世の中に「愛」が必要な理由。
愛情というものが、なぜ掛け替えのないものなのか、というと、
そこに「誰かと比べて」という物差しがないからだと思います。
例えば親が我が子を愛するとき、そこに理由があるでしょうか?
理由が必要でしょうか?
あるとすれば、「我が子だから」という理由だけなのではないでしょうか?
うちの子は勉強ができる、とか、スポーツが得意だ、とか、
その子の「いいところ」というのは、あるのだと思います。
「とりえ」などと言うことができるかも知れません。
しかし、その「とりえ」は、
親がその子を愛する理由そのものではないはずです。
まず、無条件に子を愛していて、そしてその子が、
偶然にも何らかの「とりえ」を持っていただけのこと。
だから本来、「とりえ」と言うのは、
その人に興味を持つきっかけにはなったとしても、
その人が他者から愛される理由にはならないのだと思います。
「とりえ」はあくまでも、その人の周りにある装飾なのであって、
その人そのものの本質的な価値ではないのです。
愛すると言うことは、そう言う装飾品が全てなくなってしまっても、
その人が存在してくれていることに
変わらぬ想いを抱き続けると言うことです。
だからそれは、決して相対的なものではなく、
絶対的な価値なのであって、誰かと比べる必要もなく、
ただ無条件に、その人が必要とされている、と言うことなのだと思います。
つまり「その人である」と言うこと以外に、
具体的な理由がないのだと、私は思っています。
そして、だからこそ、尊いと感じるのです。
※
自分がここにいる資格を得るには、何か努力をしないと。
自分がこのグループに属しているには、自分の価値を証明しないと。
今、社会は、そんな「あなたの存在理由」を求めてきます。
会社でも、学校でも、存在しているだけ、と言うのは
決して許されません。
しかし、それは本当に正しいのでしょうか?
そのシステムに、疑問を持つことは、おかしいのでしょうか?
人が人として心を健全に保つのに一番大切なことは、
自分はここにいていいんだ、
自分は必要とされているんだ、と言う実感です。
そして愛情と言うものが、
理由もなくその人の存在を必要とすることなのだとすれば、
つまり人間は皆、誰かから愛される必要があるのだと思います。
今、世の中の愛の総量が、とても少なくなっています。
人々は、化石燃料の残量については気にするのに
世の中の愛の総量については無頓着です。
しかし、愛の総量が著しく低下していることが、
あなたを、そしてこの社会全体を、「息苦しい社会」
「他者を許さない社会」「人を責める社会」にしているのです。
「愛」が必要なのです。
※
愛されるための、唯一の方法は、
まず自分から人を愛すことです。
愛されない人の多くは、
「誰も自分を愛してくれない」と嘆くばかりで、
自分から人を愛すことをしません。
人に許して欲しかったら、
まず自分が人を許さなければいけません。
それと同じことなのです。
愛は、愛のある場所に集まります。
だから、まずはあなたが自分から、誰かを愛してください。
愛が返ってくるかどうかについては、決して考えずに。
愛とは、「贈る」ことはできても、
決して「奪う」ことはできないものなのです。
常に自分から外側へ、一方通行なものなのです。
でも、だからこそ、尊いのです。
私が言っていることは、決してお花畑ではありません。
気づくか気づかないかに関わらず、
それが人間の心のルールなのです。
あなたが愛される理由は、「あなただから」。
ただそれだけです。
それ以外の全てのことは、飾りにすぎません。