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真実があなたの想像とちがったとき、考えを改められるか

つい先日、新宿のピカデリーという映画館に、
先行ロードショー(なのかな?)の
ドキュメンタリー映画を観に行きました。
ジャーナリストの田原総一朗さんが、忖度なしにインタビューする
「放送不可能」という映画で、このあとシリーズになるようです。

その第一弾の取材対象は、小泉純一郎さん。
言わずとしれた元首相ですね。
そして今は「原発ゼロ」に向けた発信に精力的です。
この映画も、話題の中心は原発ゼロ。
そして印象的なのが、劇中での小泉さんの言葉です。

「過ちて改めざる、これを過ちという」

この言葉はもともとは論語の言葉で、
自民党の西田昌司議員も語っているものですが、
言っている内容はそのままです。
逆に言えば、過ちを犯したとわかったときに、
改めることができるなら、
それは過ちではない、ということですね。

私もまったく同感です。

この言葉を小泉純一郎氏も取り上げて、言います。
「首相のときは経産省に騙されていた。
 原発が安全・安心・安価というのはすべてウソだった」
と言い切ります。

小泉さんがこのような活動をしていることは知っていましたが、
当初の私の感想は「何をいまさら」でした。
現役首相のときに言えよ、と。

彼は原発推進の旗頭の一人でしたからね。
でも、この映画を観ると、少し考えが変わります。
それは「彼の中でパーセプションチェンジが起きたのだな」ということ。
そのきっかけは311と、それに伴う原発事故でした。

私は「自分の考えはちがっていたのだ」と認め、
そうであったなら、と今までとはちがう行動が取れるということは、
非常に重要であり、素晴らしいことだと思っています。

ちょっと時事ネタっぽくなってしまいますが、
先日、日本の宇宙ロケットH3の打ち上げ中止を受けて、
JAXAが記者会見をしました。

その会見の席で共同通信の記者が
JAXAの人に「失敗」という言葉を認めさせようと食い下がり、
最後にひとこと「それは一般に、失敗と言います」と言い捨てたことが
話題になっていますね。

私は様々な意味で、この記者の責任をこそ問いたいですが、
宇宙ロケットなどのように危険が伴う現場の人々は、
普通にそこらへんにいる、敢えて言いますが「一般人」とはちがって、
もっと意識が高いんですね。

まぁ、ハッキリ言って、優秀なのです。
頭がいいとかではなくて、目的遂行に対しての考え方、態度、
そして責任能力などの人間性能においてです。
それは、無責任に情報を垂れ流している
日本のメディアのジャーナリストとは比べ物にならないでしょう。

JAXAのような、究極を求められる世界では、
「過ちて改めざる、此れを過ちという」
という考え方は、常日頃から意識されているはずなんですね。

だから、異常を検知したなら立ち止まり、
何が原因なのか、何が過ちなのかをちゃんと改める。
そういうことであって、
これは成功するための一連のロードマップなのであって、
物事を勝ち負け、成功と失敗のような単純な二元論でしか考えられず、
負けや失敗の本質的な意味や価値を理解できない人間こそが、
この社会を「失敗できない社会」にし、「挑戦できない社会」にし、
「活力のない社会」にしている張本人なのです。

エジソンは言います。

「私は失敗したことがない。」

一見、ものすごく傲慢に聞こえるこの言葉。こう続きます。

「ただ1万通りの、うまくいかない方法を見つけただけだ。」

発展や前進をしたいのであれば、この態度こそが、最も必要なことであり、
真実だと私は思うんですね。

あのブルース・リーもこう言っています。
「私は1万通りの蹴りを一度ずつ練習した人間より、
たった一種類の蹴りを1万回練習した人間の方が怖い」と。

ひたすらつづける、ということは、過ちを改めていく工程に他なりません。
自分と向き合い、自分に問いかけながら前進をつづけるということです。
ときには後退に見えても。

それだけが本当に前進する方法だからですね。

恐らく、共同通信の記者の方は、いろいろな人の挑戦の現場を観たり、
肌で感じ取ったりする経験を積むことなしに、
ただ結果だけを取材し、報道してきたのではないか?と想像します。

恐らくJAXAの人を「失敗した人」と決めつけ、
「失敗でした」と認めさせることに
自分の正義感のぶつけどころを定めてしまったのでしょう。

でも、そこまで言うなら、JAXAの中にちゃんと入って、
その人たちが日々、何に向き合い、何を課題とし、
何を背負って挑戦しているのかをしっかり観た上で、
今回のことが失敗だったのか、失敗を未然に防ぐ機能がちゃんと作動した、
ということなのかを見極めるべきでしょう。

