人生の質を変える「自主性」と「主体性」の決定的なちがいについて。
人生の豊かさとは、いったいなんでしょうか。
素晴らしい人生とは、どんな人生でしょうか。
失敗のない人生でしょうか。
痛みのない人生でしょうか。
悩みのない人生でしょうか。
人は何のために生きているのでしょうか。
私は、人生の目的は二つだと思っています。
ひとつは感動すること。
もうひとつは、成長することです。
成長するというのは、どういうことか。
様々な体験を重ねて、いろいろなことを知っていったり、
気づいたりすることです。
そのために必要なことは
失敗であり、挫折であり、悩みです。
これらが存在しない場合、人は成長することができません。
物事の成功は失敗があるからこそ意味をなすのであり、
つまり失敗とは人を成長させ、
人生を豊かにする重要なファクターだと言えるわけです。
※
失敗や悩み、挫折の中には、
人から認めてもらえなかったり、傷つけられることが含まれます。
この世の中に、生まれてから死ぬまで、
一度も傷つかずに過ごす人間はいません。
誰だって生きている限りは、なんどもなんども苦しむのです。
それらはすべて、人間としての成長のためにあるのでしょう。
しかし、どうでしょうか。
最近の親というのは、子どもが苦しむ様子を「悪」だと解釈し、
可能な限り失敗や悩みがない人生がいい人生だと思っているようです。
子どもたちの人生に先回りして、
そのような要素を取り払ってしまうことで、
子どもたちは成長の機会を失います。
それは人生の豊かさを失っているのと同じことです。
自分の力で切り抜けたり、自分の頭で考え、
自分の意志で道を選ぶチャンスをどんどん奪っていく。
このような親は、
子どもが生きていく力を養う機会を奪っているのですから、
私からすれば、子どもの人権を奪っていることと同義だと思っています。
そういう親は、我が子が苦しむことを見たくありません。
我が子にはいつも笑っていてほしいのです。
そのような親のエゴによって、
子どもたちは生き抜く力を奪われます。
この現象はまさに、親が自分のことしか考えていないことによって
子どもたちの人生が犠牲になっているということなのです。
※
子どもから成長を奪う人に限って
「自主性」という言葉が大好きのようです。
私は自主性なんてそれほど大切だと思っていません。
それらの「自主性」には責任が要求されていないからです。
自主性より何百倍も大切なことは「主体性」です。
自主性と主体性はちがいます。
「自主性」はとても美しい概念のように聞こえます。
「自主性」は、自分で何をしたいかを選び、それを行うことです。
そう考えれば「自主性」は素晴らしいように聞こえます。
しかし、「自主性」には大いなる責任が伴うことを
ちゃんと教えているでしょうか?
好きなことだけをやればいいんだよ、
なんてことは「自主性」ではありません。
自分で選んで行うのだから、ちゃんと責任も自分で持とうね。
これが「自主性」です。
しかし子どもたちは大人の小型版ではありませんから、
「責任を持つ」ということまでは難しい場合もありますし、
人生の経験が少ないのですから、思考が浅はかであるのは避けられず、
そのとき、その瞬間に自分がやりたいと思うことが
本当にやりたいこととは限らないものです。
もちろん、人生の経験の長さに関わらず「人権」は平等にあります。
しかし多くの人にとって思考力や洞察力が
経験によって精度を増す部分があるのは事実であり、
何にどう責任を持って取り組めるのか、ということを
自主性とセットで要求することは難しいものです。
そしてこの「責任」の部分を除外して「自主性」を解釈すると、
それはただの放任であり、放置であり、
意志の弱い人間には、
ただの逃げ道を与えるだけの効果になってしまうのですね。
今日の学校教育現場では、
「自主性」を盾にして行われる
子どもたちや、その親による教育者へのマウントが、
教育者の精神を抑圧することになっています。
しかし、本当に「自主性」のある人間なら
そんなことはしないはずなのです。
※
「自主性」は、何をするのかを自分で選ぶこと。
それに対して責任を自分で負うことであるのに対して、
「主体性」とは「自分ごと化するチカラ」のことです。
「主体性」とはものごとに取り組む姿勢や、向き合うマインドのことです。
何かをやるときに「人からやらされている」のか、
「自分でやっている」のか、によって、
その意義はまったく異なったものになります。
前者は人間成長に寄与しませんが、後者は大いなる成長の糧になります。
「やらされていること」と「自らやること」の差は、
「主体性があるか、ないか」の差であり、
「主体的にものごとに取り組む力があるか、ないか」の差です。
ここでひとつの有名な逸話をご紹介しましょう。
1960年代のあるときの話です。
アメリカが、人類を月に送る
アポロ計画を遂行しているときのこと。
ケネディ大統領がNASAを訪れたそうです。
夜遅くにも関わらず、廊下を掃除している職員を見つけたので、
ケネディ大統領は声をかけました。
「なぜこんなに遅くまで掃除をしているのですか?」
するとその職員は答えました。
I’m helping put a man on the moon.
