過ちを犯した若者に、セカンドチャンスを。
日本のほとんど公園では、サッカーや野球は禁止です。
スケボーも花火も禁止です。
・・・というか、もう子どもが自分たちで遊ぶことがほぼ禁止です。
騒音を出すこともダメです。
これはどういうことでしょうか?
恥の文化である日本では、誰かに迷惑をかけることは
非常に悪いことだとされています。
では、迷惑とはなにか?というと、それは不快な気持ちになることです。
では、人はどうして不快になるのか?というと、
その基準は人によって様々です。
ですから、「誰かが不快になるかも知れないから」ということで
ありとあらゆることが禁止されたり、
禁止はされなくとも「よくないこと」
「やらない方がいいこと」という認定を受けます。
いま、この国は超少子高齢化社会に向かって
大爆走をつづけています。
ということは、この国の意見のほとんどは
高齢者の声ということになります。
高齢者と言わないまでも、オトナというのは、
子どもとはまったくちがいます。
すでに人生をいろいろ経験していますから、
目の前にある初めて知る出来事に感動して声をあげたり、
怖くて不安で泣いたりしません。
でも、子どもたちはオトナとちがいます。
様々なことに興味が湧き、知りたがります。
その中には、オトナの目から見ると
やらなくていいことや、やらない方がいいこと、
やってはいけないことが含まれます。
それでも子どもはやりたいのです。
それがどんなにムダなことであっても、です。
なぜなら、本当にムダであるかどうかを知るには、
人から「ムダだ」と教わるのではなく、
自分でやってみて、ムダだと知るしかないからです。
子どもたちは、オトナの目から見ると
笑ってしまうようなウソをつくこともあります。
子どもの目には、そのウソは通用するように思えるのです。
でも、そんなことはオトナはお見通しです。
なぜなら、オトナは、昔子どもだったことがあるからですね。
すでに自分でも経験しているからです。
※
今の社会の有り様が、公園や公共施設には象徴的に表出しています。
それは便利で好都合な社会ということなのですが、
ひとつ問題があります。
誰にとっての便利か、誰にとっての好都合かが、
オトナ(老人を含む)だけに限定されているからです。
もちろん反論する人もいるでしょう。
「ちゃんと子どものことも考えた!配慮した!」と。
でも、ちがうのです。
その配慮も、所詮オトナの視点からの配慮なのです。
どういうことかといえば、それらはすべて、
オトナにとっての都合のいい子ども像、
オトナにとっての都合のいい遊び方、
オトナにとっての都合のいい子どもの利便という
フィルターがかかっているからです。
子どもが怪我をしないように。
子どもがトラブルに巻き込まれないように。
子どもが騒がないように。
もちろんこれらは一見すると子どものためです。
しかし実はそれらもすべてはオトナ目線なのです。
子どもが怪我をしたら、オトナが面倒だから。
子どもがトラブルに巻き込まれたら、大人が責任を取らされるから、
子どもが騒いだら、オトナが文句を言うから。
そういうことなのです。
つまり、オトナにとって扱いやすい子どもになるように、
環境がどんどん整えられているということなのです。
もちろん、子ども自身も、怪我をするより
しない方がいいというのは一般的な意見でしょう。
しかし、一生の間に、体のどこにも、
一箇所も怪我をしない人間はいません。
重大な事故や怪我は防がなければいけませんが、
かすり傷で済むような怪我に関してまで、
ありとあらゆる怪我を完璧に防ごうとすれば、
子どもたちは「どうすれば怪我をしないようにできるか」を
自分で学ぶことができません。
そういう子どもたちは、
生き抜く力がとても弱い人間に育ってしまいます。
※
オトナにとって好都合な世の中のもうひとつの大きな問題は、
オトナが扱いやすい存在であるために、
子どもたちに異常なまでの完璧性を求めることです。
どういう人間がマトモなのか、というモノサシを
強制されることで、子どもたちは
どんどん子どもらしさを失っていきます。
子ども時代に子どもらしく過ごさなかった子どもは、
オトナになっても子どもを解釈することができなくなる可能性が高い。
そういう子どもがオトナになった社会を、
まだ人類は経験したことがないわけですが、
恐らく人間社会が崩壊する可能性も孕んだ、
大きな変化につながるでしょう。
オトナに迷惑をかけない完璧な人間をつくる教育は、
人間から生き物としての強さを奪います。
これから地球が気候変動というカタチで
私たちに大きな試練を与えようという時代に、
人類は種として持続可能になるための能力を
自ら放棄しようとしていると言えるでしょう。
※
最近のオトナたちは、子どもに完璧性を求めますから、
大学生ともなれば、もう完全なオトナだと思っています。
けれど、そう言う人の多くは
実際の大学生と接したことがないのだろうと思います。
ハッキリいえば、大学生は子どもです。
もちろん体格の上ではオトナと遜色ないですが、
オトナかどうかを決めるのは体格ではありません。
人格です。
子どもたちはオトナと同等の人権を持っていますが、
人生の経験が足りないことは事実です。
経験の多さは時間の経過と関係しているからです。
そして、子どもは経験が足りないからこそ、
子どもらしくあるし、それを身につけていく過程こそが
青春であり、人生なのではないでしょうか。
ということは、
オトナにとって便利な人間社会に好都合な子どもたちは、
子どもらしくあるという人権を侵害されていると言えます。
社会全体がイキイキとしているかどうかは、
ある特定の年代(具体的に言えば今の日本でいえば50代~70代)が
イキイキとしているだけではダメで、
社会の希望である子どもたちがイキイキとしている必要があるのです。
若者たちがイキイキとしている必要があるのです。
イキイキとした子どもたちは、
社会の都合から言えばバカなこともします。
けれど、一生バカなことをするわけではありません。
それが「バカなことだ」ということを学んでいるだけです。
そういう視点を持つ必要がある。
※
今の日本社会は、あまりにも他者に完璧性を求めます。
そしていちどでも失敗をしたら、社会から淘汰されます。
目立つ人間ほどそうされます。
それは多くの「普通の人々」に希望がなく、
ストレスフルな境遇にあるからです。
自分が押さえつけられ、我慢をしているという感覚があるから、
自分らしく、自由に振る舞ったり、
好きなことをしているように見える人が羨ましく、
その人に何かのマイナス点が見つかれば、
ここぞとばかりに滅多打ちに叩くわけですね。
そうして、全員が低いレベルになるように互いに引き摺り下ろし合う。
人生の中でたった一度しかチャンスはなく、
過ちを犯したら即アウトで、二度と立ち上がれない。
そんな社会に希望に溢れた明るい明日があるはずがありません。
まちがえた人間にセカンドチャンスを与えられる最大の要因は、
「心の余裕」です。
人々に「心の余裕」がないから、
他者を引き摺り下ろそうとするのです。
では、どうして誰もが心の余裕を失ってしまったのか。
そのことが、社会を本気でなんとかする上での
最重要なポイントなのだと、最近わかってきました。
※
「過ちを犯した若者に、セカンドチャンスを。」
いま、すべてのオトナに言いたいのは、そのことです。
人にセカンドチャンスが与えられる人間になりましょう。
それはあなたの心の余裕が決めることです。
そして心の余裕とは、
実は自分の考え方によって生まれるものだということを
知っていく必要があるということです。