人権を奪うとはどういうことか
「人権」という言葉を聞いて、どのような印象を受けるでしょうか。
普通は、不当な扱いを受けないとか、自由が保証されているとか、
そういうイメージではないでしょうか。
もちろん、それもわかりやすい姿だと思います。
しかし、今日は、普段はなかなか気付きにくい
人権の本当の姿をお伝えしたいと思います。
※
例えば、あなたの目の前にデモ行進の一団がいたとします。
その人たちは原発反対か、あるいはオリンピック開催反対でもいいですが、
暮らしの便利や、娯楽に対する反対を表明しているとします。
あなたは、「なんだかつまらないことを考えている人間だな」とか、
「鬱陶しいな」とか「ややこしい連中だな」と思うかも知れません。
そんなこと考えるより、目の前の自分のことをちゃんとやれよ、
と思うかも知れないですね。
どうでしょうか。
ここで重要なのは「そんなこと考えるより・・・」という部分です。
そんな余計なこと考えなくてもいいから、と。
ここで起きている思考停止の正体は一体何か
ということを掘り下げたいのです。
人は誰だって娯楽を享受できることは、とっても楽しいし、嬉しいし、
他の小難しいことや課題について考えるのは気分が暗くなるから、
できれば気楽に娯楽に興じていたいと感じるものです。
けれども、なぜその「自然に湧き出る感情」を制してまで、
問題意識を持つのか。
それは、それこそが「人権意識」だからなんですね。
何が言いたいかというと、人権とはあくまでも概念なので、
考えることによって生まれるし、考えなければ奪われるものなのです。
ここ、ちょっとややこしいですが、言葉で伝わるでしょうかね。
※
人権という意識は、太古の昔からあったわけではなくて、
二度の世界大戦という凄惨な過ちの中から
人類が生み出した新しい概念であって、
これは、もっと欲しいとか、対立したいとか、
他者から奪いたいというような、
人間が経済社会の中で自然に考えてしまう欲求というものを、
理性や知性で抑えようという試みな訳です。
つまり「人権」は「思考・考えること」とワンセットなんですね。
考えるのをやめるということは、
自分の人権を放棄するということなのです。
逆に言えば、人民を統治したい連中の立場からすれば、
「考えさせなくする」ことで、
民衆の人権を奪うことが「簡単に」できるわけです。
なので、デモ行進を見て「へんな連中だな」と思う気持ちと、
「何を訴えたいんだろう?」と思う気持ちの間には、
その人が「人権」を放棄しているか、していないかのちがいがある、
ということなのです。
「人権」とは、意識したその瞬間から、
「人権保持のためのアクション」とワンセットになっている、
ということなのですね。
実に面倒くさいことです。
天賦人権論、「人は生まれながらに人権がある」と聞くと、
なんの苦労もなしに権利が保障されているように聞こえるし、
誰もそれを侵害しないように感じますね。
だから、何もしなくてものんびり好きなことだけしていればいいんだ、
と思ってしまいがちです。
しかし、人権は放っておくとすぐに権力者に奪われてしまうので、
そうならないように不断の努力をしろと、日本国憲法も言っていますね。
憲法第12条です。
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」
ほら、ちゃんと書いてありますよね。
で、この「権力者が人権を奪う」というやり方が、
想像では非常に暴力的なものをイメージしてしまうのですが、
実際にはその真逆であって、ものすごく楽しそうな雰囲気で迫ってきて、
考えるのを止めさせる、というやり方をするものなのだ、
ということなのです。
今の日本では、多くの人が人権を奪われているのに、
それに気付いていないということなんですね。
気付いていない人は、気付いた人がアクションしているのを見ると、
なぜか生理的にとても不快な気持ちになるのです。
先ほど例に挙げたデモ行進などが顕著な例ですね。
選挙活動をしている人なんかにも、不快さを隠さない人はいます。
そうなるように、設計され、インプットされているんですね。
気づかない間に。
それは、主に民放のテレビでドラマやワイドショーを見たりして、
くだらないことで脳細胞をいっぱいにすることで、
本当に重要なことを考えないようにさせる、という方法で行われています。
これはアメリカが戦争の後、日本を上手に占領統治するために
トルーマン大統領によって実行された
3S(スリーエス)政策から始まっています。
三つのSとは、Screen、Sports、Sexです。
映画やスポーツ、性という娯楽で人々を堕落させ、
国家などについてあれこれ考えさせないようにする、というものですね。
娯楽で精神に麻薬を打つようなものです。
この政策は、日本では大成功してアメリカの成功体験になったようですが、
その後、どこの国でも占領統治は成功していません。
日本だけが、まんまと罠にハマったというわけです。
※
歴史の話はさておき、生存権を主張する人を鬱陶しく思ったら、
例えば給付金を出せと国に訴える人を
「クレクレ主義」などと揶揄したくなったなら、
自分は国の思想統制にはまっていると思った方がいいでしょうね。
なぜなら、そう感じることこそが、
人権を国に奪われているという事実の証左だからなのです。
人権を主張する人間を排除しようとする心理的傾向は、
権力者によってヒタヒタとあなたの脳や
思考回路に埋め込まれたものなので、
自分自身ではなかなか気づくことができません。
特に日本は島国ですし、
ディスカッションをするという文化がないですからね。
考えを内に秘めて口に出さないことを美徳と思っていますが、
その美徳さえもが、統治のための便利な道具に使われてきたという
我が国の歴史の側面を知っておくべきだと思います。
それは、今でも続けられているし、
いやむしろ、第二次安倍政権以降、その傾向は強まってきたからです。
人は人権を奪われると、つまり思考を奪われると、
あなたの人権を奪う政権に、
自ら投票するという愚行を行うようになります。
麻薬患者が、自分を破壊する麻薬を打ち続けるように。
麻薬を欲するからと言って、それは「民意」とは言えないわけですが、
民主主義の多数決という弱点を利用して、
彼らは権力を維持しようとするのですね。
ともあれ、人権を奪われている人は、
そのことに気づかない場合が多い、ということを覚えておいてください。