。

 そうは言っても、取り立てて話すこともない、短い運命なんです。大学へ入って、それまで真面目だと思っていた自分が人と話せないのが、ただの怠慢だったことに気がついて。就職して働くことが考えられなくて、大学院の進路に逃げ込んで。進学する理由の、未練だった大学の間の勉強も、自分で満足できるような場所にはなかったことを知って。本当に恥ずかしくなるぐらい、どこにでもある、学生気分を抜け出せない大学生なんだと思います。

 何もできると思えないんです。人と話せる趣味もないし、少しは得意だった勉強も、今は専攻になってしまったし。研究をして、教育者になれるとも思えないし。このnoteに書こうと思った小説も、まだ一つしか書けていないし。

 一番いけないのは、自分のどこを直そうとしても、それを人に伝えられないことなんです。大学生向けの健康調査に、心配事を相談できる人が何人いる、とか、「家族」「友達」「先輩」とかの中から選ばせる質問がありますよね。あれって、すごく残酷だと思うんです。自分の大切なことを相談できる人が、いないことを思い出させられて、その回答がまた何千人の大学生の「傾向」の中の、一つの点になってゆく。

 でも、「このままじゃいけない」と思ったことを、人に言うことができなくても、ここまで読んでくれたあなたが、それを知っていてくれるなら(「誰か」と思っていたのが「あなた」になりました)、まだ何かしてみたいと思うんです。小説が、まだたくさん書きたいんです。詩も編んでみたいし(たまたま一つ、何度も口に唱えて遊ぶ詩ができてしまったので)、読んだ本の紹介も書いてみたい。卒論も、好きな作家を納得行くまで書いてみたい。色々な場所に行って、写真をたくさん撮って、その話を聞いてほしい。

 落とし所がわからなくなったけど、こんな文章でも、自分にも何かが書けることを確かめたかったような気がします。今日は、卒論が564字だけ書けました。この文章が(書き終わって確かめたら)1664字でした。明日は一日家に居ようと思います。

 自分がしたいと思っていることを、知っている人に聞いてもらうには、どんなふうに話したらいいと思いますか?

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