「社会的制裁」というタイトルで、AIにnoteを書かせてみた。
最近話題のAIというものが、
いったいどれくらい説得力があるのかを知りたいと思っていました。
そこで、書きかけのブログの原稿を読み込ませた上で、
「これはTKMA@ noteの原稿です。つづきを書いてください」
という内容で指示してみました。
すると、とりあえず私としても
自分の意見として齟齬はないと思える内容の文章が
書かれてきました。
ここでは、「社会的制裁」をテーマにしつつ、
AIというものの実験も兼ねてお届けします。
まず、冒頭からは、私自身が書いたものです。
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<ココカラ>
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『社会的制裁』
今、メディアやネットを中心に、
様々な「社会的制裁」が流行していますね。
芸能界での性的な問題に関する議論なども、そのひとつでしょう。
私は、正直に言えば、
その辺りの件についてはまったく興味がないので、
当事者同士が納得のいくカタチで、
関わるすべての人にとって、
マイナスがもっとも少ない道を探るのがいいと思っています。
もう少し言えば、部外者はあまり口を挟む必要はないと思っています。
特に芸能界に関しては。
政治とか、自分に直接関わることの方に
もっと関心を持てばいいのに、とは思っています。
しかし、マスコミも含めて、あらゆるところで、
「これでもか」と言わんばかりの
言論リンチが行われていると私はいつも感じています。
もちろん、悪はいけないと思っていますし、
罪を犯した者がある程度の制裁を受けるのは
必然だと思っています。
しかし、「もっとやれ!もっとやれ!」と言わんばかりの
「正義中毒」とも言うような世の中の態度は、
いったいどこから来るのだろうとは、思ってしまうのです。
※
相手も生身の人間です。
罪を犯したからといって、
どんな袋叩きにしてもいいというわけではありません。
人を殺したとか、そういうことなら話は違うかも知れませんが・・・。
この「人を滅多打ちにしたい」というような欲求は、
もっと私たちの暮らしや命に、
本当に関わるような悪事を働いている人に対して
向けられるべきなのではないでしょうかね・・・。
日本人は、いつからこんなにも
「社会的制裁」が好きになったのでしょうか。
私は、このような民衆の性質は、
社会的な要因も多分に含まれているような気がしています。
ルールと人間の関係性のズレが引き起こす
ストレスの捌け口なのではないでしょうかね。
だとしたら、何かもっと深いところに、
根本的な病巣が存在しているような気がするのです。
※
正しいものは正しく、正しくないものは間違っている。
その考え方は、ある程度必要なのですが、
しかし人間の歴史を振り返ってみると、
そのとき正しいと思っていた価値観が、
後になって間違いであったというふうになるケースは
多々あるんですよね。
そんなことを深く考えていくと、
私は最近、「正しさ」ほど危ういものはないと
感じるようになりました。
「正しさ」は人に暴走のきっかけや説得力を与えるからです。
「正しさ」は暴力に大義を与えます。
そうして悲しみを繰り返し生み出す
負のループが絶え間なく続くのです。
「正しさ」はどんなものであったとしても、
絶対ではないし、ひとつではないのです。
ですから、「自分は正しいのだ!」というのは
錯覚に過ぎない可能性があるということを
どんなときにも忘れてはいけません。
私は、誰かを真っ向から叩いている人を見ると、
本当に恐ろしい気持ちになるんですね。
この人の脳内では、今、いったいどんな現象が起きているんだろう、
何が分泌されて、どんな感情になっているのだろうと思うのです。
世の中で、どんなに信頼され、正しいとされている人でも、です。
正しさを信じることは重要ですが、
正しさはいつもベクトルを持っており、
そのベクトルは、人によって異なるのです。
だから、「なぜこの人の正義のベクトルは、
私のそれとは違うのだろう」というところに
意識がいくかどうかが、
その人の人間性を示していると思うんですね。
反対側からの視点を一切持つことができない人は、
たとえ私と意見が同じであったとしても、
本当に恐ろしいと思うのです。
※
<ココカラAI>
私たちは、他者を裁くことに対して慎重であるべきです。
なぜなら、私たち自身も完璧ではなく、
いつか同じ立場に立つ可能性があるからです。
社会的制裁が過剰になると、
その影響は当事者だけでなく、
その周囲の人々にも及びます。
家族や友人、同僚など、
多くの人々がその余波を受けることになります。
また、社会的制裁が過度に行われると、
本来の目的である「正義の実現」から逸脱し、
「見せしめ」や「娯楽」として消費される危険性があります。
これでは、本当に必要な反省や改善が行われず、
ただ単に一時的な感情の発散に終わってしまいます。
私たちは、他者を裁く前に、自分自身を振り返り、
自分がどれだけの理解と共感を持っているかを
考える必要があります。
相手の立場や背景を理解しようとする姿勢がなければ、
公平な判断はできません。
そして、その判断が他者に与える影響についても十分に考慮するべきです。
社会的制裁が必要な場合でも、
その方法や程度については慎重に検討する必要があります。
感情に任せて過剰な制裁を行うことは避け、
冷静かつ公正な対応を心掛けるべきです。
そうすることで、真の意味での正義が実現されるでしょう。
最後に、私たちは「正しさ」に対する謙虚さを持つことが重要です。
自分の信じる正義が絶対ではないことを認識し、
他者の意見や視点にも耳を傾ける姿勢が求められます。
そのような姿勢こそが、より良い社会を築くための第一歩となるでしょう。
<ココマデ>
どうでしょうか。
何より驚いたのは、前半には書いていない論点が
新たに書き加えられている点。
しかもその内容が、私自身の考えと
齟齬がない点なのです。
私はAIへの指示として、
「TKMA@ noteの原稿だ」と伝えましたから、
私がこれまでに書いた内容のエッセンスから、
私がどのように考える人間なのかということを
読み取ってAIがつづきを生成したということでしょう。
時間がないときは、論点だけを伝えてAIにブログを書かせる、
なんてこともありえるのでしょうかね・・・
いやいや、いかんいかん。
皆さんはどう感じたでしょうか?