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主体性を身に付けるための、二つのアプローチ

私は最近、人間が幸せになるために絶対に必要な
「コア」となる要素がなんなのかを発見し、確信に至っています。

もちろん、これは52歳の段階での気づきなので、
10年後、また別のことを考えているかも知れませんが、
今のところは確信を持っています。
そして恐らく、科学的にも証明されていることと思います。

人間を幸せにするコア要素は「主体性」です。
とある調査の結果でも、人間が主観的な幸福を感じる要素は
お金よりも自己決定権であるということが出ています。

つまり、自分が自分の人生の主役として生きているという状態。
これが「幸せ」のコア要素なのだと思うのです。

しかし最近、私がもうひとつ重要視している発見がありまして、
それは「自主性」と「主体性」のちがいなのです。
よく教育現場や子育ての現場、学生スポーツの指導の場などでも、
「自主性」という言葉が聞かれます。

「自主性」と「主体性」。

よく似ていますが、実はまったく別の概念であって、
人が幸せに生きていくために重要なのは、
圧倒的に「主体性」の方なのです。

よく勘違いをされている親御さんが「自主性」という言葉のもとに、
子どもにやりたいことをやらせていれば、きっとうまくいく、
この子は成功するし、幸せになれる、と思いこんでいるようです。

しかし、好きなことをただやらせていたのでは、
ほとんどの子は自分の正しさのモノサシを持てないままで
自信を持つことができません。

また自主性は「やらないことの言い訳」にもなってしまいますから、
多くの場合においては、長い目で見て害悪になる可能性がある。

「自主性」が自分のやりたいことだけをやるという意味であるのに対して、
「主体性」はまるで意味がちがいます。

「主体性」とは、たとえ自分のやりたくないことであっても、
自分の目的を達成するのに必要なことだと思ったならば
その意義を自分ごと化して取り組む能力や、その心のスキルのことです。

人間が向上しようとするとき、必ず避けて通れないのが「努力」です。
中には最低限の努力で目的を達することに
意義を見出している人もいますが、
私たちの生きる意味は「成功」ではなく、「成長」だとするならば、
努力をすることなしに成長することはない
という事実をとらまえるべきでしょう。

要は、いかに物事を自分ごと化して努力できるか、ということが、
その人の人生の豊かさとつながっているのです。

私は何も、しゃにむに努力するのが偉いといっているのではありません。
なりたい姿も、努力の形も人それぞれですから。
ただ「人から言われて」やったり、やめたりしている人生というのは、
幸せになる可能性がほとんどない、ということを言いたいのです。

自分から物事に取り組むとき、それがどんな事柄であろうと、
人は多くのことを学ぶことができ、成長します。
その成功体験があると、人はどんどん挑戦しようとします。

こうして成長の好循環が生まれていくわけです。

「自主性」と「主体性」のちがいと、
「主体性」が幸せな人生のコアであることを理解していただけたなら、
どうやって「主体性」を身に付けるか、ということが気になるでしょう。

これには、大きくは二つのやり方があると思っています。

例え話をしましょう。
緊張をほぐしたい時に、音楽などを聞いて心の緊張がほぐれると、
自然と肩の力が抜け、笑顔になったりします。

このような力学はまるでエネルギー保存則のように
逆向きにも働くことができます。
つまり、笑顔をつくることによって、心の緊張がほぐれるということです。

心が晴れ晴れしているときには、自然と胸を張っているものですが、
くよくよしているときに胸を張って上を向いたり、目を大きく見開くと、
少し気持ちが晴れ晴れしく感じることがあります。

心と体がつながっているということですね。
この法則を、主体性にも転用することができます。

心から先につくって体を従わせるアプローチと、
体から先に動かして、心を伴わせるアプローチです。

今、書店に行って自己啓発のコーナーなどにいくと、
自分の心といかに付き合うかという本で溢れています。
つまり、前者のアプローチが主になっていると言えます。

けれど、体から先にやるというアプローチもあるのです。
ちょっと乱暴に聞こえるかも知れませんが、
有無を言わさずまずやってみる。
疑問に思っても、ひたすらにつづけてみる。

