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世の中に「愛」が必要な理由。

愛情というものが、なぜ掛け替えのないものなのか、というと、
そこに「誰かと比べて」という物差しがないからだと思います。

例えば親が我が子を愛するとき、そこに理由があるでしょうか?
理由が必要でしょうか?

あるとすれば、「我が子だから」という理由だけなのではないでしょうか?

うちの子は勉強ができる、とか、スポーツが得意だ、とか、
その子の「いいところ」というのは、あるのだと思います。
「とりえ」などと言うことができるかも知れません。

しかし、その「とりえ」は、
親がその子を愛する理由そのものではないはずです。

まず、無条件に子を愛していて、そしてその子が、
偶然にも何らかの「とりえ」を持っていただけのこと。

だから本来、「とりえ」と言うのは、
その人に興味を持つきっかけにはなったとしても、
その人が他者から愛される理由にはならないのだと思います。

「とりえ」はあくまでも、その人の周りにある装飾なのであって、
その人そのものの本質的な価値ではないのです。

愛すると言うことは、そう言う装飾品が全てなくなってしまっても、
その人が存在してくれていることに
変わらぬ想いを抱き続けると言うことです。

だからそれは、決して相対的なものではなく、
絶対的な価値なのであって、誰かと比べる必要もなく、
ただ無条件に、その人が必要とされている、と言うことなのだと思います。

つまり「その人である」と言うこと以外に、
具体的な理由がないのだと、私は思っています。

そして、だからこそ、尊いと感じるのです。



自分がここにいる資格を得るには、何か努力をしないと。
自分がこのグループに属しているには、自分の価値を証明しないと。
今、社会は、そんな「あなたの存在理由」を求めてきます。

会社でも、学校でも、存在しているだけ、と言うのは
決して許されません。

しかし、それは本当に正しいのでしょうか?
そのシステムに、疑問を持つことは、おかしいのでしょうか?

人が人として心を健全に保つのに一番大切なことは、
自分はここにいていいんだ、
自分は必要とされているんだ、と言う実感です。

そして愛情と言うものが、
理由もなくその人の存在を必要とすることなのだとすれば、
つまり人間は皆、誰かから愛される必要があるのだと思います。

今、世の中の愛の総量が、とても少なくなっています。

人々は、化石燃料の残量については気にするのに
世の中の愛の総量については無頓着です。
しかし、愛の総量が著しく低下していることが、
あなたを、そしてこの社会全体を、「息苦しい社会」
「他者を許さない社会」「人を責める社会」にしているのです。

「愛」が必要なのです。



愛されるための、唯一の方法は、
まず自分から人を愛すことです。

愛されない人の多くは、
「誰も自分を愛してくれない」と嘆くばかりで、
自分から人を愛すことをしません。

人に許して欲しかったら、
まず自分が人を許さなければいけません。
それと同じことなのです。

愛は、愛のある場所に集まります。

だから、まずはあなたが自分から、誰かを愛してください。
愛が返ってくるかどうかについては、決して考えずに。

愛とは、「贈る」ことはできても、
決して「奪う」ことはできないものなのです。

常に自分から外側へ、一方通行なものなのです。

でも、だからこそ、尊いのです。

私が言っていることは、決してお花畑ではありません。
気づくか気づかないかに関わらず、
それが人間の心のルールなのです。

あなたが愛される理由は、「あなただから」。
ただそれだけです。

それ以外の全てのことは、飾りにすぎません。

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