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ニッポンコールと財源論の関係

サッカーやバレーボールなど、各種スポーツの世界大会で、
試合中の日本代表チームを応援するとき、
観客席から「ニッポンコール」が湧き上がることがありますね。

ニッポン!チャチャチャ!というやつです。
皆さんもご存知でしょう。

インターネットで調べたところ、
これは造園業を営む池原謙一郎さんというサッカー好きな方が考案し、
1966年に行われたイングランドのアーセナルと日本代表の試合の場で
初めてコールされたとのことです。

サッカーの応援が起源だったのですね。
私はバレーボールの応援として知りましたので、意外でした。

ここからはあくまでも私の印象ですので、
違和感がある人もいらっしゃると思いますが、
私が生まれて初めて、「ニッポン!チャチャチャ!」を聞いたのは、
何かのバレーボールの試合のテレビ放送でした。

観客席から湧き上がる「ニッポン!」コールが聞こえてくるわけです。

私はいかなる競技に関しても、
日本代表のチームの試合を会場に直接応援しにいったことはないので、
観客の歓声がテレビを通じて聞こえてくる以外の方法では、
このコールを聞いたことがありません。

つまり、その現場では、
このコールがどのように始まるのかを知らないということです。
誰かが音頭をとってコールが開始されるのでしょうが、
テレビを観ていると、自然発生的に湧き上がってくるように聞こえます。

何をまわりくどく説明しているのかというと、
私はこのコールをずっと「チャチャチャ!ニッポン!」
だと思っていたのです。

わかりますか?

「ニッポン!チャチャチャ!」ではなく、
「チャチャチャ!ニッポン!」だと思っていたということです。

コールが連続していくと、どっちも同じ結果になるので区別できません。
が、実際にやっている方は「ニッポン!チャチャチャ!」のつもりなのか、
「チャチャチャ!ニッポン!」のつもりでやっているのかで、
心の中の抑揚の付け方が変わるはずなんですね。

どこに区切りがあるのか、という問題です。

私は「チャチャチャ!ニッポン!」だと思っていたので、
「ニッポン!」は終わりの部分なのです。
チャチャチャはニッポンのための助走です。
なので、「チャチャチャ」と「ニッポン」は音量がちがいます。
当然、「ニッポン」の方が大きいわけです。

私の印象では、
「ニッポン!チャチャチャ!」では、
「ニッポン」と「チャチャチャ」は重要度に優先順はなく、
どちらも同じ音量の印象になります。

実際、「チャチャチャ」の部分は手拍子なので、
どちらが音量が大きいかということはそれぞれの印象でしかないわけで、

「チャチャチャ!ニッポン!」ではなく、
本当は「ニッポン!チャチャチャ!」なのだと知ったときに、
このコールの印象がものすごく変わったんですね。私個人の中で。

でも、今でも「チャチャチャ!ニッポン!」の方がしっくりきます。

「チャチャチャ!ニッポン!」なのか、
「ニッポン!チャチャチャ!」なのか。

これは、コールが連続しているとわからないし、
結果が同じなので、どちらでもいいのです。

チャチャチャ!のあとにはニッポン!がくる。
ニッポン!のあとにはチャチャチャ!がくる。
このループです。

チャチャチャ!→ニッポン!→チャチャチャ!→ニッポン!→

実際にはこのように続くし、
終わりかたはいつもフェードアウトですね。
始まり方も「コールが皆に伝搬していく」という工程ですので、
「チャチャチャ!ニッポン!」なのか、
「ニッポン!チャチャチャ!」なのかに関わらず、
コールに参加している人は、ただコールを続けていて、
どっちでもほぼ結果は同じです。

しかし、誰かが最初にコールを始めるとき、
恐らくですが「せ~の!」が存在しているはずですね。

「せ~の!」が認識されることで、実は
→チャチャチャ!→ニッポン!→チャチャチャ!→ニッポン!→
には区切りがあり、
その区切りの位置は「ニッポン!チャチャチャ!」だと
わかるということです。

せ~の!→「ニッポン!チャチャチャ!」→「ニッポン!チャチャチャ!」
なのだということですね。

つまり「継続的にループするものは、始まりを認識すると理解できる」
という事象について話したいのです。

我々は仕事をしてお金を稼いで、そのお金を使って生活しています。
お金を稼ぐことと、お金を使うこと。
このループは、今の経済システムが続く間は、
私たちが生きている限り続くものです。

