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他者の視座を想像する。現実の意味が変わる。

「人の気も知らないで」という言葉がありますよね。

他者の気持ちを推し量ることができない人に対して、
浴びせる言葉です。

人がどういう意図でその行動や判断をしたのか、ということを
本人ではない人が理解する、ということは簡単ではないわけですが、
それは人間が「絶対」とか「ふつう」というものが存在していて
それが共有されているものだと勘違いしていることから起こります。

例えば、動物のことを想像してみてください。
あなたの家で家族として飼われている猫でもいいし、
サバンナのライオンでもいいのですが。

それらの「気持ち」を想像するとき、
やはり人間は、人間の立場から主観的に想像してしまいます。

ライオンに鹿が食べられそうになると、鹿が可哀想と思ったり、
飼い猫の餌が毎日同じだと、飽きてしまって可哀想とか。
今日は寒いから服を着せてあげようとか。

そういうのはすべて「人間である自分から見た主観」でしかなくて、
おそらく、実際の猫もライオンも、
人間が想像するような感情ではないでしょう。

我が家の二匹の猫は3食ずっと同じ餌だし、当然野菜なんか与えません。
だって肉食ですからね。
人間とは体の構造がちがうから必要な栄養素もちがいます。

彼らは私とひとつ屋根の下に暮らしていますが、
今、新型コロナが流行っていることも、
今日が何月何日なのかも、
自分は地球という天体の上に住んでいることも知りません。

彼にとっては、ただ「今」があるだけです。
それが彼らの視座ということです。

背が低い彼らからしたら、一緒に過ごしている部屋の景色も
きっとまるっきりちがうことでしょう。

例えば鳥を想像してみましょう。

身近にカラスは雀はたくさん見ることができますから、
我々は鳥を当たり前の存在だと思っているはずです。

でも、よく考えてみてください。

彼らは空高く飛ぶことができて、
その空の上から、例えば地上に動くネズミをみつけたり、
水中に泳ぐ魚を見つけたりできます。

しかも、裸眼の目で、です。

近視用と老眼用のメガネを場合によってかけかえている私からすると、
その視力というか、目の能力は驚異的です。

でも、それは空を飛ぶ生き物としては当たり前のことであって、
それを驚異的だと感じるのは、
人間である自分の能力と比べるからですね。

人間である私が、人間のまま空を飛ぼうと想像するから、
あまりの能力の違いに愕然とするのであって、
鳥だって二本の足で歩き回る人間の気持ちを知ることはできません。

歩くことしかできない人間にとって、この地球は巨大ですが、
渡り鳥たちから見たこの地球はまったくちがった印象でしょう。
大洋を泳いで移動する魚たちは、陸上のことを知らないし、
我々は深海のことは詳しくわかりません。

人間の目に見えるのは可視光線だけだし、
聞こえる音の周波数にも限りがありますが、
人間には見えない光線が見える生き物や、超音波が聞こえる生き物たちは、
我々とはまったく別の世界に生きているはずです。

同じ「地球」という星に住みながら、その地球の見え方、感じ方は、
それぞれによってまったくちがうわけなんですね。

しかも他者の感覚を体験することは互いにできません。
感じ取る能力がないのですからね。

つまり、それぞれの存在は主観でしか物事が見られないし、
その視座の数だけ、
この現実世界は多様に存在しているということなのです。
現実は、何個も存在する、ということです。

さて、わかりやすくするために動物で例えましたが、
犬から見たらこの世はこう見える、とか、鳥から見たらこう見える、
という種による大雑把な分け方だけでなく、
実は個別にもちがうはずなんですね。

個体差というやつです。

ここからは人間の話にした方がわかりやすいでしょう。

ひとくちに「人間」といってもいろんな人間がいます。
それは物理的なちがいの場合と、性格的なちがいの場合があります。

両方が影響しますが、ある物事に対する感じ方、解釈の仕方は
あくまでも主観に基づくのであって、
そしてその主観は脳が作り出しているものですので、
実際には現実を感じ取る個体の脳の数だけ、
現実は多様に存在している、ということになります。

ある物体が移動する様子を見て、速いと感じるか、遅いと感じるか。
プールや風呂の温度に関して、冷たいと感じるか、温かいと感じるか。
ある言葉を聞いて大したことない、と感じるか、一大事と感じるか。

それは人それぞれの感じ方によって変わってしまうのですね。

そして冒頭の「人の気も知らない」という現象は、
物事の判断を完全に主観だけで行うときに生じる問題なのです。

それを防ぐには、他者の視座に立つしかありませんが、
物理的には永遠に不可能なことですので、
「他者の主観を想像する」しかないんですね。

それが「思いやる」とか「人の気持ちになる」ということです。
これはあくまで主観の中でやることなので、
結局は独りよがりの域を出ることはありませんが、
しかし、この試みができるのは、脳が発達し、
想像力を持つことができた人間だけなのであり、
その能力が「人間性」というものと深く関わっているのだと思います。