記者の方が、今回の「過ち」を改められるかが、
彼の人生のテーマのひとつではないでしょうかね。

先ほど、記者の方はJAXAの人に対して、
「失敗した人」という先入観を持っていたのでは?と書きました。
いわゆる「レッテル貼り」ですね。

レッテル貼りというのは、
人間は誰でも、いつも、やってしまいがちなのです。
私ももちろんそうなので、自分を棚に上げるつもりはありません。

ただ、もしあなたが、
そのレッテルに基づいて人を責めようというときには、
その人に関する情報を手に入れようとしたり、
手に入れた上で、その人が自分の想像とはちがった場合、

速やかにそのレッテルを外すべきだと思いますし、
それは誤ったレッテルであったということを表明すべきだと思っています。
自分の思い込みを修正していくという作業ですね。

例えば自分の記憶に新しいのはナベツネさんの話です。
言わずと知れた読売新聞のドンですね。

私は彼のことを、
ずっと右翼思想のタカ派だと勝手に思い込んでいたのです。
しかし実際の彼は反戦・平和主義者であって、
かつては共産党員だったこともある人なのです。

私はとても驚きましたし、私の勝手に作り上げた「ナベツネ観」が
まちがっていたことを感じました。
同時に、彼は日本中の人々から
そのようなレッテルを貼られていただろうし、
けれども、真実は彼の中だけにあって、
なかなか理解されないという現実の中で、
ただひたすら、誤解も恐れずに自分を信じて
前進してきたのだということを感じたわけですね。

人は、自分のことを他者にわかってほしいと感じます。
けれども同じくらい他者のことを理解しようとはしません。
人の人格を、行動から判断してしまいます。

その中身が実際にはどんなもので、
どんな考えや、考えのゆらぎがあるのか、
という、当たり前のことを想像したり、受け入れようとしたりせず、
ただ「あの人はこんな人」というシンプルなレッテルを貼ります。

ある人が、ある事柄を好きか、嫌いかということでさえ、
環境によって変化します。

Aさんといるときはこの曲が好きではなかったが、
Bさんといるときには好きになった。

そんなような現象は、よくあるでしょう。
人間とはそのように不確定で、複雑に変化する生き物であって、
シンプルに解釈することなど決してできないのです。

人から観ると不可解に見えるあなた自身の行動や判断にも、
あなたの中では何かしらの理由があったり、
迷いの末の行動だったりするはずです。

そういうときに「あなたはこういう行動をする人間だよね」ではなく、
「あなたはなぜそう行動したの?」という部分に
関心を持ってほしいはずです。

あなたのお気に入りのミュージシャンが、
あなたの好きな曲調ではない新曲を出すと、ファンは怒ります。

では、あなたはそのミュージシャンが好きだったわけではないのですね?と
私は思ってしまうのです。
そのミュージシャンが、なぜ今までとはちがう曲調の曲をつくったのか?
というところに興味関心は湧かないのですか?と。

だって、彼が(彼女が)感じてほしい部分は、きっとそこだからです。

でも、人は他者に対して、なかなかそのように関心を持てないんですね。
自分勝手なのです。

先日、日大タックル事件で一躍「ときの人」にされてしまった、
日大アメフト部の元監督、内田正人さんのお話を伺う機会がありました。

非常に温厚で思慮深く、思いやりのある方で、
世間一般が勝手に決めつけた「悪人」とは程遠い人格者です。

しかし、もしかすると、彼の身近にいた人でさえ、
本当の彼を知り、感じたことのある人はいないのかも知れない。
たくさんの「誤解」の中で、
「人間は誤解をするし、それを改めることはなかなかないものだ」という
現実の中で、どんなときもただ現役の学生たちのことを
考えつづけてきた人物なのだと、私は感じました。

私がこう書いても、「そんなはずはない」と否定する人も多いでしょう。

でも、私は言いたいのです。
私がこう言っていることを、信じられませんか?と。

少なくとも、私に対するレッテル、内田正人氏に対するレッテル、
そういうものが「思い込み」である可能性はいつでもあるのです。
そして思い込みのメガネが外れた経験をすると、
「それは外せるものだ」と認識できるようになります。

問題は、事態や人が、あなたの先入観通りでなかったときに、
あなた自身はどうするのか、ということです。

これは、あなた自身の中で起こる、非常に興味深い現象です。
自分の変化を発見することができたとき、
人生とは、なかなか面白いものだと感じると、私は経験から思っています。

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