稼ぐことと使うことは、まさしくニワトリ・タマゴのようなもので
どちらが先だったかはわからない状況ですが、
ひとつ確かなことがあって、
使う前にはお金を準備する必要があるということです。

つまり、稼ぐが先ということです。
まず収入、それから支出ですね。

従業員やバイトの人にはあまり意識されないけれど
すべての経営者が意識していることとして、
経営には年度というものがありますよね。

1年間の企業活動を通じて収支の決算を出します。
仮にその会社の期が1-12月だとしたら、
1月から2月へと月が変わる意味と、
12月から1月へと月が変わる意味は大きくちがいます。

企業の運営には、ちゃんと始まりと終わりがあるということです。
私たちの毎日の生活は、企業の締めとは関係なく続いていくので、
「稼ぐ→使う」という事象は
稼ぐ→使う→稼ぐ→使う→稼ぐ→使う→稼ぐ→使う→稼ぐ→使う→
と永遠にループしていくわけで、
どちらが先かはほぼ意味がなくなるわけですが、
企業の運営には始まりと終わりがある。

そういうことです。

例えば企業がメーカーだった場合、
ものを売るには、まず商品を作らなければなりません。
商品をつくるには材料を買う必要もあります。
ですから、

「買う→作る→売る」

ですね。ループにすると、
「買う→作る→売る」→「買う→作る→売る」→
です。

で、2度目の「買う」の原資は最初の「売る」から生まれます。
で、以後それがつづいていくので、
この3要素は渾然一体となっていきますね。

けれど、いちばん最初の「買う」を行うための原資は
どこから発生したのでしょうか。

このループの「最初の買う」だけは、
その前に事前の財源が必要なはずですからね。

ニッポンコールでいうところの「せ~の!」です。

それが「資本」ですよね。
自分の貯金から出したり、銀行から借りる場合もあれば、
株を発行してそれを売ってお金を調達する場合もあります。

資本→買う→作る→売る→買う→作る→売る→買う→作る→売る

ということですね。

こんなふうに、全ての経済活動は、まず財源が存在していて、
その財源の範囲の中で行われるわけです。
これは家庭生活も同じです。

その一家の収入というものがまずあって、
その収入の範囲の中で生活を営むわけです。
そこでは
収入→支出→収入→支出→
というループがあるわけですが、
支出するのは、先にお金がないといけませんから、
「収入→支出」→「収入→支出」→
ですね。

で、「せ~の!」にあたる最初の収入はどうするのか、といえば、
親からの支援とか、銀行からの借金などで
融通されたお金によって始まっていますね。

つまり家計もなんらかの形で準備された「財源」がスタートなのです。
財源→支出→「収入→支出」→「収入→支出」→
ということです。

始まりがあるということですね。

「収入→支出」のループを始めるには、
「財源」とか「原資」が必要になるということは
誰でも理解できると思います。

そしてここから理解できることとして、
我々は収入以上の支出をすれば赤字になってしまうし、
企業の経営で言えば、支出した金額より多くの利益を出さないと、
或いは最低でもトントンにしないと、
会社は潰れてしまうということです。

これが経済が永遠に成長しなければならない、という理由ですね。
だから企業は必死で利益を出そうとするわけです。

→支出→収入→支出→収入→支出→
というループにおいて、収入の部分が次の支出の原資になるわけですから、
(次の製品の材料を買うためのお金というイメージです)、
収入が支出より多くないといけないわけです。

では、企業でも家計でも当たり前の、この
財源→支出→収入→支出→収入→支出→というループが、
国ではどうなっているでしょうか。

前置きを長々と説明しましたが、ここからが本題です。

国は企業や家計と大きくちがうことが二つあります。
ひとつは、「営利団体ではない」ということです。
もうひとつは、
「お金そのもの(具体的には「円」)を生み出す主体である」
ということですね。

国家運営も、企業経営と同じように年度で区切られています。
国家予算というのが国会で話し合われて、
それだけのお金が準備されて、そのお金が国の運営費として支出されます。

そして、国は税金という形で国民からお金を回収しています。
その税収が、翌年の国家予算になる。
そう思いますよね。

「予算→支出→徴税」がループになっている。

今までの企業や家計の話からはそう感じるはずです。
でも国はちがいます。国だけはちがう、という方が正しいでしょうか。

「予算→支出→徴税」がループになっているとすると、
とうぜん、次の年の予算は「徴税」した税収が原資になるはずです。

これを企業のように当てはめるなら、
予算より多くの税収(つまり利益)が上がらないと
国は潰れてしまうことになりますね。

国がたくさんの利益を出すとどうなるでしょうか。
ある企業がたくさんの利益を出すとき、その反対側では
消費者のたくさんの支出があったということになりますから、
国がたくさんの利益を出しているとき、
それは国民がたくさんの納税をしていて、
それだけ貧しくなってしまっているということと同義です。