なぜ、このようなことを書くことにしたのか、というと、
地球温暖化懐疑論の方がこんなことを言ったからなのです。

「大気の中の0.03%しかない二酸化炭素が
 地球の温暖化に影響しているとは思えない。」

「常識」とか、「ふつう」というものはあくまでも主観なので、
その人にとってどのようなことが「受け入れられる」ことで、
どのようなことになると「受け入れられない」かはそれぞれです。

しかし、「思えない」というのは、
もうその人個人の内面の問題なんですね。

そして環境の問題、気候変動や温暖化の問題は、
我々人間が、地球の気持ち、地球の視座に立って想像できるか?
というテーマなのだと思っています。

二酸化炭素は0.03%しか存在しない、ということから我々が知るべきは、
我々が暮らすことができる安定した気候は、
それほどまでに微妙なバランスの中で成立しているのだ、という
地球視座の常識です。

つまり、人間視座から、地球視座になれるか?ということが問題なのです。

厳密に言えば温室効果ガスはCO2だけではなく、
一番多いのは実は水蒸気なのですが、
我々が自分たちの努力で減らすことができるのが二酸化炭素だ、
といことなんですよね。

それはともかく、「地球の気も知らないで」になってはいけないのです。
人間にとってわずかに思えることが、
環境にとってはものすごく大きな場合がある。

科学というのは数字です。数字は片方の絶対ですね。
例えばパソコンやテレビの画面などの色は、
RGB(赤・緑・青)という光の三原色で構成されています。
このパーセンテージは絶対です。例えばRGBすべてが100%なら、
光の色は白になるはずです。

しかし、光を発する機械にも個体差があるし、
何より、我々の目と脳に個体差があるので、数字に絶対があっても
感じ取り方はすべて主観です。

二酸化炭素濃度は数字であり、科学の領域です。
しかし、それをどう感じるのかは我々の感性です。

温室効果ガスによる温暖化の結果、災害が起こることも物理現象ですが、
それをどう感じるかも、我々の主観ですね。

世界各地で起きている山火事や洪水を見て、
「酷いことだなぁ」とだけ思うのか、
地球がバランスを崩して悲鳴を上げている様に見えるか。

つまり、たくさんの数字や情報に自分で接して、
自分の常識が、他者の常識とはちがう可能性があることを
しっかり把握しておくことが重要なのです。

それに気づいたとき、現実の景色が変わって見えるからです。

温暖化に関して言えば、それは「地球の常識」ですね。
地球の常識、地球の気持ちを推し量る思いやりを持てるかどうか。
そういうことです。

他者の視座を知れば、現実の意味や見え方が変わる。
その意味で、最後に「気候正義」の話をします。

気候正義(Climate Justice)というのは、
もともとは先進国が排出したCO2による温暖化被害を
CO2排出量の少ない途上国が被るという不正義の意味でした。

しかし今では世代間の気候正義も注目されています。
つまり、いま年齢の高い人ほど生涯でたくさんCO2を排出し、
その恩恵を受け、その被害を被る時間が短く、
今の若者やこれから生まれてくる未来世代は
生涯でのCO2排出量が少ないのに、
より過酷な気候危機の地球の中で、
より長いこと生きなければならない、という不正義ですね。

科学的には、今、この瞬間に
二酸化炭素の排出実質ゼロが達成されたとしても、
二酸化炭素は100年以上も残存するので、
今世紀中に0.6℃の気温上昇が起こるとされています。

国連が決めた気温上昇の目標は2030年までの気温上昇を
産業革命前との比較で2℃、できれば1.5℃までに抑えることで、
いま、すでに1.2℃上がっています。

今すぐ脱炭素を実現しても、ここから0.6℃上がるのですから、
気候危機は我々が生きている間に収まるということはないことが
もう今の時点で確定しているのですね。

その現実をアタマに入れた上で、
我々は世代間の話し合いをしなければなりません。
現在世代が出すCO2で、これからの世代は
どんどん苦しい環境で生きることが決まっているのです。

先日、道端で、可愛い孫の赤ちゃんを抱いたお婆さんを見ました。
優しい笑顔で赤ちゃんを見つめていました。

その微笑ましい光景の中にもたくさんの意味があって、
世代間の気候正義の問題が含まれていることを
見てとる感受性が必要です。

現実の景色の見え方が変わっているか?ということですね。

その腕に抱かれた希望にあふれた命が本当に愛しいのであれば、
なすべきことは祈ることではなく、
数字としての現実を変えていくことなのです。

それは、地球を思いやる気持ち、
地球の視座に立つところから始まります。

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