祖父の死に目に会えなかった話。【個人日記】
◆はじめに、これは私の個人的な日記です。なんの利益にもなりませんし、価値もありません。しかし、どうしても忘れたくなくて、いつか後悔はしたくなくて、どこかに書き留めておきたいと思いました。
昨今、新型コロナで里帰りもままならない中、祖父が静かに息を引き取りました。死因は新型コロナではありませんが、私は実家から離れて暮らしていたので、兄から電話で訃報を聞き、母の電話で『葬儀は欠席』というかたちとなりました。
突然すぎる訃報で、私は対面したわけでもなかったので、とても実感がわきませんでした。というのも、私が最後に祖父を見た(実家に訪れた)のは奇跡的に東京でコロナが騒がれる前(3月下旬くらい)で、ちょうど祖父が入院した時でした。そのときは祖父もまだ元気そうだったし、家族も「あの人(祖父)悪運だけは強いからきっと戻ってくるだろう」と話していたくらいです。
しかし、祖父は帰ってきませんでした。
もともと高齢で持病や疾患を繰り返していて、なのに頑固で酒もたばこも辞めず医者や祖母の言うことを聞かず、入院前の顔色なんか異常なほど黄色くて家族に心配されていた人なので(顔が黄色いのは主に肝臓が悪い時とされる)、「いよいよだった」といえばそうなのですが、思い返せばじわじわと、無念と喪失感が襲います。
私の中の祖父は小さい頃によく膝の上で話したり、酒のつまみを食わされたりして、愛されていた、幸せだったという記憶があります。もちろん酒癖が悪かったり、祖母と喧嘩したり、色々と問題の多い人だったというのは否めませんが、まだ動けた頃には海に釣りに行ったり兄弟と網で魚を獲りに行ったり、子どもの頃は両親よりも一緒にいた時間が長かったと思います。
そんな祖父の葬式が今日の4月13日、地元で行われるそうです。
家族だけの小規模なものだと聞いておりますが、やはり参加できないのが悔やまれた私は寝る前に、ふと「大の字になって家まで帰省しよう」と想像帰省を始めました。
力を抜いて、寝転んだ自分の想像上で家の玄関から飛び出していく。
途中、既にこみ上げてくるものがありましたが、落ち着いて、最寄りの駅の電車に乗って実家方面まで早送り。
地元に着いて家の付近まで『記憶』を飛ばすと、その帰路の途中で、ついに私は涙と嗚咽が止まらなくなりました。
──家はすぐそばなのに、そこから『記憶』が繋がらない。
頭に浮かんだ祖父の手をぎゅっと握って、「帰ろう」と頷く私の小さな唸り声。落ち着いて考えみれば、これは『記憶上の感傷に浸っているだけ』にすぎないのですが、一度感動してしまえば、それは「泣いた記憶」だと脳にしっかり記録される。現に落ち着いてきた今の私でも、この「感覚」を思い出せば、これからいつでも泣くことができると思います。
それから私はなんとか想像上の実家に帰って、家内を回って、満足した頃合いでその場で寝そべって現実に帰ってきました。目を覚ました私の目元や耳の中は涙でいっぱいになっていました。
私は社会人になってからはあまり泣くことがありませんでした。しかも嗚咽が出るほどのものは、仕事で自分の出来の悪さに耐えられなくなった時以来です。そう、感動的な作品に触れること以外で泣く時といったら、いつだって、自分自身の後悔でした。あの時もう少しだけ実家にいれば。もう少し早く、自分の方向性を見つけていれば。
今のところ社会に大きく貢献したことのない、出来の悪かった私は祖父の死に目にも葬儀にも立ち会えなければ、生きてる間に、祖父に何も遺すことができませんでした。世界全体が狂い始めている世の中とはいえ、『何かできたはず』の私が、我が道を行った祖父に何もできなかったことが、今でも許せません。
これから親の死に目を体験する方は、どうか今のうちに親孝行や、悔いのない選択をしてください。私は絵を描くのが上手かった祖父に「(生きてるうちに、)いつか自分の描いた絵をあげたいなあ」と思っていたのが叶わぬままに終わってしまったので、せめて死んだ祖父の為に、これから悔いのない人生を考えながら、祖父の為の絵を描きたいと思います。
2020.04.13 津雲 轍
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