一票は微力なのか? 課題の解決方法と選挙の関係
「無駄とわかっていることは、最初からしない。」
まるで、映画に出てくるクールな主人公のセリフみたいですね。
カッコいいと感じるでしょうか?
私は「最高にカッコ悪い」と思っています。
また、上記のような考え方は「可能を不可能にする思考」の典型であり、
人間が作り出した社会の課題が解決できない主要因であると、
私は考えています。
例えばあなたがピアノの練習をするとします。
毎日毎日練習しても、日々の進歩はごくわずかです。
その毎日の中で、「自分は確実にピアノが弾ける人間になれる」
という確証はないわけです。
けれど、ピアノが弾ける人というのは、
その練習をひたすら積み重ねた人、ということなんですよね。
最初のセリフをピアノに当てはめるなら、
「ピアノが弾ける人に確実になれるわけではないなら、
最初からピアノの練習はしない。」
ということになります。
こういう人がピアノを弾ける人になれる可能性は
とても低いということが言えるんですね。
ポイントは「無駄かどうか、まだわからないこと」を
「無駄とわかっていること」と言い換えることで
最初から可能性を潰してしまっている。
そういうことです。
ちなみに、100%無駄だとわかっていることというのは、
個別具体的な小さな出来事を除けば、世の中にはあまりないと思います。
※
さて、選挙というのは面白い仕組みです。
「民意」という言葉は、まるで民衆がひとつの生き物で、
ひとつの意思を持っているかのような言い方です。
でも、民衆というのは様々な考えを持った人々の集合体であって、
だから最近よく言われる「民意」というのは「民衆の意思」ではなく、
「多数決の結果」のことを言っているだけなのですね。
で、我々民衆が政治に意見を反映させるためには、
その「民意」たるものを獲得する必要があるわけです。
となると、少数派の意見というのは、絶対に「民意」にはなりませんよね。
数が少ないから「少数派」なわけですから。
では、投票行動は「無駄」なのでしょうか?
いえ、ちがいます。
我々ひとりひとりは、大きな力を細分化した、
いちばん小さな単位の力しかもっていない。
それを「微力」という言い方をするとしますが、
「力」というものが「微力を束にしたもの」である以上、
我々には「力がある」という結論しかないはずなのです。
問題は「微力は束にする必要がある」ということと、
「束にするのはとても骨が折れる」ということですね。
その作業を想像し、「とてもできない」と思うからこそ、
「投票なんかしても無駄だ」という考えに行き着く。
先ほど言った通り、「無駄だと思う」ことこそが、
「可能を不可能にする思考」であり、可能性を潰す最大の要因です。
我々は非力と思わせられているけれど、
現実として「力」は我々の中にしか存在しないのです。
だからこそ投票することを「権利」という名で呼ぶわけですね。
※
選挙というと、
議会の候補者を選ぶことだけを指していると思いがちですが、
実は我々は毎日選挙をしています。
私たちひとりひとりの行動のすべてが、
実は数ある行動の中からひとつをチョイスしているという点では
選挙であり、投票行動なのです。
例えば、「買い物」という行動を見てみましょう。
あなたは今日、スーパーで玉子を買ったとします。
そのとき、個数や大きさ、値段や色や鮮度など、
様々な要素から、ある玉子を選びました。
何気なしに選んだとしても、「何気なしに」という理由で、
ある選択行動をしている。
あなたの意識にかかわらず、買ってもらった方としては、
それは選ばれたのであり、つまり投票されたのであって、
あなたは投票行動をしているのです。
もっと言えば、「スーパーで買った」ことだって投票ですね。
別の店ではなく、そこで買ったことは、意味を持っているのです。
そういう意識で消費行動を見つめ直せば、
あなたは毎日の「暮らし方」を通じて
この社会の中の「誰を支持するのか」を選ぶことができるわけです。
いや、実際に今までも選んできたんですね。
ヒット商品が生まれるとき、それをヒット商品たらしめているのは、
実は「あなた自身」なのです。
逆に言えば、応援したいブランドや、なくなって欲しくない商品があれば、
その気持ちを「購買行動」という形で訴えることができるわけです。
もちろん、市場の原理というものがありますから、
思いが通じない場合もありますが、
では、その行動は無駄だったのでしょうか?
いえ、商品開発など、何かの形で、
必ず「次」につながっているはずです。
どうでしょう。どう思いますか?
※
さて、私が言いたいのは「微力」は現実だが、
「非力」や「無力」ではないということです。
我々は明らかに力を持っている。
この仕組みは、実は選挙だけでなく、我々が生活する環境の中で、
たくさん存在しているわけです。
例えば社会課題などもそうですね。
ゴミの問題、フードロスの問題、貧困の問題、環境の問題、地球温暖化、
すべてにおいて、
「自分ひとりがやったって」という感覚にさいなまれます。
だから、なかなか解決しないのです。
解決しない理由はたったひとつ。
我々が解決しようとしないせいだということです。
けれど、その問題を作ったのは誰なのか?と言えば、
やはり一人一人は小さな害しか出さない我々なのですよね。
それが束になって、巨大な問題になっているわけです。
逆に言えば、我々ひとりひとりの小さな行動が、
課題を解決する力を持っているということもできるわけです。
そう、無駄なように見える小さな努力が積み重ねることしか、
課題を解決する方法はないのです。
強大な力を持った誰かが魔法のように解決してくれることなど、
絶対にありえない。
国際機関がルールを作ったところで、
守るかどうか、実践するかどうかを決めるのは、
すべて我々ひとりひとりの小さな民衆です。
もっと言えば、「解決手段」というものは、
いつだって「無駄なこと」に見える格好をしているのですよ。
それさえわかっていれば、
もう二度と「無駄だからやらない」という思考回路にはならないはずです。
微力だからこそ、やることに意義がある。
そう思うのです。
※
あとは、ひとつひとつの微力を大きくできるかどうか。
束にできるかどうか、にかかっている。
そこで問われるのが「本気」です。
最近、ネット記事で読んだものですが(出典、失念しました)、
2050年まで脱炭素は実現できるか?という問いに、
識者が「人類が本気になれば実現できる」と答えていました。
しかし、実現できない可能性もある。
それはどんな場合か?というと、
それは「人類が本気にならなかった場合だ」と。
「人類が本気にならない」というリスク。
これこそが最大の、そしてもっとも起こりやすいリスクだというわけです。
この地球上で起きている課題は、すべて人が引き起こしています。
人は「心」によって支配され、「心」に従って行動するのですから、
すべての課題は「人の心の問題である」と言い切ることができるでしょう。
我々が克服しなければならない課題の本質は、
いつだって我々自身の心の中にあるのです。
最後に、かつても引用したジョン・レノンの言葉を再掲します。
WAR IS OVER, IF YOU WANT IT.
重要なのは、後半の言葉です。IF YOU WANT IT.
私ならこれを「本気になれば」と訳します。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?