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一票は微力なのか? 課題の解決方法と選挙の関係

「無駄とわかっていることは、最初からしない。」

まるで、映画に出てくるクールな主人公のセリフみたいですね。
カッコいいと感じるでしょうか?

私は「最高にカッコ悪い」と思っています。
また、上記のような考え方は「可能を不可能にする思考」の典型であり、
人間が作り出した社会の課題が解決できない主要因であると、
私は考えています。

例えばあなたがピアノの練習をするとします。
毎日毎日練習しても、日々の進歩はごくわずかです。
その毎日の中で、「自分は確実にピアノが弾ける人間になれる」
という確証はないわけです。

けれど、ピアノが弾ける人というのは、
その練習をひたすら積み重ねた人、ということなんですよね。

最初のセリフをピアノに当てはめるなら、
「ピアノが弾ける人に確実になれるわけではないなら、
 最初からピアノの練習はしない。」
ということになります。

こういう人がピアノを弾ける人になれる可能性は
とても低いということが言えるんですね。

ポイントは「無駄かどうか、まだわからないこと」を
「無駄とわかっていること」と言い換えることで
最初から可能性を潰してしまっている。

そういうことです。

ちなみに、100%無駄だとわかっていることというのは、
個別具体的な小さな出来事を除けば、世の中にはあまりないと思います。



さて、選挙というのは面白い仕組みです。
「民意」という言葉は、まるで民衆がひとつの生き物で、
ひとつの意思を持っているかのような言い方です。

でも、民衆というのは様々な考えを持った人々の集合体であって、
だから最近よく言われる「民意」というのは「民衆の意思」ではなく、
「多数決の結果」のことを言っているだけなのですね。

で、我々民衆が政治に意見を反映させるためには、
その「民意」たるものを獲得する必要があるわけです。

となると、少数派の意見というのは、絶対に「民意」にはなりませんよね。
数が少ないから「少数派」なわけですから。

では、投票行動は「無駄」なのでしょうか?

いえ、ちがいます。
我々ひとりひとりは、大きな力を細分化した、
いちばん小さな単位の力しかもっていない。
それを「微力」という言い方をするとしますが、
「力」というものが「微力を束にしたもの」である以上、
我々には「力がある」という結論しかないはずなのです。

問題は「微力は束にする必要がある」ということと、
「束にするのはとても骨が折れる」ということですね。

その作業を想像し、「とてもできない」と思うからこそ、
「投票なんかしても無駄だ」という考えに行き着く。

先ほど言った通り、「無駄だと思う」ことこそが、
「可能を不可能にする思考」であり、可能性を潰す最大の要因です。

我々は非力と思わせられているけれど、
現実として「力」は我々の中にしか存在しないのです。

だからこそ投票することを「権利」という名で呼ぶわけですね。



選挙というと、
議会の候補者を選ぶことだけを指していると思いがちですが、
実は我々は毎日選挙をしています。
私たちひとりひとりの行動のすべてが、
実は数ある行動の中からひとつをチョイスしているという点では
選挙であり、投票行動なのです。

例えば、「買い物」という行動を見てみましょう。

あなたは今日、スーパーで玉子を買ったとします。
そのとき、個数や大きさ、値段や色や鮮度など、
様々な要素から、ある玉子を選びました。

何気なしに選んだとしても、「何気なしに」という理由で、
ある選択行動をしている。
あなたの意識にかかわらず、買ってもらった方としては、
それは選ばれたのであり、つまり投票されたのであって、
あなたは投票行動をしているのです。

もっと言えば、「スーパーで買った」ことだって投票ですね。
別の店ではなく、そこで買ったことは、意味を持っているのです。

そういう意識で消費行動を見つめ直せば、
あなたは毎日の「暮らし方」を通じて
この社会の中の「誰を支持するのか」を選ぶことができるわけです。

いや、実際に今までも選んできたんですね。
ヒット商品が生まれるとき、それをヒット商品たらしめているのは、
実は「あなた自身」なのです。

逆に言えば、応援したいブランドや、なくなって欲しくない商品があれば、
その気持ちを「購買行動」という形で訴えることができるわけです。

もちろん、市場の原理というものがありますから、
思いが通じない場合もありますが、
では、その行動は無駄だったのでしょうか?

いえ、商品開発など、何かの形で、
必ず「次」につながっているはずです。

どうでしょう。どう思いますか?



さて、私が言いたいのは「微力」は現実だが、
「非力」や「無力」ではないということです。
我々は明らかに力を持っている。

この仕組みは、実は選挙だけでなく、我々が生活する環境の中で、
たくさん存在しているわけです。

例えば社会課題などもそうですね。
ゴミの問題、フードロスの問題、貧困の問題、環境の問題、地球温暖化、
すべてにおいて、
「自分ひとりがやったって」という感覚にさいなまれます。

だから、なかなか解決しないのです。
解決しない理由はたったひとつ。
我々が解決しようとしないせいだということです。

けれど、その問題を作ったのは誰なのか?と言えば、
やはり一人一人は小さな害しか出さない我々なのですよね。

それが束になって、巨大な問題になっているわけです。
逆に言えば、我々ひとりひとりの小さな行動が、
課題を解決する力を持っているということもできるわけです。

そう、無駄なように見える小さな努力が積み重ねることしか、
課題を解決する方法はないのです。

強大な力を持った誰かが魔法のように解決してくれることなど、
絶対にありえない。
国際機関がルールを作ったところで、
守るかどうか、実践するかどうかを決めるのは、
すべて我々ひとりひとりの小さな民衆です。

もっと言えば、「解決手段」というものは、
いつだって「無駄なこと」に見える格好をしているのですよ。

それさえわかっていれば、
もう二度と「無駄だからやらない」という思考回路にはならないはずです。

微力だからこそ、やることに意義がある。
そう思うのです。



あとは、ひとつひとつの微力を大きくできるかどうか。
束にできるかどうか、にかかっている。

そこで問われるのが「本気」です。

最近、ネット記事で読んだものですが(出典、失念しました)、
2050年まで脱炭素は実現できるか?という問いに、
識者が「人類が本気になれば実現できる」と答えていました。

しかし、実現できない可能性もある。
それはどんな場合か?というと、
それは「人類が本気にならなかった場合だ」と。

「人類が本気にならない」というリスク。
これこそが最大の、そしてもっとも起こりやすいリスクだというわけです。

この地球上で起きている課題は、すべて人が引き起こしています。
人は「心」によって支配され、「心」に従って行動するのですから、
すべての課題は「人の心の問題である」と言い切ることができるでしょう。

我々が克服しなければならない課題の本質は、
いつだって我々自身の心の中にあるのです。

最後に、かつても引用したジョン・レノンの言葉を再掲します。
WAR IS OVER, IF YOU WANT IT.
重要なのは、後半の言葉です。IF YOU WANT IT.

私ならこれを「本気になれば」と訳します。

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