清濁併せ吞める、心の広さ
自分が大人になりきれてない、と思う点として、
清濁合わせ呑める心の広さが足りないなぁと思うことがある。
世の中は綺麗事ばかりではない
前提として、世の中は綺麗事で動いていない。
非合理的な理由(個人的感情、組織的対立、世論)で良い案が潰れていく例など星の数ほどある。
かつてのガリレオの地動説、センメルヴェイスの産褥熱の考察などは正しい理論であったが、当時は反発され不遇な扱いを受けている。
事の大小はあれど、今、まさに、この世界、この瞬間でも同じことが起こっている。
脳はストーリーを壊されることを嫌う
このように書くと被害者にフォーカスしてしまいがちだが、
私たちは加害者にもなり得るのである。なぜか?
それは自分の頭に描いたストーリーを壊されるのを非常に嫌うから。
計画からズレると不快になりますよね?
他の観点から合理的に否定されることを我々は極端に嫌います。
こうして非合理へと進んでいきます。
過ぎ去ってみれば笑い話となるため、
何の悪気もなく「あの時の君は正しかったね」、酷い場合は「私もそう思っていたんだ」なんて言い放ちます。
言う側は説得に相当心を擦り減らしたと言うのに、です。
(ガリレオやセンメルヴェイスは不遇の扱いを受けていますね)
非合理性を受け入れ、どう行動するか
他人が絡む以上、非合理性は避けられないものである。
諦めるも一つの正解だろう。
もがき苦しむことも一つの正解だろう。
果たして自分はどうしていくのだろうか?
将来この記事を見返すことがあれば、その時の自分は何を思うのだろうか?