「人類を月に送るためですよ」
このエピソードは多くのことを語っています。
中でも重要なことは「なんのためにそれをやっているのか」という
本人の中にある「本質的な動機」です。
この職員がやっていることそのものは「廊下の掃除」です。
この人はアポロ計画の前から廊下の掃除をしていたのかも知れません。
廊下の掃除という作業そのものは、
多くの人にとっては楽しいものではないかも知れません。
しかし、アポロ計画以前と今とでは、
この人の廊下の掃除の動機、根拠はまったく別のものになっていて、
それはつまりこの人の中身が別物に変わっていて、
「人類を月へ送る」という大きな目標の実現のために、
この人は前向きに、誇りを持って、
「廊下の掃除」という自分の役割を、
使命感を持って全うしているわけです。
これは廊下掃除の自分ごと化であり、
人類を月へ送ることの自分ごと化です。
そして何より重要なのは、使命感を持つことによって、
この人は自分の役割に対して幸福な気持ちになっているということです。
Well-Beingを実現しているのです。
※
幸福・Well-Beingとは、心のあり方によって実現される部分があります。
自分がやっていることが「やらされている」状態では
決して心が幸せになることはありません。
しかし、やっていることは同じであったとしても、
自分の心のあり方が大きな目標や目的意識を持ち、
その実現という使命感を持っていれば、
たとえ体力的には苦しいことであっても、精神的には苦しくない。
むしろ幸せを感じ、充実するのです。
そして人間は、そのような心持ちを持つことによって
困難なことをやりとげ、乗り越え、人間として成長していくのです。
成長とは、なんらかのハードルを乗り越えることで
結果的に起こる事象です。
ハードルのない人生では成長が起こることはありません。
そして何がハードルなのかを決めているのも、すべては自分の心なのです。
自分のなすべきことの意味がわかったとき、
人は「自分ごと化」のチカラが最大限に研ぎ澄まされ、
大きな力を発揮することができるようになります。
それは「自主性」ではなく「主体性」なのです。
「主体性」の先に存在する「自主性」は、
すでに責任を全うする意味や意義を理解した人間の行為なので
非常に有意義ですが、
「主体性」を持たない人間の「自主性」は、
その人から成長のチャンスを奪うのです。
親や、学校が子どもたちに教えるべきことは「主体性」です。
どんなに苦しい練習でも、勉強でも、
平気で乗り越えられるようになる「自分ごと化」の力です。
それを身につけた子どもの人生は、必ず豊かで
実り多きものになるでしょう。
「主体性」の根っこにあるのは「大目的」です。
なんのために、それをやるのか、ということです。
ノーススターとか、北極星などとも言います。
「志」ということもできると思います。
実現したい目的をしっかりもったとき、
その手段を遂行することは「やって当たり前」であり、
むしろ「やりたいこと」に変わるのです。
なぜそれが必要かを、深いレベルで理解できているからです。
深く考える力が必要だということですね。
※
ちなみに、「三人の石切職人」という話があります。
以下に概要を示します。
旅人がある村を訪れると、
三人の石切職人が作業をしていました。
旅人が「何をしているのですか?」と尋ねると、
一人目の石切職人はこう答えました。
「お金を稼ぐために石切をしているのさ」
二人目は、
「国で一番の石切職人になるために、腕を磨いているのです」
三人目は、
「村人たちの安らぎの場になる教会を建てているんだ」
先ほどのNASAの掃除夫の話と同じことを言っているとお気づきでしょう。
「なんのためにやっているのか」という使命感の大きさが、
「自分ごと化」のチカラそのものなのです。
今の世界では、せいぜい二人目の職人程度の
モチベーションの人が多いのではないでしょうか?
利己的ですね。しかし、利己的な動機は、最終的には責任を伴いません。
もっと大きな目的意識に突き動かされたとき、
人は最大の力を発揮します。
大切なのは、「主体性」です。
それは、ものごとを「自分ごと化」するチカラなのです。
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