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サステナブルでなかった最後の五輪:東京2020から、何を学ぶか

今日は8月9日。長崎の原爆の日ですね。
そして15日は敗戦の日です。
すべての日本人が立ち止まり、深く思索すべき日がつづきます。

こういう機会があることを、
私たちは大切にしなければいけませんね。

さて、昨日、8月8日。
先月の23日から始まった東京オリンピック2020が閉幕しました。

やっと終わったな、という気持ちです。
そして、今、この瞬間に頭の中にあることを書き記して、
後の検証の材料になればと思っています。

私が五輪について書くのも、これで最後でしょう。

コロナ禍という以前から、私は個人的にこの五輪に反対だったので、
始めのころはまったく観ていませんでした。

しかし、後半、子どもたちが観るので少しだけ観ました。
少しの陸上競技と、男子バスケットボールの決勝。
そして閉会式です。

大会そのものについて、何もコメントはありません。
選手たちはそれぞれにベストを尽くし、
たくさんのドラマが生まれたのでしょう。

それは今までの五輪でも繰り返されてきたことです。

私は五輪の閉会式というが大好きで、
それは、普段、人が遊んでいるときにも努力と鍛錬を重ねてきた
アスリートたちが、ほんの束の間見せる安堵と笑顔、そして融和。

頑張ってきた人間だけが共有できる世界がそこにあって、
そも羨ましさが、何よりもスポーツの眩しさなのだと感じるのです。

今回の閉会式を見ていて、やはり100%の五輪ではなかったこと。
だからこそ、この閉会式も、
いつもの気持ちで見られなかったことがとても残念でたまらず、
もしこれが、もっと我慢してでもコロナを本当に乗り越え、
国民も、世界中の人々も、みんなで祝福できる五輪になっていたら、
(そのときはもちろん有観客で)
この五輪は歴史に残るものになっていたし、
閉会式はいつにも増して素晴らしいものだったのだろうと想像すると、
やはり「強行した」結果、
人々を分断したという事実が恨めしく感じました。

五輪の閉会式で感じたそのほかのことを書いておきます。

私が何より衝撃を受けたのは、3年後のパリ大会の
試合会場のコンセプトでした。
パリといえば様々な名所がひしめく地球上でも屈指の観光都市ですが、
その名所をそのまま競技場として使用するというのです。

これこそサステナブルな五輪に相応しい会場のコンセプトだと感じました。

今回の東京2020では、すでに時代が変わりつつあるのに、
今までの古い考えのまま押し進めてしまったという違和感がありました。

90年代くらいの人が考える「興行」のイメージを
そのまま理想型として設定してしまったような。

それは、戦争の戦術が飛行機による空中戦に移りつつあったのに、
大艦巨砲主義のまま超巨大戦艦である大和を作ってしまった
帝国日本の過ちに似ている気がするのです。

その後、戦艦大和はろくに出撃の機会もなく、
最後は沖縄へと特攻に向かう途中で
敵の飛行機の集中砲火を浴びて撃沈されました。

巨体が災いして、格好のマトにされてしまったのですよね。

時代の一歩先を読む力がなく、
今の考えがずっと続くと思ってしまう
日本人の悪いところが出た事例のひとつだと思いますが、
この五輪もそうなんじゃないでしょうか。

そもそも2030年までの最後の10年というタイミングで、
この五輪は開催される予定でした。
ですから、本来ならこれからの新しい価値観を
世界に向けて日本が提案する絶好の機会だったはずです。

もちろん口ではいろいろ言っていましたが、
蓋を開ければ過去最高に金のかかった五輪にしてしまっていたし、
サステナブルとは程遠い代物でした。

けれど、そのコンセプトをしっかり据えてあったなら、
もう少しパンデミックにも親和性があったろうと思いますし、
逆にこの危機はもっと上手に取り込めたかも知れません。

しかし、日本は今までの延長線上の五輪しか想像できなかった。
これから時代は変わるというのに。

残念ながら、東京2020は、
サステナブルではなかった最後の五輪となることでしょう。
そしてパリが、華々しく新しい五輪のあり方を提案するのでしょう。

パリのコンセプトを聞いたとき、
ヨーロッパとの圧倒的な意識の差を感じて、
正直、ガックリしてしまいました。

この大会中、盛り上がる人々からは、
「生きている間に自国開催の五輪はもう見れないから」
という声がよく聞かれました。

しかし、招致をするのに賄賂めいたものが必要になるような
カネにまみれ、透明性に欠く興行を
わざわざ日本で行う必要は、もうないのではないかと思います。

もちろん、五輪のあり方そのものが変化していけば
その限りではないですが。

閉会式では、バッハ氏が菅義偉総理大臣と、
小池百合子東京都知事を表彰する一幕もありました。

確かに2人は五輪を強行するには大きな役割を果たしたでしょう。
しかしそれは国民の声を完全に無視する、
というやり方で成し遂げられたものです。

果たしてこれはどんな遺恨を残すのか。

バッハ氏の長すぎると言われる挨拶の中に、
五輪開催に反対した市民の気持ちに寄り添う姿勢はなく、
まるでそんな人々は存在もしないかのような内容でした。

多くの人は反感を覚えたことでしょう。

五輪は平和の祭典だと言います。
そう名乗っているからこそ、その実態が伴わないなら、
存在の意義を問われて当たり前だと私は考えます。

そして、経済効果を優先するあまり、
人々も、アスリートさえも後回しにする興行の姿勢は、
まちがいなくコロナの感染爆発と、
人々の深い分断を、この日本に生み出しました。

その段階で、平和の祭典たる五輪は、
自ら五輪の意義を破壊したのだと私は思っています。

さて、オリンピックは終わりました。
これから球児たちの夏が始まります。
これ以上感染が増えず、無事に悔いのない夏が送れますように。

そして我々大人たちは、
この五輪から何を学ぶべきなのか、本気で考えましょう。

しっかり反省し総括できないなら、
同じ過ちはまた繰り返されるでしょうから。

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