でも、国は利益を出すために存在しているのではないのです。
国は国民に活動の「場」を提供するために存在しています。

つまり国はお金を作って国民社会にそれを環流させる役割があります。
税金とはその環流しているお金を社会から間引く行為です。
ですから、国の利益が大きすぎると、国民は貧困になります。
つまり、国はいつも赤字でなければならないんですね。
国の赤字は、国民の黒字だからです。

そして国の予算執行のループというのは、
「徴税→支出」→「徴税→支出」→「徴税→支出」→
ではなくて、
「予算→支出→徴税」→「予算→支出→徴税」→
というふうになっています。

ちょっとちがう表現にすると、
「つくる→使う→回収」なのです。
この「つくる」とは、お金そのものをつくることです。

家計にも企業にも「つくる」は存在しませんでしたよね。
我々にはお金そのものを「つくる」権能がないからです。

国のループは、
「つくる→使う→回収」/「つくる→使う→回収」/「つくる→使う→回収」
となっています。

なぜ→ではなく/なのか。
それは、/の部分でいちど完全に終わっているからです。

わかるでしょうか?

日本の通貨は「円」ですが、
この円という通貨を発明したのは誰でしょう?
日本政府ですね。

この円を発行しているのは誰でしょう。
やはり日本という国です。(厳密には日銀ですが)

円はアメリカ人やヨーロッパ人が作ったものを輸入したわけではなく、
完全に日本で生まれたものですし、
世界中に円をつくれるのは日本という国しかありません。

ですよね?

日本という国は、円をこの世につくりだす存在なのです。

ですから企業や家計の
財源→支出→収入→支出→収入→支出→収入
というループではないのです。

企業や家計の収支ループに数字を当てはめると、こんな感じです。
→収入(+50)→支出(ー40=10)→収入(+50)→支出(ー40=20)→
こうして20が貯蓄されました。

では、国の収支ループに数字を当てはめると、
「つくる(ー100) →使う→回収(60=ー40)」/
「つくる(ー100) →使う→回収(60=ー80)」/
 
まず、お金を100つくるということは、
ー100からスタートしているということで、
それを全額使ってしまって、
後から徴税で回収するわけです。税収は予算執行より低いですから、
初年度で-40の財政赤字、翌年で-80の財政赤字になります

ここから、「税収は財源になり得ない」ということがわかるはずです。

先に使ってしまって、あとから回収しているので、
元々のマイナスをゼロに近づけるのが税収の役割なのです。
このことを「スペンディング・ファースト」と言い、
「税は財源ではない」という言葉の根拠となるわけですね。

冒頭のニッポンコールで国家予算を例えると、こうなります。

せ~の!ニッポン!チャチャチャ!/せ~の!ニッポン!チャチャチャ!/

わかるでしょうか。
多くの人が国家運営について、企業経営や家計と同じように考えてしまいます。
だから間違いが起こるのですが、
国はループになっていないのです。

その理由は、営利団体ではないことと、お金そのものを作れるからです。

「せ~の!ニッポン!チャチャチャ!」で終わりなのです。
で、また翌年、「せ~の!ニッポン!チャチャチャ!」をやるのです。

それなのに、ニッポン!チャチャチャ!→ニッポン!チャチャチャ!→
だと思い込んでしまっているんですね。

「税は財源ではない」という言葉は、
「税が財源ではないのなら、では何が財源なのか?」
という疑問を誘発してしまいます。

厳密には「国家運営に財源という概念はない」ということなのです。
それが「税は財源ではない」という言葉の本当の意味です。
財源がいらないのではなく、「財源という概念がない」のです。

それは、空を飛ぶことができる鳥にとって
「落ちる」という概念が存在しないことと同じです。

こうして、国会で予算審議が行われ、予算案を確定し、
それを執行すること。そのあと、徴税でお金を回収していることが、
どのような区切りになっているかを知ることで、
印象が変わりはずなんですね。

「チャチャチャ!ニッポン!」が
「ニッポン!チャチャチャ!」だとわかったとき、
私の中で印象が変わったように。

伝わるでしょうか。

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