そうすると、いつのまにか意味がわかってくる。
メッセージが見えてくる。そういうアプローチは実在しています。

次のエピソードは、確か禅宗の修行僧のお話を
テレビのドキュメンタリーで見たものだったと思います。

仏門に入って修行僧になる人というのは、
それまでの日常生活の中でなんからの悩みを抱えている場合が多い。
そういう人がお寺に入って何をするか。

ひたすら境内の掃除をするのだそうです。

くる日もくる日も、一心不乱に掃除をする。
そうすると、だんだん体の使い方がわかってきて、
掃除のコツもわかってくる。
それはほうきや落ち葉の気持ちがわかってきたり、
風が溜まってゴミがたまりやすい場所がわかったりと、
いつのまにか環境と対話しているのですね。

ほうきも自分で作らなければいけませんから、
道具をつくりにもいろいろ自分で考え、工夫をしていく。

ここに何かがあるのです。
「ひたすらに掃除をする」ということを通じて、
いつのまにか「自分の頭で考える」という方法を学ぶのです。

会津藩の教えで「ならぬものはならぬ」というのがあります。

こういうのを現代人が聞くと、乱暴だと感じるかも知れません。
理由もなく、有無も言わせず禁止することは
思考停止を招くのでは?ちゃんと説明すべきでは?と。

しかし、手取り足取りなんでも説明してしまうことの方が、
実は思考停止の原因になるのです。
ならぬものはならぬ、と言われた方が、
なぜなのかを自分で考え、心から得心できる理由を創造することができる。

テーマを先に出して、ひたすら繰り返していくことで
自分で考え、行動する「主体性」を身に付けるアプローチというのは、
しっかりと存在している方法論なのです。

心から先にいくアプローチは、まず考え、その考えをまとめてから、
それに基づいて行動していくというものです。

これは素晴らしいやり方ですが、
前者に比べるとちょっとハードルが高くて、
ある程度の覚悟がもとからある人や、
意識が高い集団にしかやり通せない可能性はあるんですね。

例えが適切ではない前提で話しますが、
昔の軍隊は、スパルタ教育でしたね。
とにかく、何かにつけ兵隊を殴っていたそうです。

その組織論の習慣が戦後のスポーツに応用されて
日本のスポーツの指導では、長く「殴る」という行為が存在していました。

では、なぜ軍は人を殴るのか。

それは軍人になった人々が、
元々は普通の人だったからではないでしょうか。
元から兵士になりたい気持ち満々で、
戦いたくて仕方がない人間たちだったなら、
そのような習慣は不要なのかも知れません。

しかし、軍に入るまでは単なる市民だった人間を、
短期間で兵士に作り替えなければいけないわけです。
戦場では上官の命令は絶対です。
そういう「普通の世間」にはないルールに基づいて
人間を兵器に変える方法が、「殴る」ということだったのでしょう。

私はここで軍隊式の殴る指導を肯定しているのではありません。
そうではなく、「どんな人で構成されているのか」ということが、
体からのアプローチと、心からのアプローチの
どちらが適しているかを決める部分がある、ということを言いたいのです。

ある事柄について、たくさん知識を持った人と話す場合と、
何も知らない人と話す場合、当然、話し方は変える必要があります。

それと同じで、どんなアプローチをして
「主体性」に目覚めさせるかは、対象となる相手に合わせる必要がある。

言葉によるコミュニケーションの方が伝わる場合もあれば、
先に体を動かすことで、
徐々に心が理解していくやり方の方がいい人たちもいる。

そういうことなのです。

多くの人が、教育には最高の、誰でもが必ず効果を上げられる
絶対的に正しい方法が存在していると誤解しています。

しかし指導者も指導を受ける側も、それぞれが別の人間なので、
相性も含めてどんな方法がいちばんいいかという答えは存在しないのです。

教育法に絶対はないということ。
主体性を身に付けるアプローチもひとつではないこと。

そして、幸せになるには「主体的」であること。

それらを覚えておくといいと思います。

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